属性、会社、組織、立場、地域、国籍などが先で個人として人を見ない習慣

仕事や日々の生活全てにおいて、なぜここまで
「皆が言うから」
「皆がそうするから」
「今のご時世で」
「世間的には」
という言葉が多く聞かれるのか・・・

個人対個人で物を考える時
「皆が」「世間が」「周りが」
という言葉は出てこない。

私は、人と接する時は
仕事でもプライベートでも
集団としてでなく個人として見る。
なので、同じように
「他人を見る時個人として見る」
という人が好き。
本音で向き合えるから楽。

大きなくくりで行くと例えば
「何処どこの国の人はこうだから」
という批判にも違和感を感じる。
私も「この国の政府のやり方が」と言う意味で
国名を出す事はあるけど。
「この国の国籍を持つ人は一人残らずすべて
こういう考え方でこういう性格で
日本人の敵だから皆滅びればいいのに」とか
そう言うのを聞くと・・・

その国の政府のやり方がこうだからいうのと、
日本に長年住んでいて問題なく暮らしている
身近にいる誰か国籍が違う個人と
一緒にして語るのは違うのではないかと思う。

「あの人は表面上普通に見えるけど
日本国籍じゃないって知ってた?
あんまり関わらない方が・・・」
というような事を聞くと、言っている方の人と
あまり関わりたくなくなってくる。

日本人であっても、
全員が同じ思考、性格ではないし
日本政府の考えイコール日本人でもない。
私は、むしろそうは思われたくない。

それと同じような事で、
日本の中でも、出身地、育った地域、環境、属性など
何かによって「あの人は〇〇だから・・・」
という事がよく言われている。

その内容によって、
その人個人の性格や考え方に関わらず
尊敬される事もあれば軽蔑される事もある。
〇〇だから自分とは合う合わないという
判断材料になる。

合う合わないというのは確かにあるけど、
個人対個人なら
エネルギーの質だったり考え方によって
合う合わないが決まるのではないかと思う。

合わない場合も
滅びろ消えろ死ねじゃなくて
合わなければ棲み分ける、離れるでいいと思う。
自分が正義で相手が悪だという事もない。

細かい所では
何処どこの学校に行ってた人だから
何処どこの会社の人だから
職業が何々だから
未婚か既婚か
子供がいるいない

そういう項目で、自分と違う属性の人を
ことごとく合わないと決めていると・・・
個人対個人の付き合いはいつまでたっても出来ないし
本当に自分と合う人とはなかなか出会えない。

分断を作るために、人を個人でなく集団単位で
見るように仕向けたのも
今の世の中のピラミッドシステム。
離れたいならそこに乗らない事だとも思う。





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