最果ての地にて愛をつなぐ 

自営業者の日常雑記

以前書いたオリジナル小説を一本にまとめました。全て完全なフィクションであり、現実に存在する人物や団体とは何の関係もありませんが、今の世の中の状況について、表で報道されている情報とは真逆の私の主観もかなり入っています。なので不快に思われる方は回れ右してくださいね。

ここから本編

ホームに滑り込んできた電車は、京都が終点で折り返し発車。
一斉に人が降りていき、一番前に並んでいた梢は電車内を素早く見回す。
後ろに並んでいた人は多く、すぐ満員になりそうだ。
出来る限り人と向き合いたくなくて、ボックス席より二人掛けの席を探した。

空いている二人掛けの席見つけ、梢は窓側に座った。
その後すぐ、隣の空席に女性が座る。
梢は、その人から顔を背けて精一杯窓の方を向いた。
ここまで来る途中でも、すれ違う人の中の何人かが見せた、露骨に不快感を表す表情。

外でさえそうなのだから密になる電車内ではもっと、マスク不着用に対して不快に思う人が多いだろうと想像できた。
(本当はそんなこと、絶対おかしいのに)
おかしいと思う一方で、何か言われるのを無意識に恐れている。
梢は、そんな中途半端な自分が嫌だと思う。
それなのに頭の中では心配がグルグル回りだした。

見られたら何か言われるか、嫌な顔をされて無言で立たれるか。
そうなったら満員電車の中で自分の隣だけが不自然に空く。
車内の全員から、一斉に非難の目が向けられる。
まだそんなことが起きたわけでもないのに脳内でそれを想像してしまい、緊張感で全身が硬くなった。
嫌な汗が噴き出してきて、脈拍が早くなっているのが自分で分かる。
(落ち着け。大丈夫)
心の中で自分に言い聞かせると、窓に額を押し付けて外を見た。
梢は、この騒動は明らかにおかしいと思っている。
でも堂々とそれを言えるほどの勇気は無かった。
せめてもの抵抗で、感染対策には従わないと決めている。

以前この電車に乗った時に何度か見たことがある街の景色が、静かに窓の外を流れていく。
梢はここ半年近く、電車にもバスにも乗っていなかった。
今年2020年、コロナ騒動が始まって以降はどこへ行っても「感染対策」
全員がマスクを着用しているという異様な光景に、電車やバスに乗るのが怖くなっていた。

高校生の頃梢は、電車に乗って少し遠くまで行くのが好きだった。
その頃は一人旅と言っても日帰りで行ける範囲。

二泊三日の旅行をしたのは、一年数ヶ月前に高校を卒業してから就職までの間に一度だけだった。
その時は思い付きで岡山に行き、行ってから民宿を探し、そこに泊まった。
個人宅のような民宿の美味しい食事と気さくなもてなし、他の宿泊客との会話、気の向くままに歩いた街、岡山城。
電車に乗って窓の外を眺めていると、一年数ヶ月前の楽しかった旅行の思い出が心をよぎる。
そして、それが何か遠い過去のことのように感じられた。
わずか数ヶ月で、世の中の様子はあまりにも変わってしまった。

今日は本当に久しぶりに、電車に乗る事を決めて朝から出かけてきた。
一人暮らしのアパートからすぐの三条京阪駅まで歩き、京阪電車に乗って七条まで。
天気もいいので、そこから少し距離のあるJR京都駅まで歩いた。
何処に行くかは昨日大まかに決めていたので、まずは新快速で行ける終着駅までの切符を買う。

観光地は人の姿が消えてガラガラなのに、通勤ラッシュにあたるこの時間、駅は人であふれていた。
恐ろしい伝染病が流行っているから自粛をしろと言われているのに、満員電車は相変わらず。
この事に対しても梢は、どう考えてもおかしいと感じる。

今日出かけてきた事に、何かはっきりとした目的があるわけではなかった。
ただ遠くに行きたかった。
(今日遠くに行っても、何も変わるわけでもない。日本中どころか世界中今はこの状況。逃げられるとこなんか無い)
頭ではそう思っていても、梢はどうしても出かけたくなった。
無職になったばっかりで節約しないといけない時なのにと思いながら、それでも理性より感覚の方に従った。
遠くに行く事で何かから逃げているのか、単に気分を変えたいのか、自分でもよく分からない。
ただどうしても、じっとしていられなかった。
じっとしていたら、何か大きなものに押しつぶされそうな気がした。

社会人になって二年目で起きたコロナ騒動。
そのせいで予想外の失業。
仕事に行かなくなって二日目。
なのにもう何ヶ月も過ぎたような気がしていた。

2019年、梢は地元和歌山の高校を卒業した。
高校を卒業したら都会に出て働いてみたい。
一人暮らしも始めたい。
それはずっと前からの夢だった。

家族は、両親と三歳年下の高校生の妹。
家族の事も田舎での暮らしも嫌いではなかったけれど、もっと違う世界を見てみたいという気持ちが大きかった。
大学に進学するより、早く社会人になって自分でお金を稼ぐという体験をしてみたかった。
地元ではほとんど就職先が無いので、通勤時間はかかるけれど家から通える範囲でどこか就職先を探すか、街に出て一人で暮らすか二択しかない。
都会に出ようと考えた時、東京まで出るのはちょっとハードルが高い気がした。
同じ関西の中でと考えて、旅行で何度か来た事がある大好きな場所、京都を選んだ。
京都での一人暮らしを決めた時「旅行で行くのと住むのは違う」と両親に言われたけれど、そう強く反対される事もなかった。
最終的にはアパートを借りる初期費用は親が出してくれて、保証人になってくれた。

梢が借りた部屋は、全部で20部屋ほどの小さめのアパートの3階。共益費込み家賃4万円のワンルーム。
住人用のコインランドリーが下の階にあり、管理人夫婦が1階に住んでいた。
小さな流しとユニットバスが付いている四畳半の部屋は、パイプベッドと折り畳み式の机、椅子を置いたらいっぱいになった。
エアコンは付いているし、電気ポットと電子レンジを持ってきたので湯沸かしや温めくらいはできる。
自炊したい人なら不満かもしれないが、料理もあまりやったことがない梢には十分だった。

田舎にいた頃の自分の部屋より狭くても、ここは梢にとって初めての自分の城。
大通りから少し奥まったところにあるので程よく静かで、それでいてコンビニもスーパーも飲食店も近くにいくつもある。
田舎では考えられない便利さだった。
子供の頃から田舎しか知らない梢は、都会に憧れが強かった。
それでもコンクリートジャングルというのもまた苦手で、都会でありながらちょうどいい感じに古い街並みや自然の風景が残っている京都は最高だと思えた。

梢の初めての就職先は、市内の百貨店。
高卒で入れたのは幸運だったけれど、どうしても合わなくて三ヶ月で辞めてしまった。
初日から何となく居心地の悪さを感じて、ここで続くかなと不安になった。
その嫌な予感は当たってしまう。
接客は好きな方なので、仕事そのものが嫌というわけではない。
社内の細かい決まり事、厳しい上下関係、お客様の前以外では皆が不機嫌な様子、人の悪口をよく耳にすることなど、その雰囲気がどうしても無理だった。
中途半端に長く居て仕事を覚えた頃に辞めるより、早い方が迷惑もかからない。
ちょうど試用期間が終わる前、続ける気が無い事を会社に伝えて辞めた。

辞めてからすぐ次の仕事を探し始めた。
次に見つけた仕事は、京都らしい落ち着いた雰囲気のカフェでのバイト。
親には、仕事変えてしまってからの事後報告。
電話で伝えた時、これを聞いてよく思っていないのは伝わってきた。
けれど、とりあえず無職にはなってないということで納得してくれた。
我慢ができずにすぐ辞める自分もどうかと思ったが、やっぱり無理だった。
我慢して仕事が嫌いになるよりも、辞めて好きな場所を見つけたかった。

仕事を変えて数日で、梢は今度の仕事場は自分に合っていると感じた。
その感覚は、数ヶ月経っても変わらなかった。
このカフェは、梢の両親より少し年上の60代の夫婦の経営。29歳になる娘さんもスタッフとしてここを手伝っている。
マスターとママは若い頃音楽をやっていて、同じバンドのメンバーだったらしい。
二人とも愛想が良く、お客さんからも人気があった。
夫婦仲も良くて、このカフェの仕事を二人が楽しんでやっているのが伝わってくる。
娘さんの名前は唯といって、梢より10歳年上だった。けれど、見た目はもっと若くまだ学生のように見えた。
色白で、ストレートの長い黒髪を綺麗に編み込みにしている。
目も鼻も口も顔のパーツが全部小さ目で、スッキリと整った顔立ちは母親似だった。
京美人というのはこういう人の事かと梢は思う。
マスターは彫が深い顔立ちで色が黒く、外見的にはママや唯とは対照的だった。

梢は、身長160センチの唯より5センチ位背が低い。
小柄で童顔。クルクルと良く動く丸い目をしていて、ショートカットの髪を少し明るい色に染めている。
もうすぐ20歳になる年齢よりも幼く見られて、高校生に間違われる事はよくあった。
それでもここの家族には「可愛い」と褒めてもらえてうれしいと思っている。
今は特に付き合っている人もいないので彼氏募集中だ。

このカフェは基本家族経営の店で、バイトで入っているのは梢一人だけだった。
マスターもママも見た目通り明るく穏やかな人柄。唯も優しくて気さくで、それでいてしっかり者で頼れる人だ。
前の会社での煩わしい人間関係に疲れていた梢には、それが何より嬉しかった。
毎日朝10時から店を開けて、夜の9時まで営業。
梢が入るのは夕方の6時半まで。間に30分の休憩もあった。
平日休みの基本週6勤務で、一ヶ月の手取りは15万円前後。
まかない付きで食費が節約できるし、特に高価な物を欲しがる欲望もない梢の生活費としては十分な額だった。

この店は、8人座れるカウンターと4人座れるボックス席が3つ。珈琲や抹茶を中心に、甘い物や軽食のパンメニューもある。
土産物の陶器のコーヒーカップや皿、小物なども売っていて、カフェのメニューで出しているお菓子も売っていた。
季節ごとの店内の飾りつけ、メニューの変更なども一緒に考えさせてもらえたので、そういう事が大好きな梢は仕事に行くのが楽しみだった。
服装の規定はなかったけれど、何となく店の雰囲気に合う物を選んで着る。それもまた楽しみの一つだ。

京都は盆地独特の蒸し暑さで真夏は厳しい。
そんな暑い時期の7月に勤め始めて、やがて秋を迎え、冬を迎えた。
店のメニューも仕事内容もすっかり覚え、三人とは仕事以外でもよく一緒に過ごした。
常連のお客さん達とも親しくなっていった。
勤めだして半年経った時、ここで楽しくやっている事をラインで親に伝えたら安心してくれた。
知り合いの居ない京都で見つけた、自分の居場所。

梢は、出来るならずっとここで働きたいと思っていた。

コロナ騒動が始まったのは、その冬の事だった。
年末年始、テレビでその話題が出始めた。
その頃はまだ、長くても二ヵ月か三ヶ月経てば収まるものと思って気にしていなかった。
ところがその後に出された緊急事態宣言。
騒ぎが収まるどころか、急激に加速していった。
春になり鴨川沿いは美しい桜が満開で、例年通りなら京都を訪れる人も増える頃。
それが今年の春は、毎年観光客でにぎわっていた京都の街から人の姿が消えた。

梢は、京阪三条駅に近いアパートから自転車で仕事に通っていた。
カフェのある場所は五条河原町から少し東に入ったところなので、途中街の様子を見ながらゆっくり自転車で走る。
走りながら、去年との違いを肌で感じていた。

梢が家を出るのは朝の9時半過ぎで、通勤の人が最も多い時間からは外れている。
この時間帯は、通勤の人よりも京都に観光に来ている人の方が多く見られる。
カフェに勤め始めた頃は、真夏の暑い時期だったにも関わらず観光客は多かった。

7月には毎年、京都で最大の祭りである祇園祭が開催される。
この時の人の多さ、熱気、賑わいは凄かった。
特に山鉾巡行の前日、宵山では最高の盛り上がりを見せる。
梢も去年は、仕事が終わってから祭りを見に行った。
賑やかで華やかな祭りの雰囲気を存分に味わい、気分は高揚した。

8月のお盆にはカフェのお客さんに招いてもらい、マンションの屋上から五山の送り火を見た。
山に浮かび上がる炎の文字は幻想的で、消えるまで飽きずに眺めた。
夏が過ぎれば紅葉の美しい秋の観光シーズン。
この頃観光客の多さはピークを迎え、冬の寒い時期になってもまだかなり人は多い。

そして春にもまた観光シーズンを迎えるので、カフェのメニューも春に向けて皆で新しい物を考えていた。
常連のお客様も交えての、花見の計画もあった。

(まさかこんな事になるなんて・・・・・・)
今年の春も来年の春も同じように訪れるものと、梢は信じていた。
ところが今は、街に人の姿が見られない。
あんなに多かった観光客の姿が消え、街は死んだようにガランとしている。

仕事に行く人は相変わらずで、通勤の満員電車もそのままらしい。
それなのにどうしてと梢は思う。
3月頃から、カフェに来るお客さんの数は目に見えて減っていった。
予定していた花見も、その他のイベントも全て中止になった。
それでも最初のうちは、今までずっと忙しくて出来なかった細かい所をこの機会にと掃除するなど、何かとやる事はあった。

4月に入ると、店を開けていてもあまりにも人が来なくて早めに閉める事が多くなってきた。
梢があがる時間前には、もう閉店準備に入るという日が続いた。
テレビでは毎日「今日の感染者数は・・・・・・」という話題ばかり。
何処どこで感染者が出たというニュースが延々と流れている。
(インフルエンザと同じで新型コロナも暖かくなれば感染減るのでは?)と思っていた希望的観測も、4月になって完全に打ち砕かれた。

周りでは、暇すぎて休業する店が増えてきた。
そしてとどめを刺すような緊急事態宣言。
相変わらず観光客が来ないだけでなく、地元の人達までコロナを恐れて外出しなくなった。
(街が死んでしまった)
去年までのあの賑わいを知っている梢は、この状況を見るたび胸が痛んだ。
それでも自分はまだ京都に来て間もない。
長年京都に住んでここで商売をしているマスターとママ、唯が、今どんな気持ちでいるのかと思うともっと辛くなった。
クビだとは言われていないけれど、この状況で自分がここでいつまでも働いているのも悪いような気がしてくる。
そして状況は変わらないまま5月になった。

唯が、ここの仕事を辞めて、これからよそで就職する。
その話を聞いたのもこの頃だった。
高校を出てからずっとこの店で働いてきて十年以上になるので、これを機会によそで働いてみるのもいいかなと思ったと、唯は淡々と話した。
言葉だけ聞いていると何でもない事のように聞こえたが、梢には唯の本音が分かった。
去年の夏から一緒に仕事をしてきて、唯がこの店に愛着を持っている事がいつも伝わってきたから。
家族の会話の中でも店の将来の話が出ることがあって、梢も聞いていた。
マスターとママがゼロから作り上げたこの店を、唯が継ぎたいと話していたことがあった。
(唯さんはここの仕事を、本当は辞めたくないのだろう)
梢の思っている事が顔に出ていたからか、唯は努めて明るく話した。
「そんな顔せんといて。この世の終わりやないんやし。また普通に戻ったら、私も店に戻るわ」
(普通に戻ったら・・・・・・)
そんな日が本当に来るのか?
今の街の様子を見ていると疑わしいと、梢は思った。

マスターとママは年齢の割には、オンラインでの商売に関してもよく知っていた。
二人ともSNSもやっている。
店にほとんどお客さんが来なくなった時、店に置いている品物やお菓子を通販で売り始めた。
梢もその梱包や発送、SNSでの宣伝などを手伝っていた。
コロナ騒動以前と比べると半分以下に減ってしまったとはいえ、店にもお客さんがゼロではなかったので毎日店を開けて営業も続けていた。

周りでは、店の前に目立つ看板を出して「感染対策万全です」をアピールしているところが多かった。
お客様に対しても「マスクの着用、検温、手指のアルコール消毒 ご協力お願いします」と、でかでかと書いて貼っている店が多い。
営業時間を短縮したり、休業したり、言われている感染対策に従えば補助金をもらえたりもするらしい。
このカフェではそういう事は一切せず、すべてがそのままだった。
梢にもそれが本当に嬉しく居心地が良かった。
この店では、店の雰囲気もサービスの一つという考え方だ。

梢も、コロナ騒動以降よく見かけるようになったメニューの看板より大きな感染対策看板を見ると、違和感しか湧いてこなかった。
店の最大の売りが、メニューでも接客でも雰囲気でもなく、感染対策だと言っているように見える。
梢は、最初の職場を辞めたのは正解で、この店に来て本当に良かったと思っていた。
百貨店でどういう決まり事が増えているかネットを通じて知っていたので、そこに居たらとても我慢できそうにないと思った。

梢は、一人暮らしを始めた時に部屋が狭いのでテレビは置いていなかった。
仕事場でも、ここの家族は誰もテレビを観ない。
観たいものがあればYouTubeで、好きな番組を観る習慣のようだった。
梢も自然とそれに習うようになり、テレビを観たいという気にならなくなっていた。
そのせいも大きかったのか、コロナ騒動には最初から違和感があった。

たまにYouTubeで、目立つところに上がってくるテレビの放送内容を見る事があると、街中で人が沢山倒れていて病院はパニック、死体の山という地獄絵図。
海外でのそういう状況を流している。
それと同時に、日本では今日感染者が何人増えました!と繰り返し流す。
感染対策を頑張らなければ日本は大変な事になるとか、このままでは数十万人死者が出ると、専門家を名乗る人が言っている。
実際それでどうなっているかというと、5月になっても街中で人がバタバタと倒れていく様子はなく、救急車が街を走り回ることもなかった。

自分の周りで誰か重症になって苦しんでいるとか、亡くなったということは聞かない。
それでも検査を受けて結果が陽性になれば、何の症状も無くても感染者ということで隔離されるらしい。
元々体の丈夫さには自信があったので、病院にも検査にも近寄らないでおこうと梢は思った。
「無症状感染」とか、それが一番怖いとか、どう考えても意味不明としか思えない。
けれど世の中では、危険な感染症が大流行しているという雰囲気だけがどんどん広がっていた。
マスクを着用していないと周りから白い目で見られるという事が、今では当たり前になっている。

飲食店でも物販の店でも入り口には消毒液が置かれ、レジの前や座席テーブルにアクリル板が置かれ、ビニールの仕切りがぶら下がった。
三密を避けなければと言って、店内のレイアウトを変えて座席の間隔をあけるか席をいくつか潰すのが普通になった。
満席での売り上げで毎月の収入を得ていた側からすると、とんでもない話だ。
元々そんなに広くない店では、間隔をあける事がそもそも不可能だった。
かといって座席やレジの間すべてにビニールやアクリル板を設置すれば、異様な雰囲気と圧迫感が出てしまう。

この店の中では、去年からずっと何も変わらない。
ただテレビの中の世界では、梢が今までに見た事も無いような大きな異変が起きていた。

5月の下旬から唯が店に出てこなくなって、約一ヶ月が過ぎた。
市内の、ショッピングモールの中に入っている飲食店で働いていると聞いた。
カフェの二階がここの家族の自宅になっているので、いつでも会える距離にいると言えばそうなのだけれど。
梢が出勤してくる時間には唯はもう家を出ているし、帰りも遅かったのでほとんど会える事はなかった。

マスターとママは以前と変わらない様子で、常連のお客さんの何人かはほぼ毎日店にやってきていた。
梢がこの店を大好きでいる事も変わらなかった。
ただ少しずつ、やる事が無くなってきたなと感じていた。
店の中にあった物はほとんど売りつくしてしまったため、その宣伝のためのSNS発信や梱包や発送の仕事ももうない。
コロナ騒動以前は、ランチの時間帯はいつも満員で、外に並んでもらわないといけない状況だった。
それ以外の時間もお客さんが途切れるという事がなく、夕方以降も仕事帰りのお客さんで店は賑わっていた。
四人でやっていてもかなり忙しく、あっという間に時間が過ぎるという毎日。それが普通だった。

ところが今は、スタッフが一人減って三人になっても十分回る。
手持無沙汰な時間が増えていた。

これ以上ここに居てもいいものか。
梢はだんだん悩むようになった。
マスターもママも人がいい。
よほどの事が無ければクビだとは言わないだろう。
でも今の状況を見ていると、どう見ても二人で十分というのはよくわかった。
好意に甘えていてはいけないような気がする。

梢がこの店に来て、ちょうど一年が過ぎようとしていた。

6月に入って半月近く悩んだ末、梢は今月いっぱいでバイトを辞めたいという事を伝えた。
理由は、田舎に帰らないといけなくなったからという事にしておいた。
もちろん嘘だったけれど、本当の事を言えばマスターもママも引き留めてくれるような気がして、それに甘えてはいけないと自分に言い聞かせた。
最後の勤務の日に二人は、梢が一番好きだった店のメニューを食べさせてくれて、お菓子をお土産に持たせてくれた。
田舎までの電車代という事で、給料とは別に二万円も。
その心づかいも本当に嬉しく、嘘をついた罪悪感もあったけれど、無難な辞める理由として他に思いつかなかった。
また京都に出てくる事があったらいつでも連絡してこいとも言ってくれた。
唯にはこの日も会えなかったけれど、連絡先は交換出来た。
本当は辞めたくなかったけれど、大好きになれる仕事場で一年間居られた事はいい経験だったと心から思えた。

梢は、これからどうするかは決めていなかった。
本当に田舎に帰ろうと思えば帰って、遠くても通える仕事を探すという道もある。
アパートの更新までにはまだ半年以上あったが、一人暮らしの経験もした。
これで満足して一旦地元に帰るか、それともまたバイトを探してもう少し京都にいるか。

考えながら数ヶ月ぶりに母親にラインしてみると、コロナ対策をしっかりやっているかという話題ばかりだった。
梢の母親は48歳で専業主婦。
勤めていたカフェの経営者夫婦より一回り以上若かったが、情報源として新聞テレビしか見ない人だった。
町役場に勤める父親も同じような感じで、家族は高校生の妹も含め三人とも、テレビで伝えられる感染者数などコロナ情報をもれなくチェックしていた。
感染対策万全を合言葉に、一致団結して取り組んでいるという。
「不要不急の外出は避けマスク消毒を欠かさないように」と、テレビと同じ事を家族から言われると、梢はドッと疲れた。
その話題はスルーして、元気で頑張ってねと伝えてやり取りを終えた。
争いたくはないが、コロナ対策万全の生活に付き合いたくもない。
梢は仕事を辞めた事は親に言わずに、もう少し京都に居ようと決めた。

今まで週一休みでずっと働いてきたので、久しぶりに時間は出来た。
預金残高を確認すると、働かなくてもやっていけるのは約三ヶ月、ギリギリまで切り詰めれば半年近くはいけるかもしれない。
仕事を辞めた翌日の朝は、部屋を綺麗に掃除してシーツやカーテンなど大きな物も久しぶりに洗濯。
沈みそうな気分をスッキリさせた。
好きだった仕事を辞めてしまった寂しさは、後になって余計に込み上げてくる。
でも自分で決めた事に今更悩んでも仕方がない。
前を向いていこうと思った。

休みになったといっても、体力は有り余っているので部屋でゆっくりする気分にもならない。
掃除が終わったら、梢は出かけたくなった。
今日から7月で、午前中から外はかなり暑い。
でも夏は大好きなので、この程度の暑さなら気持ちがいいと感じる。
天気もいいし、仕事も探しがてら外を歩いてみようと家を出た。

しばらく歩いてみると、街の様子が去年までとは一変してしまった事をあらためて思い知らされる。
昨日まではこの時間すでに仕事に入っていたので、ここまで気が付かなかった。
一人で歩いている人も、自転車、バイク、車の運転をしている人までマスクを着用していない人は誰もいない。

カフェではマスターもママも来るお客さんも、感染対策を気にしている人など一人もいなかったので、梢もそれに慣れていた。
テレビの情報さえ見なければ、実際に街の中を見ても、具合が悪くなっている人やバタバタ倒れている人がいるなどの異変は感じない。
ただ、マスクをした人しかいないという異様な光景に変わったというだけ。
それと、街中の目立つ場所に感染対策に関する看板、多くの店の前にも感染対策に関する看板。
公園に行ってみてもショッピングモールに入ってみても駅地下に行ってみても、感染対策に関するお願いのアナウンスが絶え間なく流れている。
「マスクの着用をお願いします」
「手指の消毒をお願いします」
「並ぶ時は距離を取ってください」
「商品に手を触れないでください」
「買い物は最低人数で短時間で済ませて下さい」
「会話はお控え下さい」

歩いている人の雰囲気も、なんだかピリピリしている。
梢がマスクをしていないからか、露骨に嫌な顔をして避けていく人も何人もいた。
人と会話するわけでもないのに、一人で歩いている人も運転している人も全員マスク着用が当たり前になっているらしい。
暖かくなれば感染者数も減ったという流れになるかもと思ったのは甘かった。

季節は真夏になろうとしているのに、状況は変わらない。
気温が30度をこえている中でマスクをするのはかなり根性がいる事だと思われるが、皆がそれを守っている。
どこかで働こうと思えばこの異様な習慣に合わせないといけないのかと思うと、梢は絶望的な気持ちになった。

三条河原町から四条河原町、祇園、八坂神社、円山公園内、二年坂、三年坂、清水寺。
今日街に出てみるまでは、観光客の多い場所の飲食店か土産物屋あたりで、どこか求人がないかとぼんやりと考えていた。
歩いてみるうちに、気持ちはどんどん沈んでいった。
あんなに観光客が多かった場所が、どこも閑散としている。
勤めていたカフェの現状や周りの様子で、ある程度見当は付いていたけれど、思ったよりずっと酷かった。
それに加えて、見る人全員がマスクをしているという奇妙な光景。

気分を変えようと四条河原町まで戻り、そこから新京極通りへ。
大好きな映画館へ向かった。
以前来たのは今年入ってすぐの冬だったので、半年ぶりだ。
コロナ騒動が始まってすぐのその時はまだ、映画館には普通に入れた。
ところが映画館入り口までくると、以前とはすっかり様子が変わっていた。
感染対策に関する注意書きの大きな立て看板。
入り口には消毒液が置かれ、マスクを着用していない者の入場禁止。
入る気も失せて梢は引き返し、そのまま帰宅した。
そういえば朝も昼も食べていなかったが、食欲すら消え失せていた。

部屋に戻って、自分一人の空間の中にいると少し心が落ち着いた。
食欲も出てきたので、買い置きしていたレトルトのカレーライスをレンジで温めて食べた。
食後にはカフェでもらったお菓子と珈琲の入ったマグカップをテーブルに置いて、好きなユーチューブ動画を観る。
動画の中には去年までと変わらない風景があった。
自分だけの空間で映像を楽しんでいると、今見てきた現実の方がフィクションのような気がしてくる。
でもあれは紛れもなく現実なのだ。
あと一ヶ月か二ヵ月か、それとも半年か、もしかしたら今の状況が変わって元に戻るかもしれないという淡い期待もある。
出来るならああいう状況の中で働きたくない。
家に帰るという道もない。

人が多い京都市内だから余計に感染対策がうるさく言われているのだろうかと、梢は考えた。
(もう少し田舎へ行ったら、もしかしたら少しは違うかも。田舎では仕事は無い気がするけど、人が少ない分この異様な雰囲気と圧迫感は薄れてるといいけど・・・・・・)仕事探しはとりあえず保留にして、時間はあるのだからどこか旅行に出て他の地域の様子を見てみようと思いついた。

綿密に計画を立てるのは好きではないので、大まかに行く方向を決める。
高校生の時に行った旅行と同じように、あとは行ってから考えようと思った。
この状況で宿泊先がその場で探せるかという心配もあったので、泊まりが無理だった場合日帰りで帰れる範囲の場所を選んだ。

いつもよりかなり早く起きて電車に乗ったせいか、窓の外を眺めているうちに眠ってしまった。
目が覚めた時には、電車内はかなり空いていた。
梢の隣の席に座っていた女性も、どこで降りたのかもういなかった。
満員電車は苦手なので、今の感じにほっとする。
窓の外を過ぎてゆく景色も、いつの間にか山や田畑が多くなってきた。
通勤の人達に混じって今朝電車に乗った時の、嫌な緊張感が薄れていく。
どうせ終点まで行くのだから、今どこなのか気にする必要もないしまた寝てしまってもかまわない。
見知らぬ土地に旅行に来たというワクワクする気分を楽しみながら、梢は窓の外を眺め続けた。

終点で梢が電車を降りる頃には、残っている人も少ない。
見る人全員がマスクを着用しているのは何処に行っても同じだったが、京都市内に比べると人の数が多くない分、異様な圧迫感も少なかった。
早朝に出かけてきた時はまだ涼しかったが、今はかなり暑い。
時計を見ると午前10時を少し回っている。
普段は朝起きるのが遅めなので朝食を食べなくても平気だったが、今日はもうお腹がすいてきた。
せっかく旅行に来たのだから全国チェーンのどこにでもある店より、この土地にしかない店に行きたいと思う。
まだモーニングの時間だからどこかでコーヒーとパンか、麺類でもいいなと思いながら歩き始めた。
すれ違う人が皆マスクをしているのはここに来てもやっぱり変わらず、駅や店の前に消毒液が置いてある事も変わらなかった。
げっそりした気分になりかけたが、人混みでないだけマシだしせっかくここまで来たのだから楽しもうと、梢は気を取り直した。

今日は天気が良く、見上げれば青空が広がっている。暑いけど気持ちがいいと思えた。
風もあるので、歩いていて辛いほどの暑さでもない。
盆地独特の京都の蒸し暑さよりは、ずいぶん爽やかな感じもする。
時々飲食店を見かけても、感染対策の看板がある時はパス。
なかなか入りたい店が無いと思いつつ、空腹を我慢して諦めずに20分くらい歩いた。
駅前から真っ直ぐに続く大通りから少し細い道へ。
車もあまり通らないような静かな路地奥で、梢は個人経営らしい小さな店を見つけた。
昔ながらの喫茶店という感じ。
鉢植えの花が店の前に沢山あり、その横で猫が昼寝をしている。
ものすごく気持ちよさそうに寝ているので、起こさないようにそっと横を歩く。
営業中と書かれた木製のプレート、黒板に書かれた手書きの文字にも、温かさが感じられた。
感染対策の注意書きも特にないので大丈夫かなという直感で、梢は扉を開け中に入った。

「いらっしゃいませ」
店主らしい年配の女性が、穏やかな笑顔で梢を迎えた。
綺麗な白髪を、飾りの付いたバレッタでまとめている。
着物をアレンジして作ったような独特の衣装の小柄な女性は、この店の雰囲気に似合いすぎていて、何か物語の中から出てきた人のように感じられた。
木製のドアを押し開けると、大好きな珈琲の香り。
中に一歩足を踏み入れると、パンを焼いている香ばしい匂いがした。
会話の邪魔にならない程度の小さ目のボリュームで、心地いいBGMが流れている。

大通りでさえ外は人通りが少ないのに、驚いたことにこの小さな店の中は満員だった。
十席ほどあるカウンターは満席。
四人用のボックス席が一つだけで、そこにはすでに二人座っていた。
「満員ですね」
すごく好きな感じの店だったので、しばらく外を散歩して空いたころにまた戻って来ようと思ってそう言った。
出ていこうとした時、四人用のボックス席に座っていた女性が梢に声をかけた。
「良かったらここで一緒にどう?」
「俺そっち行くし、ここ座って」
連れの男性の方が立って、女性の横に移動してくれた。
「すみません」
梢は頭を下げ、好意に甘える事した。
オーナーの女性が、氷の入った水とおしぼりを出してくれる。
そう言えば入り口でマスク着用も検温も言われなかったし、消毒液の入れ物は店内のどこにも見当たらない。

ボックス席の二人は、梢の両親と同年代くらいかと思われるカップルだった。
(夫婦かもしれないけど何というのかすごく・・・)
梢は頭の中で言葉を探した。
(ラブラブな感じ。でも全然、不自然じゃない。なんかいいなあ)
梢の両親は、とくに激しい喧嘩をするほど仲が悪いわけではなかったけれど、一緒に外出するようなことはまずないしスキンシップは皆無、会話も多くなかった。
父は仕事で、母は家事や町内の用事で忙しく、いつ見ても疲れているようだった。
実際二人とも「忙しい」と「疲れた」が口癖だったし、それを見ている自分まで疲れたような気がしてくることがよくあった。
コロナ騒動が起きてから家族で感染対策について意見が合い、団結しているというのが何とも皮肉だ。
けれど、学校に行っていた頃の先生や、近所の大人たちを見ても、この世代の人達というのは大体そんな感じだったので、それが普通だと思っていた。

年代は多分近いのに、この二人から感じられる雰囲気はそれとは全く違っている。
二人とも今のこの時間を心から楽しんでいる、生き生きとしたエネルギーが伝わってくる。
向かいに座っているだけで、何か元気になれそうな気がした。
少し長めの髪で眼鏡をかけた細身の男性と、美しくて華奢な女性。
二人とも服装からしてサラリーマンではなさそうで、話す言葉が関西人ではないアクセントだった。

梢は接客業だったわりに人見知りなところもあるのだが、見知らぬこの二人と一緒に座っている事に居心地の悪さは一切感じなかった。
二人は、梢が前にいても気にする風もなく飲み食いしながら会話し、梢はメニューを見ていた。
空腹は限界だったので、一番ボリュームのありそうなモーニングのメニューを頼んだ。
歩いてきて喉が渇いていたので、冷たい水が最高に有難い。
コップの水を半分以上一気に飲んで、やっと人心地ついた。

「旅行?」
「そうなんです。京都から来ました」
「京都の方が観光地って感じするけどね」
「違うとこ行ってみたくなったんで」
「住んでたらそうだよね」
二人は時々自然に話しかけてくれるし、変に詮索もしない。
カウンターにいる人達も、店主と会話したりお互いに会話したりしながら朝の時間を楽しんでいる様子。
皆常連客なのか。老若男女バラバラ。誰一人、仕事前に慌ただしく朝食を済ませるサラリーマンらしい様子はない。
時間的にも仕事に行くにしては遅すぎる、昼前の時間だった。
(なんかめちゃくちゃいい感じ)
梢は、この店を見つけただけでも旅行に来てよかったと感じた。

「お待たせしました」
薄茶色で厚めの陶器の皿。そこにたっぷりと盛られた料理と、珈琲が運ばれてきた。
ふんわりしたオムレツ、トマトの赤とキュウリの緑が鮮やかなサラダ、半分に切って焼いた玉ねぎにはオリーブオイルとハーブ、スパイスがかかっている。色よく焼けた厚切りトースト。
最初に一口飲んだ珈琲は、少し濃いめで酸味より苦味が強い。梢の好みの味だった。
料理も素晴らしく美味しい。
周りにいる人の存在も忘れるくらい、冷めないうちに夢中で食べた。

「ここのは美味しいよね」
食べ終わった頃に、向かいに座っている二人が話しかける。
「本当にめちゃくちゃ美味しいです!」
正直な感想だった。
「ありがとう。良かった」
狭い店内で会話は全部聞こえるので、店主が梢達の方に人懐っこい笑顔を向けて言った。
半分残っている珈琲をゆっくりと飲み干す。
この店の中では、すべてが心地よかった。
流れている音楽。
美味しいコーヒーと食べ物。
店に置かれている花や観葉植物。
温もりのある木製のテーブルや椅子、厚みのある陶器の食器。
よく磨かれた窓からは気持ちよく自然光が入り、店内はとても明るい。
そして何よりも人。店主もお客さんも皆何でこんなにも暖かい雰囲気があるのか。

もう他の場所へ行かなくても、居られるならここで飲み物やパンをお替りしながら数時間でも滞在したいと梢は思った。
扉の下にある猫用で出入り口から、さっき外に居た猫が入ってきた。
猫がカウンターの方へ行くと店主が水の皿と食べ物の皿を出し、猫はゆっくりと食べ始めた。
「このお店の子、可愛いですね。さっき外に寝てましたよね」
「うちの子や無いねん。通ってくるんやけど」
猫は堂々と食事をしていて、お客さんも猫を触ったりしているが平気らしい。
何処に住んでいるのか不明の野生の猫だけれど、よくここに来るという事だった。
猫用扉があるのは、昔猫を飼っていたがその猫が老衰で死んでしまい、扉はそのままにしておいたところこの猫が入ってくるようになったとのこと。
だからといって所有して飼おうとはしないところが、何となくいいなと梢は思った。
店主が言うには、猫自身が野生の方が生きやすいと思っているのが伝わってくるからということ。
その感じは梢も、猫を見ていると何となくわかった。

しばらくすると今度は、外から犬の鳴き声が聞こえた。
(え?カウンターの奥?犬なんて居た?)
梢は自分が入ってきた入り口だけが店の出入り口と思っていたので、反対側から犬の鳴き声がして驚いた。
よく見ると奥にももう一つ、勝手口のような扉があり、その外に犬が来ているらしい。
野生の猫の次は野生の犬だろうかと梢は思う。
店主が扉を開けると、フサフサとした真っ白い長毛の巨大な犬が入ってきた。
犬は、猫のところまで行って同じ皿から水を飲んだ。
店主は皿に水と食べ物を足す。
大きさは随分ちがっても、二匹はとても仲がいいらしい。


「俺らが遅いし迎えにきてくれたわ。行こか」
カウンターに座っていた若い男性が立ち上がる。
隣に座っていた年配の男性も立ち上がった。
「ママ。ごちそうさん」
男性は、足元に置いていた袋を持ち上げて店主に渡した。
「ありがとう。よーけ入ってんなあ」
「今朝穫れたばっかりやで」
店主が袋の中身をカウンターの隅で開けて見ている。
色鮮やかなトマト、形は曲がっているけれど瑞々しいキュウリ。
梢はさっき食べた料理を思い出した。
トマトは味が濃くて、キュウリはまだ表面のトゲが残っている新鮮さだった。
以前勤めていたカフェも食材にはこだわっている方だったが、さすがにここまで新鮮で美味しい物は食べた事が無かった。
(けどもしかしてこれが飲食代?)
梢は急に心配になった。自分は野菜など持っていない。
「大丈夫。お金でいけるから」
「初めて見たらびっくりするよね」
前の席の二人が、梢の考えた事を一瞬で読んだように話しかける。
それにもまた驚いた。いったいこの人達は何者なのかと思う。

梢はこの店に入った時から、もう一つ何か他の場所と違うところがあると思っていた。
大抵の店には普通に置いてあるものが、この店には無い。
その一つがレジだったというのには今気が付いた。
そしてもう一つ、ここには時計が無い。
そういえば外の看板にも、営業時間は書いてなかった。

「このお店って時計が無いんですね」
梢は初めて来た店なのに、なぜかここでは何でも平気で聞ける気がした。
「時計?ああそういうの置いてた時も昔はあったなあ」
店主は、時計という物の存在など忘れていたという感じで答えた。

そういうばこの人は腕時計もしていないと気がつく。
つい最近まで梢はカフェに勤めていたので、店を開ける時間、モーニングの時間、ランチの時間と区切って、出すメニューも変えないといけないので時間は常に気にしていた。
マスターもママも、常連のお客さんには少し融通をきかしたりする人だったけれど。
それでも一応時間は決まっていた。
(ここって何から何まで他と違う)

「この奥が家なんやけど、そう言うたら家にも時計ないわ」
店主は笑いながらそう言った。
「ここは開ける時間も適当やで」
カウンターに座っていたお客さんが言う。
「適当に開けて適当に閉めるんや」
「それで誰も困らへんしな」
外は歩く人もまばらで暇になっている店も多いというのに、この店は満員だ。時間をきっちり決めないこのやり方を、好きだという人が多いからこそ流行っているのだろうと思える。

「今日はどこか泊まり?」
向かいに座っている女性が梢に聞いた。
「泊まるとこ見つけて適当に泊まるか、泊まるとこ無かったら日帰りで帰るか決めてなくて。私もてきとうですね」
店の皆んなが笑う。
「それやったら俺らのとこ民宿やで」
帰ろうとしてさっき立った若い男性が梢の方を向いて言った。
「そうなんですか。嬉しい。ここの近くですか?」
「歩いて20分ぐらいかな」
「行きたいです。一泊っていくらなんですか?」
「素泊まりで3000円、食事2回付き5000円」
泊まるとしたら予定していた額より少し安いくらいだった。
「行きます!」
梢はすぐに決めた。
さっきの野菜といい、ここの店に集う人達の雰囲気といい、心地良さしか感じない。
この感覚は大事だと梢は思う。

食事と水分補給を終えた巨大な犬は、まだ猫と戯れている。
「ファルコン。行くで」
年配の男性の方が声をかけると、犬がゆっくり立ち上がってこっちに来た。
あまりに大きいので最初はびっくりしたけれど、人懐っこい性質の犬のようで初対面の梢にも友好的だった。
「ファルコンなんですね」
古い映画が好きな梢は、映画ネバーエンディングストーリーに出てきた生き物の名前だとすぐ分かった。
そういえば似ている。
「なんかほんまに飛びそう」

部屋に着いた梢は、荷物の中身を鞄から一旦全部出して、置いてあるカゴの中に入れ直した。
荷物は少ないとは言っても、泊まりの可能性を考えて2日分の着替えと洗面用具、水筒、お菓子、スマホ、筆記用具、スケジュール帳、タオル、財布、読みかけの本、雑誌など全部出して並べてみるとけっこうあった。
泊まっても2~3日と思っていたので、スーツケースを持ってくるほどでもなく普通の肩掛け鞄なのでかえって重かった。
まだ時間は早いし出かけようと思うけれど、この時間から部屋に入れて荷物を置けるのはありがたい。

ここは全部で8部屋あるそうで一人旅の人が多く、この日は梢以外にも5人宿泊客がいるらしい。
古い民家を改造して作った木造の建物で、どっしりした木の扉を開けると玄関にあたる広めの土間がある。
そこから先は靴を脱いで一段上に上がる形で、二階に向かう階段があった。
けっこう急な階段で、慣れないと少し怖い感じがした。
二階に上がると広い廊下の両側に、宿泊客用の部屋の扉が4つずつ並んでいる。
梢の泊まる部屋は一番手前、階段寄りの角部屋で窓が二つあった。
窓の外には遮る建物もなく、遠くまで景色が見渡せる。
窓を2つとも開けると、気持ちよく風が通った。
この部屋の窓は大きく、天井が高めで解放感がある。

部屋はフローリングの六畳間で、木製のベッド、小さな木製のテーブルと椅子が置いてあり、エアコンも付いている。
共同浴場もあるらしいが、部屋で済ませたければユニットバスもあり、小さな冷蔵庫と電気ポットもある。
クローゼットも大きめで、長期連泊の人にはきっと嬉しいだろうと思われる部屋だ。
一人暮らしの自分のアパートよりずいぶん豪華だと思って、梢は大いに満足だった。
食事つきの2泊分の料金を先に払ったが、これで二泊一万は安いと思う。
部屋に着いた時、焼き菓子と冷やした麦茶を出してくれて、それもとても美味しかった。
もう一つ気が付いた事は、さっき行ったカフェと同じくここにも時計が無かった。
そして、ビジネスホテルでも旅館でもほぼ絶対に置いてあるテレビがここには無かった。
インターネットの使用は不自由なくできるとの事なので、普段からテレビを観ない梢にとっては何の問題もない。

ここに着くまでの途中、今日会ったばかりの二人と自然に話が弾んだ。
最初この二人は親子かなと思ったがそうではなかった。
年配の男性の方は、喜一といってここのオーナー。
豊かな白髪で、口髭と顎髭を生やしている。
この年齢の人にしては珍しく背が高くて、がっしりとした体格だった。
服の上からでも分かる筋肉の盛り上がり、背筋を伸ばして歩く姿から、年齢による衰えは全く感じられない。
体も声も大きくて豪快な感じの人だけれど、不思議と威圧感は無くて話しやすい。
親の代からこの地域に住んでいて数十年前に、空いていた古い建物を買い取って民宿を始めたということだった。

若い男性の方は、健太といって梢より少しだけ年上。
喜一と同じくらい上背があって、体格はもう少し細いけれど筋肉質。
特別にイケメンというわけでもないけれど人懐っこい笑顔がとても魅力的で、すごく感じがいい人だと梢は思った。
健太は施設の出で親はいない。十代から一人暮らしだった。
その頃からずっと飲食店で働いてきて、三年ほど前にこの民宿に転職。住み込みで働いている。仕事は主に料理を担当していた。

この二人の関係は、オーナーと従業員というより対等な友達のように見えた。
実際、社員として健太が雇われているのでもなく、その日その日売上の中からお金をもらっているとのこと。
今の世の中で一般的な会社の形態とは、何か違う感じだった。
健太は喜一に対して、一応さん付けで呼ぶ程度で敬語すら使わない。
でもそれが何とも自然な感じで、喜一もその方がいいと思っているのが分かった。

この二人以外に、ここにはもう一人住み込みの少年がいた。
梢より4歳年下のその少年は侑斗といって、今年からここで働いていている。
梢達が着いた時、侑斗が留守番でここに残っていた。
侑斗はこの年齢の少年の平均的な体格よりは少し小柄で細身。
それでも筋肉はしっかり付いていて、よく日に焼けて健康そうに見える。
健太と同じ施設の出身。
健太がここを紹介したということだった。
侑斗と喜一、健太の間も、やっぱり対等な感じで、一応健太さんと呼びはするけれど敬語も無し。
家族のような、友人のような、それでもお互いにあまり干渉はしないあっさりした関係のようだ。
それぞれが自由に自分の得意な事をやっていて、それでうまく成り立っている。

民宿の仕事はやる事が多い。
駅からここまでの客の送迎、客室と共有スペースの掃除、畑の世話、外の掃除、洗濯、料理、後片付け、花や観葉植物の世話など。
外での、野菜や自家製漬物の販売もしているので、三人で回してもけっこう忙しいらしい。
コロナ騒動が始まって一時期は少し暇になったが、また客足が戻ってきて今ではほぼ満室近い日が続いている。
健太がここで働き始めたきっかけは、旅行に来て客としてここに泊まったことだったというのだから、人生何が起きるか分からないものだと梢は思った。
梢を部屋まで案内した後、喜一は民宿の裏の畑で収穫した野菜を車に積んで売りに行くと言っていた。
健太は、これから夕食の仕込みに入るらしい。

梢は、鞄に必要最低限の物だけ入れて、部屋の鍵をかけて出かけた。
鍵は昔ながらの作りとものだったが、なんだか鍵さえかけなくても大丈夫そうなほど、のどかな雰囲気の場所だと思えた。
ホテルのフロントのような場所も無く、客室の棟とスタッフ住居は隣り合っている別棟で、宿泊客は勝手に鍵を持って出入り自由だった。
夕食は6時で、部屋で一人で食べたければ運んでくれる。
皆と食べたければスタッフ住居側の一階が食堂になっている。
風呂もそちらにあり、一般家庭にある風呂場よりも少し大きめの風呂で、宿泊客が順番に使うらしい。
1時間毎で予約できるので5時から風呂を使う予約をし、夕食は皆んなと食べたいから6時に行くと伝えてきた。
もし道に迷った時は電話してくれたらいいと言われているし、安心して出かけられる。

せっかくだから色んな場所に行ってみたいと思い、梢はさっき三人で歩いてきたのとは逆の方向に向けて歩き出した。
ここに来る前に軽く下調べをしていて、こっちに行けばたしか海が見られる方角だった。
しばらく歩いていくと、一番暑い時間帯の炎天下にも関わらず途中すれ違う人はやっぱり皆んなマスクを着用しているし、途中で見かける店の前にも感染対策の立て看板が目立つ。
今朝行ったカフェ、さっき三人で歩いてきた間は、そんな事は忘れていたのにまた思い出して現実に引き戻された気がした。
そういえば、よく思い出してみると三人で歩いている間も、すれ違う人がマスクを着用している事には変わりなかった。
でも不思議なことに、喜一も健太も人並み以上に声が大きいしノーマスクで三人で話しながら歩いているのに、誰にも注意されないどころか嫌な顔をされた事もなかった。
何と表現すればいいのか、すれ違う人達からは自分達の姿が見えていないのではないかと思えた。
梢は、一人で歩いている時ですら、マスクをしていないことでもろに嫌な顔をされたことがある。
なのに三人でいる時は平気とは、一体何が違うのだろうと思った。
夕食は何かなあなどと考えながら歩いていると、風に乗って塩の香りがしてきた。海岸が近い。

下調べをした時に確認した通り、ここは海浜公園になっていた。
例年ならもう少し賑わっているのかもしれないが、この状況なので人の姿はまばらだった。
公園内にある店も閉まっている所が多い。
通勤の人が多い駅近くでマスクをした人々の集団に揉まれるよりは、人の姿が滅多に見られないくらいの方が心が落ち着くと梢は感じた。
一番暑い時間帯なのもあり、ここまで歩いてきただけでかなり汗をかいた。
自動販売機を見つけてアイスコーヒーを買い、木陰を選んでベンチに座る。
木陰にいると強すぎる日差しは遮られ、海から来る潮風が心地よかった。

梢は泳ぐのはあまり得意ではないけれど、海の景色を眺めるのがとても好きだった。
ここの景色は、子供の頃育った高い山に囲まれた村の景色とも、低い山が連なる京都の景色ともまた違う。
視界を遮るものが無く遠くまで広がる景色を眺めるのは、何とも言えない解放感があった。
ゆっくりとコーヒーを飲みながら、周りの景色を楽しみ、公園にいる鳩達を見る。
鳩も一羽ずつ微妙に模様が違うんだなと思いながら、観察しているとなかなか面白かった。
少し離れたところには、猫が歩いているのも見える。

しばらくゆっくりした後、せっかくだからこの辺りの写真を撮ろうと思って梢は立ち上がった。
鞄の中からスマホを取り出す。さっき民宿の部屋で少し充電してきたからまだ大丈夫そうだ。
撮りたい場所を探しながら海岸の方に向かって歩いていくと、木陰のベンチに座って休んでいる若い男性の姿が目に入った。
元々かなり人が少ないので、一人誰か見かけるたびに(あ、人が居た)という感じで視線がいく。
相手にとってもそれは同じのようで、男性の方も梢に視線を向けた。
どちらからともなく自然に笑顔になって、軽く頭を下げて「こんにちは」と挨拶を交わした。
世の中の状況が今のようになってから、マスクをしていない人というのがとにかく珍しい。
この男性がノーマスクだったことから、普段は人見知りなところがある梢でも、何となく同士という気がして平気で挨拶することができた。
ただでさえ人が少ないところで、自分と近い考えなのかもしれないと思える人に会えるのは本当に嬉しい。
相手にとってもそうだったようで、気さくに話しかけてくれた。
「暑いですね。旅行ですか?」
「そうなんです。今日からなんですけどこの近くの民宿に泊まるんです」
男性は、大きくて綺麗な目が印象的な整った顔立ちで、男の人としては少し小柄でスラリとした体型。
梢よりはいくらか年上に見えた。少し前までカフェで一緒に働いていた唯さんくらいの年齢かなと梢は思った。
イケメンが目の前に現れて緊張しなくもなかったが、男性の言葉のアクセントは梢と同じ関西弁で、何となく親しみが持てた。
(この辺りの人なのかな)
「僕も旅行でこの近くの民宿に居るんですけど、もう1週間目なんですよね」
「そうなんですね。なんかこの辺りってホッとするって言うか、いい感じですよね。私も今のところ二泊の予定なんですけど、もうちょっと伸ばしたいかなあって思ってました」

話している中で、泊まっている民宿が同じところだったという事が分かった。
ほとんどの旅館や民宿が休業してしまっている中、開いているところ自体少ないので、考えてみればそれほど凄い偶然というわけでもなかった。
民宿の風呂が、銭湯ほど広くもないが半分が露天風呂になっていてすごく素敵だという事、食事が素晴らしく美味しいということ、スタッフも泊まっている人も気さくでいい感じの人ばかりだということを聞いて、梢は今日の夕方が待ち遠しくなった。
ここに数日もいると、世の中の状況が今どうなっているかなど気がついたら忘れている感じだと彼は語った。
梢は1日目で既にそれを感じていたので、早くも宿泊日数を延ばそうかと考え始めた。
宿泊先が同じということもあって初対面なのに話が弾み、20分くらい話し込んでから、男性は部屋に帰るということで「また後で」と言って先に帰って行った。
梢は海岸線をゆっくり歩き、好きな場所の写真を撮って木陰があれば座って少し休み、また歩いて、見知らぬ土地の散策を思う存分楽しんだ。
思い出したようにスマホで時刻を確認してみると夕方の4時を過ぎている。外は少しだけ涼しくなってきた。
風呂を予約してきた時間には戻らないといけないし、今からゆっくり帰ればちょうどいい頃かと思う。海岸線に沿って歩いたので道に迷う心配もなく、梢は景色を楽しみながらゆっくり引き返して民宿へ向かった。


今日会った男性に聞いていた通り、ここのお風呂はとても素敵だった。
昔ながらの銭湯のような造りのお風呂で、床と壁のタイルは綺麗に磨かれている。
少し縦長な浴室内に浴槽は手前と奥に二つあり、一人で入るには贅沢な広さだった。
ここを貸し切りで一時間使えるのだから嬉しい。
梢はシャワーで体を洗った後、手前の浴槽に浸かってゆっくりと体を伸ばした。
バスソルト入りで、ペパーミントの精油が少し入っていると書いてある。
暑い日に外を歩き、ほてった体に心地良い爽快感は最高だった。
ちょっと大袈裟だが、生きてて良かったと思わせてくれる至福感がある。
手前側半分は屋根付きで、植物の透かし柄が入った透明な仕切りのビニールカーテンを引き開けると、奥にもう一つの浴槽がある。
こちらは手前の浴槽より小さめの石造りの風呂で、丸い形の浴槽。
高めの壁に囲まれているけれど、壁の柄が森林を思わせる色合いで浴槽の周りに色々な観葉植物が置いてあるため、まるで外にいるような雰囲気を味わえる。
2メートル四方ほどの天井は開いていた。今は日が長い夏の季節なので夕方でも外はまだ明るく、浴槽に浸かって見上げると青空が広がっているのが見える。夕方の時間帯なので、これから少しずつ太陽が西に傾いていく。空の色の変化を眺めながら、もうそろそろ1時間近く経ったかなあと見当をつける。
梢の頭の上くらいの高さの窓も開いていて、外からの風が気持ちよく抜けていく。
浴槽のヘリの平たい石の上に頭をのせて真上を見上げていると、何とも不思議な感覚が心地よかった。

後少しだけ遅ければ露天風呂から美しい夕焼けが見られただろうし、夜になれば満天の星が見られるかもしれない。明日は少し遅めの時間に風呂に入ってみようと梢は思った。
大満足で風呂から上がると、脱衣場も一人にしては十分に広く、天井近くに取り付けられた扇風機の風が気持ちよかった。
この感じも、昔ながらの銭湯を思わせる。
京都にはまだそういう銭湯がけっこう残っていて、梢は時々行っていた。
自分のマンションのユニットバスでシャワーだけの時と違って、体が芯から温まる感覚が好きだった。

風呂場のすぐ外には宿泊客用のコインランドリーもあって、風呂に入る前に洗濯物を放り込んでおくと、ちょうど上がった頃には乾燥まで終わっている。
これもまた、特に連泊の人には嬉しいサービスだった。着替えを多く持って来なくても滞在できる。
ドライイヤーで髪を乾かして新しいTシャツとスカートに着替えた梢は、そのまま夕食の場所に向かった。風呂で1時間くらいは過ごした気がしたので、だいたい6時くらいかなと思う。もし早ければ待ってればいいかと、ここにいると全てがてきとうで大丈夫という気がしてくる。
食堂になっているスタッフ住居側の一階は、食事の時間になると庭に面した窓やドアが全部開けられている。
外の景色を楽しみながら食事ができるという事だ。
夕方になって少し涼しくなり、風が心地よかった。
入口近くの外には、これまた昔懐かしい感じの陶器で出来た豚の蚊取り線香入れが置かれている。
天然素材の除虫菊で出来た蚊取り線香の、柔らかく自然な香りと立ち上る煙が夏を思わせた。
外にもテーブルが一つ置かれていて、外の方が気持ち良ければ料理の皿を持って行って外で食べる事も出来る。
一応扉はあるものの、室内と外が一つにつながっているように感じられる。
寒くなくて天気のいい日はいつもこうなのだと、そういえば聞いた気がすると梢は思い出した。
低めの天井から食卓の上に下がった電球と、部屋の四隅の床に置かれた間接照明の柔らかい灯りが室内を照らしている。
今はまだ外が明るいが、夜になるとこれが幻想的な雰囲気を醸し出す。
室内は、12畳ほどの広さの部屋の真ん中に木製の大きなテーブルが置かれていて、テーブルの真ん中には瓶の水にさした素朴な草花が飾られている。
今日ここで食事をするのは梢と後二人で、他の人達は部屋で食べるらしい。
一泊だけの宿泊客があれからまた二人増えて、今は満室になっていた。
梢は散歩から戻った時他の客とすれ違ったが、皆笑顔で挨拶をしてくれる感じのいい人ばかりだった。
ここでは、最初に部屋に入る時はもちろん食堂に入る時も、検温だの消毒だの気持の悪い「お願い」は一切無い。
消毒液の入れ物すら置いていなかった。スタッフでも宿泊客でも、マスクを着用している人など一人もいない。
一番乗りだった梢が好きな席に座ってくつろいでいるうちに、新鮮な野菜や魚を使った料理が次々とテーブルの上に並べられていった。

木製のどっしりしたテーブルの上に並んでいるのは、夏野菜の浅漬け、新鮮なトマトと胡瓜の色が美しいサラダ、玄米のピラフ、梅干しや昆布の入った白米のおにぎり、焼き魚、魚のフライ、貝の味噌汁、卵焼き、野菜炒めなど。
取り皿が置いてあって、来た人から勝手に食べていいということなので、梢は少しずつ取り皿に入れて食べ始めた。
せっかくだから全部の料理を食べたいと思い、一種類の物の量は少しずつ。
料亭やホテルの料理のような豪華さや、凝った料理珍しい料理はは一つもないのに、どれも素晴らしく美味しかった。
海が近い事もあって新鮮な魚介類が豊富で、野菜も裏で作っていたりするから新鮮なのだろうと梢は思った。
材料が良ければ、むしろシンプルな料理法や味付けの方が素材の味が生きる。
今朝のカフェでのモーニングといい、ここの料理といい、何でこんなに美味しいのか。美味しいだけでなく、食べると身体中に活力がみなぎってくるように感じられる。
梢は、田舎にいた頃に祖父母が作ってくれた家庭料理を思い出した。
素朴で力強い食物の味には、きっと食べた人を元気にしてくれる何かのパワーがあるに違いないと思う。
そういえばここの食器の感じが、今朝行ったカフェで見た物と似ている。
そんな事を考えながら食事を楽しんでいると、今日の昼間会った男性が食堂に入ってきた。

ここで一緒に食べる人の一人が、今日会ったばかりとは言え顔見知りなのは嬉しかった。
そのすぐ後に、今度は女性が一人食堂に入ってきた。
背が高く細身で色が白く、ベリーショートの髪が良く似合うその女性は、化粧っ気もないのにとても綺麗でどこか中性的な魅力があった。
今日ここで一緒に食事をする三人が揃ったところで誰からともなく一応自己紹介が始まった。
そういうば男性の方とは今日話したけれどお互いに名前も知らなかったと、梢は今になって気がついた。
名前を知らなくても話は弾むわけだし問題はなかったなと、今日昼間のことを思い出した。

男性の名前は慶といって、年齢は30歳。
言葉のアクセントが関西弁で最初から親しみを感じた通り、住所は奈良だった。
女性の方の名前は薫と言って、去年、東京からこの近くに越してきたということだった。
薫は37歳。梢にとっては二人とも知り合って間もないし、自分よりけっこう年上だったが、なぜか緊張することもなく気を使うこともなかった。真ん中に置いてある料理も、誰からともなく直箸で取り始めた。
感染対策とやらを気にするような神経質な人がいないのが、梢には嬉しかった。
別料金を払えばアルコールも飲めるので、慶と薫はビールを飲んでいる。

自作のアクセサリーや鞄を作って売る事で生計を立てている薫は、東京から旅行でここを訪れたのをきっかけに、この近くに越してきたとのことだった。
東京へ行ったのは社会人になってからで元々出身は関西なので、この辺りに住むことには抵抗はなかったと言う。
「育ったのが田舎だったから東京ってずっと憧れだったんだよね。だから一回は住んでみたくて。でももう十年も住んだからいいかなって」
梢は、自分も都会に憧れて京都に出てきて暮らしているのでその気持ちは分かった。
「昔田舎に居た頃は、田舎ってあんまり好きになれなくてね。何か近所の人が皆んな知り合いで噂話とか多いし、自分のやってること何でも知られてる感じなのよね。どこどこの誰々がどこの大学に受かったとかどこの会社に就職したとか、誰が結婚したとかしてないとかうるさいんだよね」
それも分かる分かると梢は大きく頷きながら聞いていた。
梢の育った場所でも、やはりその点は同じだった。
田舎のいい所は、自然の景色が美しく空気が澄んでいて、車の排気ガスや騒音、人混みのストレスが無いこと、事故や犯罪などが滅多にないこと。子供の頃からずっと田舎にいるとそれは当たり前なのだが、都会に出て暮らすようになり、たまに帰ってみるとその良さが分かる。

慶は、高校で教師として働いていたが春に仕事を辞めて、今は家庭教師のバイトなどをして暮らしていた。
生徒達にも無理を強いる馬鹿げた感染対策が始まった時に、ここには居られないと思ったと言う。
今の世の中では、ほとんどの職場がそういう状況なのだ。
そこで働いている限りはその方針に従うか、さもなければ辞めるか、この二択しかなかった。
梢は、自分の働いていたカフェがどれほど恵まれた場所だったのかを改めて思った。
マスターやママや唯、常連のお客さん達の顔を思い出すと、辞めたことを後悔しそうになる。
でもそれも自分で決めたことだ。
世の中の今の状況にうんざりしているのは梢も同じなので、慶が安定した仕事を捨てた気持ちも本当によくわかった。
京都でも、夏の暑い中マスクをつけた生徒達が通学していく集団をそういえばよく見かけた。
コロナ騒動が始まるのがもう一年二年早ければ自分もその中に入っていなければならなかったのかと思うと、他人事とは思えず観ていて辛くなった。
もしそうだったら、きっと学校に行きたくなくなっていたに違いないと思う。
ただでさえ、訳の分からない規則が多い学校という所はあまり好きではなく、早く社会人になって自分でお金を稼ぎ自由に暮らしたかった。

今日初対面の慶や薫とすぐ意気投合して話が弾むのは、ここにいる人が皆共通して持っている意識、それがすごく近いからだと梢は感じた。
京都では、マスター、ママ、唯、あのカフェに来ていた常連のお客さん達。
あの空間だけは、外の世界と違っている感じだった。
梢がその話をすると、二人ともすごくいい環境だねと言って楽しそうに聞いてくれた。
気を使って辞めてしまったのは残念だけど、その状況ならまた戻りたければ戻れるでしょうとも言ってくれた。

「今はほとんどの人がテレビの情報信じてるとしても、中にはそうやない人もいる。まだ希望あるやろ」
慶がそう言って、梢も薫もそうだねと同意した。
「この近くはね、何かそういう人が多いみたいなんだよね」
この近くに引っ越すことを決めたいきさつを、薫が話した。
最初は数年前に一度、同じ関西出身の同級生の紹介でここを知り、一泊だけの旅行に来たことがきっかけだった。
一度来ただけでここが大好きになり、だんだん宿泊日数を増やしながら毎年訪れ、一昨年は一ヶ月滞在。
その時にはもう引っ越しを決めていた。
一昨年まではデパート催事やイベントでの販売が多かったので東京にいるメリットもあったが、オンラインで注文を受けて発送する形がほとんどになった今は東京にいる意味もなくなった。
なので住みたい場所に住もうと決めたという事だった。
「東京より家賃もずっと安いしね。何かここは、普通の田舎と違うって言うのかなあ。私が昔感じたような煩わしさは全然無いんだよね」
環境がいいとか安く暮らせるなどの田舎に住むメリットはありながら、隣近所からの干渉という煩わしさが無いならそれ以上にいい事はない。

薫の住所はここから自転車で20分ほどの借家で、越してきてからもここに時々数日間泊まるのは自分へのご褒美、息抜きだと言う。
梢は、そんな生活が心底羨ましいと思った。
慶も、仕事を辞めようと決めたあたりからこの近くへの転居を考えていて、オンラインでの仕事とこの近くでも出来そうな仕事を何か考えて来年には引っ越すかもしれないと話した。
薫も慶も、自分一人で出来る職業を持っている。
「ええなあ。私は自分で出来ることってなんも無いし羨ましいわ」
ひがんでいるわけではないが、正直な気持ちだった。
「出来ることなんも無いってカフェで一年も働いてたわけやろ?」
「そやけど雇われやし」
「関係ないって。俺もつい最近まで雇われやったけど自分のやりたい方向に行くって決めたら何とかなる。それは皆んな一緒や」
シンプルに考えれば、誰もが自分の得意なことを提供し合い、暮らしていくということが出来るのではないか。
二人の考え方はその方向らしく、色々話しているうちに梢は元気が出てきた。
ここで働く人達も、ここに泊まっている人達も、素朴で美味しい料理も、ここでの会話も、全てが明るいエネルギーに満ちている。

最初見た時はちょっと量が多いかなと思った料理は、三人で綺麗にたいらげてしまった。
真夏でもこの時間になると外はけっこう涼しく雨も降っていないので、三人は飲み物だけを持って外のテーブルに移動する。
ここも自由に使っていいらしい。
外に出て見上げると、空に散らばる星と綺麗な半月が見えた。

さっき三人が食事をしていた場所と、もう一つ奥のスペースはつながっていて、スタッフのための休憩所、さらに奥の厨房まで全部オープンだった。
この造りもなんか好きだなあと、梢は思った。
振り返って食堂の奥の方を見れば、ここのスタッフ達も片づけを終えて手が空いたようで遅めの夕食中らしかった。
オーナーの喜一とスタッフの若い二人の、話し声と笑い声が外まで聞こえている。
三人とも声が大きいので話している内容まで丸聞こえだったがったが、いつもの事らしく慶も薫も気にしていない様子。
別に静かなのを求めてもいないのだろう。それは梢も同じだった。
皆が仕事を楽しみ、日常を楽しんでいる雰囲気が伝わってくる。
それがむしろ心地よかった。
そんな人達の作る料理だから、食べた人を元気にするパワーがあるんだろうなと梢は思う。
三人の側には犬のファルコンの姿もあり、どこから来たのか他の犬が一匹、猫が三匹居た。
今朝のカフェでもそうだったがここの動物たちは、どこでも自由にウロウロしているらしい。
梢が育った田舎でもこれに近い感じがあったので違和感はなく、見ていると懐かしい気がした。
この夜、三人は眠くなるまで’話し込んで、それぞれ好きな時に適当に部屋に戻った。

時計を見るのをそういえば忘れていたと、梢は次の日になってから思い出した。

時間を気にするのは当たり前だと思っていた。
いつも時間に追われるのも、そういう物だと。
時計を見ないという事で、こんなにもゆったりとした気持ちになれるという事を梢は初めて知った。
昨日の夜何時に寝たのか知らない。
朝食というのか昼食というのか、それは昼までの間のいつ食べてもいいらしい。
この事は昨日聞いていた。

好きなだけ寝て、自然に目が覚めてから顔を洗って着替え、下へ降りていくと、食堂に居るのは梢以外に二人だけだった。
年配の男性と、もう少し若い男性。どちらも一人旅らしい。
「おはようございます」と声をかけると二人とも笑顔で気持ちよく挨拶を返してくれた。
この人達はもう帰るところらしく、荷物を持って降りてきている。
昨日自分より後から来て泊まった、一泊だけのお客さんかなと梢は思った。
特に会話するわけではなくても、他の人達と空間を共有している感も悪くない。
ここで会う人達は本当に気持ちのいい人ばかりだから、それもあるのかもしれないけれど。

セルフサービスでパンを焼く形で、バターやジャムや蜂蜜などが並んでいる。
新鮮な野菜のサラダの皿や果物の皿が、ラップをかけて並べてあり、ゆで卵がカゴに入って置かれていた。
普段は起きるのが遅めなのもあって朝あまり食べない梢も、ここの美味しそうな食べ物を見ると思わず全部取ってしまう。
もしかしたらもう昼に近いのかもしれないが。
パンが焼けたタイミングで、健太が淹れたてのコーヒーを持ってきてくれる。
このサービスも有難かった。

食べ終わってしばらく外を眺めながらゆっくりしていた梢に、健太が話しかけた。
今日は昼から休みなので、よかったらこの辺を案内するという誘いだった。
強引な感じも全然なく、どちらにしてもまた散策に出かけようと思っていた梢は誘いに乗ることにした。
ここに一台だけある車はスタッフ皆の共用で、今日は仕事にも使うらしく借りられなかった。
仕事用とは言っても空いていれば使える事もあるらしい。

お客さん用に無料で貸し出している自転車があるので、梢はそれを借りた。
健太は自分用の自転車を持っている。
昨日は徒歩だったけれど、それより少し遠くまで行けると思うとワクワクしてくる。
今日もよく晴れていて暑いけれど、この暑さがまた気持ちいい。
この辺りの気候は、湿度の高い京都の気候とは違ってカラッとしている。
風もあるので、暑すぎて外は無理という感じではなかった。
天気もいいし、せっかくの1日を部屋で過ごすのは何かもったいない気がした。

海の景色を横に見ながら自転車で走るのは爽快だった。
歩くのとはまた違って、昨日より広い範囲を観れるのが楽しみだった。
梢は、ゆっくりと景色を眺め、特に印象的な景色があれば時々止まって写真を撮ったりしている。
そのペースに合わせて、健太は時々振り返り確認しながらゆっくり走っていた。
梢には、そういう気遣いもとても嬉しかった。

道の途中で健太は、民宿と取引のある店をいくつか教えてくれた。
陶芸をやっている店もあって、そこの器を見ると民宿で使っている物と同じと分かった。
昨日行ったカフェの器も似ていると思ったが、作っているところが同じだったのだ。
他にも、家具や小物などの木工製品の店、金物屋、花屋、本屋、パン屋、理髪店、美容院、車の修理屋、自転車屋など。
漢方を扱っている診療所もあった。
診療所は保険診療ではなく自由診療なので高いと言えば高いけれど、ここの人は滅多に病気にならないから保険料を毎月払うより結果的に安いらしい。
「俺は怪我で一回世話になったぐらいかな。気さくでええ先生やで」と健太は話した。
パン屋では国産小麦を使って毎日自家製のパンを焼いていて、民宿でも昨日行ったカフェでもここのパンを使っているとのこと。
工場で大量に作られる物と違い、一つ一つ丁寧に作られている。ここのパンはたしかに美味しかった。
民宿のテーブルや椅子は、ここの木工製品の店のものということだった。
飽きのこないスッキリしたデザインで、丈夫で長持ちするように作られている。
この地域の中で店同士が知り合いで、互いに自分のサービスを提供し合って生きているとのことだった。
家事の代行や、便利屋のような仕事をしている人もいるし、インターネット関連に強い人はそれを仕事にしている。

皆がお互いに得意な事を人に提供し、苦手な事や出来ない事は人の提供するサービスを利用する。
そういうシンプルな仕組みが、この地域の中で出来上がっているらしい。
今のところ子供から年寄りまで全部で50人ほどで、この地域の中では、お金を介さずにサービスを提供し合う事もあるという。
健太の話を聞いて、梢は昨日カフェで見た事を思い出した。
カフェで飲食をした時、健太と喜一さんが、お金ではなく野菜で払っていた。
梢の食べたカフェのメニューの値段は800円だったから、それの二倍とすれば1600円。
あの量の野菜をスーパーで買ったとしたら、それ以上の値段になるのは間違いない。
どちらの側にも、損な取引ではなかった。
「金で払ったとしてもどうせその金でなんか買うわけやろ。直接の方が早いで」
健太が言うのは考えてみればその通りだった。
「もう一つええ事はな・・・」
健太が少しだけ声を落とした。
「金でもらわへんかったら税金かからんやろ」
「たしかに・・・」
本当にその通りだった、これは脱税でも何でもない。物々交換には税金はかかってこない。

ゆくゆくはもっと自然に、交換するという意識すらない感じでみんなが協力し合って、暮らしていくようになればいいと思うと健太は話した。
今でも十分、世の中の状況とは違っている。
お互いに余計な干渉はせず、自分は自分人は人。でもお互いの存在を感じ、得意な事を提供し合い協力し合う関係。
そんな暮らし方が、ここにはあるという。
梢は、自分がここに来てからずっと感じていた心地よさの正体はこれだったのかと思った。

途中で色んな店を観ながらゆっくり1時間くらい走った後、座れる場所を探して休憩した。
置いてあるベンチに座ると、ここからも海岸が見渡せる。
近くには、積み上げられている沢山のテトラポットが見え、少し遠くには海を行く漁船の姿も見えた。
健太が持ってきていた冷たい麦茶を二人で飲みながら、この地域の事、お互いの仕事の事など色々話した。
初対面の時からそうだったが、健太は気さくでありながら押しつけがましさは全くない。
余計な干渉はしないけれど人間味がある。

昨日初めて会った慶や薫も、そういえば同じだった。初日に少し話したオーナーの喜一も。
ここの人達といると、梢は心からリラックスできて余計な気を遣わずに済んだ。
何でも気軽に話せるし、逆に会話が途切れても気まずさが無い。
たまに沈黙がしばらく続いても、波の音を聞きながらその間を楽しむ事さえできた。
何か話さなければという余計な神経を、使わなくていい雰囲気がある。

前に勤めていカフェでもこの感じは体験しているけれどそれは珍しい事で、カフェを辞めた時は、二度とこういう人達とは会えないかもしれないと思っていた。
今までを振り返っても、学校でも最初の職場でも時々感じていたのは押しつぶされそうな閉塞感だった。
そんなことも、健太には平気で話すことができた。
「波長の合うもん同士は何となく集まるんやろ」
「こんなにおるって知らんかったわ」
「それでもかなり少数派やけどな。今の世の中から観たら俺ら、変な奴やで」
健太が笑いながら言うので梢も笑った。
どんどん閉塞感を増して異様に変わっていく世の中の様を見ては、深刻になっていた自分に気が付く。
深刻になったからといって何かが解決するのでもない。
ここの人達は、世の中の状況に関係なく楽しく過ごしている。
周りの状況に振り回される事なく、皆それぞれ自分を生きている。

「もうちょっと宿泊日数増やそかな。まだいける?」
梢は、昨日から考えていた事を聞いてみた。
残りの預金を計算しつつ、次の仕事を早めに探すとしてあと一週間くらいはいけるかなと思った。
「確かあの部屋はまだ次入ってないし、梢ちゃんが大丈夫なんやったらいけるで。いつまで延ばす?」
「一週間ぐらいいけると思うねんけど。待って。今もう一回計算するわ」
梢はスマホを取り出してお金の計算を始めた。
こんなことも、見栄を張らずに平気で言えるところが楽だった。

「あのな」
ふいに思いついたように健太が話し始めた。
「もしよかったらやけどここででバイトは?日払いの時給制やし、合うかどうか気軽に試せるで。もし続いたらやけど交代でもう一人入ってくれたら俺らも休みやすいし、誰かおらんか三人で探しとったんや」
「ほんまに?私でええんやったらやりたい。車の免許も無いけど」
「それは大丈夫や。侑斗も15歳やから車の免許まだ無いし、そんなにしょっちゅう遠くまで行くわけでもないし。今のとこ俺と喜一さんだけで十分や。仕事は料理、掃除、片付け、受付とかそんなもんやで。カフェの仕事と近いやろ」

今日さっそく喜一に話してくれるとのことで、梢のここでのバイトが決まった。
宿泊をもう一日だけ延ばして、その次の日からはバイトで入る事にした。
住み込み用の部屋はまだ空いているらしく、今日見せてもらう事になった。
荷物は鞄一つだし、夏なので布団も要らないくらいでほとんど何も買わなくていい。タイミングいいなと梢は思った。
続けるかどうかも、気軽にやってみて決めていいと思うと健太は言ってくれた。
健太がここで働き始めたのも客として来たのがきっかけで、最初から続ける決意なんか特になかったという。
やってみてたまたま仕事が自分に合っていたから、気がついたら続けていたということだった。
今のところ三人でもけっこう忙しいので丸一日の休みは少ないが、仕事と遊びの区別はあまり無いような状態だし、てきとうに交代で半日休んだりしているのでストレスはないらしい。

明日が、客としてここに泊まる最後の1日になる。
梢は存分に楽しもうと思った。
仕事探しはとりあえず保留でと思っていたけれど、予想外の展開で仕事まで見つかった。
これからどうしようと凹みかけたけれど、旅行に行くという行動をしてみて本当に良かったと梢は思った。

民宿のバイトを始めて一ヶ月足らずで、梢はこれからもここで続けて働きたいと思った。
それを話すと、オーナーの喜一も、健太も侑斗も、とても喜んでくれた。
今まで男性三人でやっていたので、女性が入った事でバランスが良くなったし、カフェの仕事の経験がある梢は仕事の覚えも早かった。
ここに居ると普段ほとんどお金を使わないので、忘れていても貯まると健太から聞いていたのはその通りだった。
料理はやったことが無かったが、少しずつ覚えていった。
住み込みの六畳一間の部屋は、日当たり風通しがよく、エアコン付きで快適だった。
お客さんが全員入り終わった後で風呂を利用することもできたし、スタッフ用のシャワーもあり、近くに銭湯もあった。
銭湯の経営者家族も、この地域の知り合いだった。
休日でなくても途中出かけたり、四人の中で交代でうまくやっていたので、梢は度々近所を散策してこの地域の事を覚えていった。
旅行で来た最初の日に行ったカフェにも、度々行くようになった。
そこの常連客とも顔見知りになり、今は、行けば知っている人ばかりという状況だった。
他にも、この地域の美容院に行ってみたり服や本を買ってみたり、夜には居酒屋へ行ったりした。
30軒ほどあるこの地域の店を、今では全部知っていた。

京都に居た頃は、今年に入って感染対策がうるさくなるにつれ行きたい場所が減って、暮らしにくさを感じかけていた。
ところがそれがまるで嘘のように、ここでは全てが違った。
世の中で起きているような状況が、ここには存在しない。
コロナ騒動など最初から起きていないのではないかと、ここに居ると思うようになる。
いつか健太が言っていたのを思い出す。
「テレビ見んかったら気が付かんような事って、最初から無いのといっしょやろ」
梢もそれを聞いて、まさにその通りだと思った。
この地域の人達の考え方は皆そんな感じだった。
誰もテレビは見ないし、コロナを怖がっている人はいない。
そして当然のように、皆いたって元気だ。
ただ病気になっていないというだけでなく、生きているというエネルギー、活力が感じられた。
80歳以上の老人でも、ここの人達は皆おそろしく元気だった。

ここでは皆が去年までと同じように暮らしていて、体調が悪くなるような人は誰もいなかった。
世の中全体では、感染対策万全で頑張っていてさえ「感染者が減らない大変な状況」「病院はいっぱいで医療崩壊寸前」という事らしい。
これはどうもおかしいと、ここの人達は皆思っているようだけれど、長々とその話をする事は無かった。
そこに意識を向けたくないという事なのかなと、梢は感じていた。
ただ、世の中全体が変な方向に流されつつあるのは皆知っている。
そこに巻き込まれないよう生活を守っていこうという、意識だけがあるようだった。

梢は、この地域に親しむほど、ずっとここに居たいという気持ちが強くなっていった。
仕事は四人で和気あいあいとやっているので日々楽しく、一ヶ月があっという間に過ぎた。

京都で借りていた部屋を出るのは一ヶ月前に言えばいいので、七月末の時点で電話で退去を伝えていた。
八月の終わりに、三日間休みをもらって梢は京都に帰った。

先に電話で手配していた通り、帰った日の昼に業者が来てくれてベッドや机、電子レンジなどを持った行ってくれた。
全てを粗大ごみとしてでなく、まだ使える状態の物はリサイクルで売っているという業者で、その分引き取り価格も安かった。
まだ新しい物を捨てるには抵抗があったので、いい所を見つけられてよかったと思う。
冬物の布団類は、田舎から出てくる時持ってきたかなり古い物だったのでこれを機会に捨てる事にした。
本や雑誌は一番気に入っている数冊を残して、あとは近くにある古本屋に引き取ってもらった。
荷物は元々少ないので、残った物を段ボール箱に詰める。
段ボール箱三つに収まった荷物は、明日宅配業者に集荷に来てもらう。
引っ越し代すらかからなかった事は本当に幸運だったと梢は思った。
電気、ガス、水道の使用停止を連絡すると、あとはもう急いでやる事もない。
明日家主さんに部屋を見てもらって、鍵を返して終わりだった。
梢は、ゆっくりと丁寧に部屋を掃除をしながら、ここで過ごした一年数ヶ月を思った。
京都で暮らし、働く経験をして本当によかったと思う。
一番良かったことは、あのカフェで働いた経験とそこで出会った人達がいという事だった。



帰ってくる途中の電車の中も京都の街の様子も、そういえば二ヵ月前と何も変わっていなかった。
むしろ感染対策の注意書きの看板は増えているし、うだるような暑さの中マスクをしていない人は一人もいない。
以前よりひどくなったのではないかと思えるような状況だった。
コロナ騒動が始まって間もない頃は、時が経てば収まって普通に戻るのかと梢も思っていたけれど、どうもそれは期待できそうにないというのが見ていてわかる。

でも梢は以前と違って、ノーマスクで電車に乗ったら何か言われるだろうかと怯えるような事はなかった。
周りの状況は変わっていなくても、自分の中で何かが大きく変わったと思う。
世の中がどういう方向に動いたとしても、それと関係ない所で生きている人達が居る。
その人達と一緒にこれからも生きていける。自分には、帰る場所がある。
そう思うと、それ以外の人に何を言われようと思われようと平気だった。
その気持ちでいるとなぜか逆に、すれ違いざま嫌な顔をする人さえいない。
自分が気にしていると、それで色々引き寄せてしまうらしいという事が、梢にも最近分かってきた。

掃除が終わってスッキリしたあと、時計を見るともう夕方だった。
今日は以前勤めていたカフェに行く。
京都を離れて以降も、唯とはたまに連絡を取っていた。
田舎へ帰るというのが嘘だろうというのは、マスターもママも最初からわかっていたらしい。
気を使って辞めたんだろうと唯には話していて、梢はそれを聞いた。
なのでかえって、これ以上嘘をつかなくていいのでカフェへも行きやすい。
梢の新しい就職先の事も、唯を通してマスターとママに伝わっている。
それを知って二人が喜んでいたと聞いて、梢も安心した。
唯は、一時期よそで就職して働いていたけれど、結局三ヶ月で辞めたと言っていた。
今月からまたカフェに戻っているらしい。

梢が民宿でバイトするようになって、もう五ヶ月目に入っていた。
他のスタッフも入れ替わりはなく、オーナーの喜一、健太、侑斗、梢の四人で回していた。
一人増えたことで全員が休みやすくなった。
11月に入った頃から少し肌寒くなったけれど、この地域は京都ほど冬の寒さは厳しくないらしい。
雪も滅多に降らないし、耐えられないほどの寒さを感じる日も少ないと聞いて、寒いのが苦手な梢は安心した。

冬になると大根、白菜などの冬野菜が美味しくなる。
民宿の夜のメニューも、おでんや鍋物、煮物が多くなってきた。
こういう料理は、下ごしらえをして火にかけて近くで見てさえいれば、あとは好きな事ができる。
料理をほとんどしたことがなかった梢は最初そのあたりのことが分からなくて、ずっと鍋のそばに突っ立って蓋を開けたり閉めたりしていたので健太に笑われた。
今ではもう慣れたもので、おでんが煮えている鍋の側でパソコン作業をする事もあるし他の用事を片付ける事もある。
特にすることがなければ好きな本や漫画を読もうがゲームをしようが自由なのも、この職場のいいところだった。

その日にある材料を見て、何を作るかも自分で好きに考えていい。
隣近所の人達からのもらい物も驚くほど多いという事を、梢はここのバイトを始めてすぐに知った。
海で釣ってきた魚、海藻類、貝類、自分の家で作った野菜、花など。
米や餅などももらえる時があり、あまりお金がかからないと言っていたのはこういう事だったのかと理解した。
食材に関しては、ほとんど買わなくてもいいくらいの状況だった。買っているのはパンと、たまに米くらいだった。

この民宿の三人も、他の家や店によく手伝いに行っていた。
喜一と健太は、壊れた場所の修繕や車で物を運ぶ作業、インターネット関係に強い侑斗はパソコンの接続や修理の手伝いに行ったりしていた。この地域の中で誰かから何か世話になった場合、必ずその人に返すというわけでもない。
全然関係のない別の人の何かを手伝ったりする。
皆がそうやって、全体で循環ができている感じだった。
ここではこれが当たり前なのだということが、見ているとわかってくる。
梢もそれに倣うようになった。
何か手伝って欲しい時は誰か出来る人いないかと聞いて平気で頼めるし、誰かが何か困っていてそれが自分に出来ることなら当然手伝う。
今ではそれに何の違和感もなく、こういうものだと思っていた。
皆が得意な事をやって、苦手な事はやらなくていいこのやり方は、最も効率的でストレスが無かった。

この民宿での仕事も本当にストレスが無い。
掃除、洗濯、料理、片付け、受付、パソコン作業など仕事は色々あったが、四人がそれぞれ自分の得意なことをやっている中でうまく回っている。自分のペースで仕事の順番も決められるし、休憩時間、食事時間も特に決まっていなかった。
働い時間分だけ自己申告で、その日のバイト代をもらう。
1日のうちでこれだけ絶対にやらないといけないという事もなく、回っていればそれでよかった。
仕事が何ヶ月契約とかもないので、いつまで続けるかを常に計画しておくという必要もない。
皆んな自由に気楽にやっている。
それでも、来てくれたお客さんに対して、居心地良く楽しく過ごしてもらいたい、またリピートしてくれたら嬉しいという気持ちは皆んな持っている。
その心意気で仕事に取り組んでいるのも、お客さんにはちゃんと伝わるのかリピーターは本当に多く大抵いつも満室だった。

梢は、京都に居た頃のカフェでの勤務を時々思い出した。
そこの人達と家族のように親しくなれたのと同じように、ここでも新しい家族のような人達と一緒に働いている。
全然気を使わなくていいほどに親しくて、それでいてうっとおしい干渉はしてこない。
そういうところも、以前の仕事場も今も本当に恵まれていると梢は思っていた。

世間はコロナ騒動で大変な中、以前の職場では、店の中だけに外とは違う世界があるという感じだった。
ここでは、それが地域全体に広がっている。
人数が多い分、よりそのエネルギーが強まっていると思える。
この地域一帯の全員が同じ考えというのではなく、コロナを怖がって感染対策万全で生きている人も見かける。
それでも、こちらはその事があまり気にならないし、向こうも多分気にしていないのではないかと思える。
聞いたわけではないので本当のところは分からないけれど、京都にいた時感じた雰囲気と、ここで感じる雰囲気はまるで違う。
世間一般と違う生き方でも、人数がある程度いると市民権を得てしまうという事なのか、周りが諦めてくれるのか。
何かそんなところかなあと梢は思っていた。

夏に初めて会った時に、近いうちこの地域に引っ越してくる予定だと言っていた慶は、予定より早く実際に引っ越してきた。
他にも他所から来てこの地域に住み始めた人がいて、梢が最初に来た頃50人ほどだった人数は60人近くなっていた。
この辺りは最寄り駅からは徒歩20分以上かかり、交通手段が一日数本のバスしかないこともあって、家を買うにも借りるにも高くはなかった。
梢は、京都市内の相場と比べて最初かなり驚いたのを覚えている。
まだ空いている家もあったが、もう数十人も来たらいっぱいになりそうな感じだった。
あまり人が増えてもややこしいので、SNSでも出していないし何の宣伝もしていない。
でも、どこからともなくここの事を知って来る人は来るらしい。
それ以外には、梢がそうだったように旅行がきっかけという人もいる。

一人暮らしの人、家族らしき人、友達同士でルームシェアをしているらしき人、カップル。
色んな人がいたけれど、誰も人の事を詮索しない。
子供がいるから家族なのかなと思う程度で、カップルがいたとしても夫婦なのか違うのか誰も知らなかった。
ここの人達は下の名前しか名乗らない。
あまりにもそれが自然なので、梢は途中まで気がつかず、かなり経ってからそういえばと思った。
何々家の誰々とか家を継ぐとか先祖がどうとか、そういった発想がまるでなく、名前というのはその人を識別できればなんでもいいという感じだった。
名乗っているのが本名かどうかすら分からなくても誰も気にしていない。
なので梢も未だに、ここの地域の人達全員と顔見知りでも、誰の名字も知らなかった。
しきたりも無ければ宗教もない。ただゆったりと流れていく時間があり、日々の暮らしを楽しむ。
それがこの地域の普通だった。

2021年1月

以前に聞いていた通り、ここの気候は真冬の今になっても比較的穏やかだった。
まだ一度も雪を見ないし、霜が降りて地面が凍ることもない。
底冷えのする京都の冬と比べると楽勝だった。

新しい年が明けたとは言っても、正月だから特に何かするというわけでもない。
民宿は世間の休みの時の方がむしろ忙しい。
ここの四人は、年末年始は普段と変わらず仕事をした。
年末から続く一番忙しい時期を過ぎてから、いつも通り交代で休むというのがここの毎年の流れらしい。
梢は、休んでどこか出かけるなら人混みを避けて空いている時の方がいいので、特に正月に休みたいとは思わなかった。
ここの仕事が大好きでもあるし、普段から1日の中で交代で休んだりして十分に自由時間があり、休憩時間を取っている。
その事もあって、まとまった長い休みが欲しいとは今のところ思わなかった。
旅行に行きたいとか希望があるなら言えばいつでも休めるらしいけれど、今は感染対策万全の場所に旅行に行ってもつまらないというのもあって今はあまり行きたいとも思わなかった。

年末から正月にかけて、梢の以前の勤め先の経営者家族が、約束通り泊まりに来てくれた。
その時も本当に楽しくて、数日間があっという間だった。
マスターもママも唯も、この場所を本当に気に入ってくれて、また来たいと言ってくれた。
それが本心から出た言葉だというのは、梢にもはっきりと伝わってきた。
料理がうまくなったとも言ってもらえたので、その事もすごくうれしかった。
上手くなったというか、以前は全くできなかったのだけれど。
ここに滞在している間に三人は、他の宿泊客や、この地域に住む人達との交流もあり、多くの人と連絡先交換をしていた。
SNSで最初からつながっていて、初めてリアルで会えたという人も何人か居たらしい。
コロナ騒動が始まって以降、それがおかしいと感じていて普通の生活を取り戻したいと思っている人はかなり少数派で、今の世間一般からは完全にに浮いている。
そういう人同士がSNSで繋がっているので、少ないだけにネット上ではお互いに知り合いという確率も高い。
話した事は無くても「タイムラインでこの人の投稿よく見かけるな」という感じで知っていることが多い。
リアルでは会っていなくても、ずいぶん前からネット上ではけっこう話していたという事も珍しくない。

京都ではここまでの人数の仲間はいないから羨ましい、けれどこの状況を見た事で、京都でも同じことができるイメージが固まったと言ってくれた。
この地域のような場所が、日本のあちこちにこれから出来ていく。
そんな事をイメージすると、梢は気持ちが明るくなってワクワクしてくるの感じた。
「今の世の中のピラミッド型支配システムから離れて丸い世界へ移行する」という内容の、情報を出しているユーチューブの番組がある。
ここで働き始めた頃に健太が教えてくれて、梢もその頃から続けて観ていた。
食事の準備をしながら、掃除をしながら、それを聴いている事も多かった。
何度も聴く事によってイメージは固まってくる。
唯達が来たときに教えたら、家族全員ですでに観ていてよく知っていた。
考えている事が似ていると、観るものも似てくるらしい。

ここでは皆、テレビを一切見ずに自分の好きな情報をいつも取り入れている。
テレビのニュースを観ると気持ちが沈むだけだし、作られたり捻じ曲げられた報道がほとんどだという事を知ってしまうと観る気はしなくなる。
梢は元々、テレビでは映画とアニメとスポーツくらいしか観たい物は無いので、それならテレビでなくても観る方法はあった。

観て気持ちのいい情報を取り入れ、気分の悪くなるものは見ない。
これは逃避ではないというのを、最近も皆で話したところだった。
引き寄せたくない情報にフォーカスしてしまえば、実際にその現実を作ってしまう。
それを避けようと思えば、そういう情報には触れないに限る。
何が真実かという事の絶対的証拠など、実際どこにもない。
どんな情報であれ、言っている人が嘘を言っていないか、出されている資料は本物かなど、突き詰めていけば「絶対的証拠」と言い切れるものなどこの世界のどこにも存在しない。
最終的に頼りに出来るのは、外からの情報ではなく自分自身の感覚。
テレビ画面の中で起きている事でなく、実際に自分の目で見たものを信頼し、自分にとって腑に落ちる情報を取る。
ここの人達の意識は、共通してそんな感じだった。

それでもユーチューブを見ているとたまに、おすすめ動画として目に入りやすい場所に、テレビの情報が入ってくる。
以前にも増して矛盾に満ちた、あやしい感染対策は続いているらしい。
感染者が増えた増えたとテレビでは毎日わめいているようだけれど、街中の様子は何も変わらず、人がバタバタ倒れて死んでいく様子などは見られなかった。
去年の統計を見ると、日本での死者数の全体数はむしろその前の年より大きく減っていた。
検査で陽性になって差別を受ける事を恐れた人々が病院に行かなくなった事や、学校や会社が休みになったりテレワークになった事で、学校や仕事が嫌すぎて自殺する人が減ったからではないかと推測される。

日本はいつからこんなにしんどい国になってしまったのかと皆で話した事もあった。
ただでさえそういう状況だったところに、今回のコロナ騒動でとどめを刺されているように感じられる。
全体の死者数は減ってはいるものの、倒産、失業、自殺が増えるのは止まらない。
意図してここから離れようと思わない限り、この狂った世界に飲み込まれてしまう。
少しだけ希望を持てるのは、ここまであからさまに矛盾だらけの事をやってくれたら、そのおかしさに気が付く人も増えるのではないかという事だった。
梢も、時々親と連絡を取って様子を見ていた。
仕事を変えた事も引っ越した事も、数ヶ月経ってからの事後報告だったけれど、何を言われても好きなようにするというブレない気持ちで伝えると、もう何も言われなかった。
感染対策を頑張っていればコロナが終わると思っているのは相変わらずだったけれど「コロナに疲れた」と言っていた。
存在すら証明されていないコロナにではなく、感染対策に疲れたに違いないと思ったけれど、言って喧嘩になるのもつまらないので「そうなんだ。無理しないでたまにはゆっくりしてね」と言って話を終えた。



冬至の頃より少しだけ日が長くなったけれど、朝仕事を始める時間、外はまだ暗い。
梢は、ここで働くようになってから自然に朝早く起きられるようになった。
以前は朝が苦手で、自分は早く起きるのは無理だろうと思っていたけれど少しずつ変わってきた。
別に朝早く起きなければいけないと決まっているわけではなく、その日の分の仕事をいつやってもよかった。
掃除、洗濯、片付け、料理の下ごしらえなど、朝から始めて早いうちにやってしまうと、後からゆっくりできるのが楽しみで勝手にそのペースで動いていた。
朝早い時間の方が活動的な気分で、仕事も早くできる気がした。
健太も朝早い方で、二人で入っている時は自然に一緒に仕事をすることが多く、どちらかが休みの時は一人で倍の時間をかけてゆっくり仕事をこなした。
誰か休んだからといって特にバタバタすることもないのがこの職場のいいところで、おかげでストレスは無い。
朝の仕事が半分片付いたころにオーナーが起きてきて、朝の苦手な侑斗はいつも昼近くまで寝ていた。
その分夜は最後まで残ってくれていて、皆好きなようにやっている中でうまくバランスが取れていた。

最初に健太が教えてくれた「狸時間」というのがここにはあった。
ここは客室に時計が無く、食堂や廊下や風呂場などお客さんの目に触れる場所にも時計が無い。
時間に追われる日常を離れ、時間を気にせずゆっくり過ごしてもらいたいという気持ちでそうしている。
なのでスタッフ側も時刻を見るのは、調理場の台の上にある小さい時計のみだった。
明け方は近所の家で鶏の鳴き声がするし、その後もう少し明るくなりはじめると野鳥の鳴き声が聞こえてくる。
それ以降は太陽の位置によって見当がつくこともあるが、天気の悪い日は分かりにくい事もあった。
仕事の段取り上「ちょっと何時頃か知りたい」という時はたまにある。
腕時計は仕事の邪魔だし、いちいちスマホを確認するのもめんどくさい。

そこで役立つのがこの「狸時間」で、朝6時30分になると、野生の狸が食べ物を求めてやってくる。
余っている物はいつもあるので、見かけたら誰かがあげていた。狸は雑食なので何でも食べる。
最初は夫婦2匹で来ていた狸は去年子供を産んで、今は小さいほうが9匹とあわせて、11匹の大所帯で訪れるようになった。
来ているのに気が付かないと静かに待っていて、目的の物をもらえると静かに去っていく。
その次に13時30分になるとまた訪れる。
最後は20時30分になるとその日の最後のご飯をもらいに訪れる。
昼と夜はお客さんが居てもけっこう近くまで来るので、ここの一種の看板のようになっていた。
この3回の時間が本当に正確なので、スタッフはみんな時計代わりとして狸時間を使っている。
朝早く起きる二人には、仕事スタートが朝の狸時間で、食べ物をあげてから仕事にかかる。
自分の食事休憩も入れながら、その日のほとんどの仕事をやり終えるのが、一人で仕事をやった場合昼の狸時間頃。
二人でやった場合はずっと早く終わるので、散歩に出かけたりして昼の狸時間までダラダラ過ごす。
夜狸時間になると、一日の仕事はほぼ終わっている。
「また明日」という感じで狸が去って、一日の仕事が終わる。

狸以外にも、狐が二匹でよく現れるし、トンビが一匹いつも来ている。
野生の猫や犬が何匹も、毎日のように訪れる。
カラスやハト、スズメも来ることがある。
食べ物は豊富にあるので誰が来ても、必ず残り物をあげていた。
犬と猫は食事だけでなく滞在時間が長いし、他の動物たちは来る時間が気まぐれなので、時計代わりになるのは狸時間だけだった。


今年に入ってから民宿は去年以上に忙しくなり、長期連泊の人も増えたため部屋が空かなくて、予約は数ヶ月先まで入っていた。
梢は、この場所での初めての冬を存分に楽しんだ。
仕事と日常が一緒になったようなここでの暮らしは、季節の料理を楽しみ、夜は柚子風呂なども楽しめる。
仕事の合間や後に、時にはゆっくりした一人時間を持ち、誰かと過ごしたければ、一緒に居て心地いい人達がすぐ近くに沢山いる。
地域の人達との交流も、以前にも増して深まっていった。
それでも人からの干渉は一切なく、ここには自由があった。
せっかく平和な日常の中で、テレビの情報が目に入ってきた時だけは一瞬嫌な気分になるけれど、それもすぐに薄れていった。

2021年2月

冬の狸は、毛がみっしりと生えていて丸々としている。
狸の顔は一般的イメージよりも細長くて、耳も丸くなくてとがっている。足は黒で、目の周りも黒。
尻尾はあまり大きくなくて大抵はだらんと下がっているので、犬や猫のように感情表現があるのではなさそうだ。
小さい狸たちは活発に動き回っていて丸々と可愛らしく、観ていて飽きることが無い。

この地域の二月はそれほど寒くもなく、天気のいい日の昼間なら気持ちよく外に居られる。
今日休みをもらっている梢は、起きたらちょうど昼の狸時間だったので、外で狸達に食べ物を分けながら自分も近くで座って食事を済ませた。
今日の昼食は、昨夜行った居酒屋で食べ残した物を包んでもらっていた。
質のいい材料を使った焼き魚や酢の物、漬物、おにぎりは、時間が経っても十分に美味しかった。
昨夜何時まで飲んでいたかは覚えていない。
ここへ来てからというもの、本当に時計をあまり見なくなった。
それで何も困らないのだという事を、梢は実感している。
ここでは時間に追われるという事が無いし、皆がゆったりとした一日一日を楽しんでいる。

調理場の方を見ると、トンビがこちらに近づいてくるのが見え、喜一さんが油揚げを投げているのが見えた。
投げられるタイミングに合わせて下降してきたトンビは、足を使って空中で油揚げをキャッチする。
もう何度も見たけれど、いつもすごいなあと思う。
トンビは、受け取ったご馳走を近くの電信柱の上に運び、ゆっくりと食事を始めた。
大抵いつもこんな感じで関わってくるこのトンビは、お腹が空いている時はもう少し積極的に食べ物を要求することもある。
以前、梢が朝一番で外に面したガラス戸を開けようとすると、ガラス戸に茶色い影が映っていた。
けっこう大きいし磨りガラス越しなのではっきりした姿は見えない。一瞬何かと思ってぎょっとした。
恐る恐る開けてみると、トンビがそこにとまって待っていたので、油揚げを持ってきて前に置くと受け取って去っていった。
ちくわなども食べなくはないけど油揚げが一番のお気に入りらしい。「トンビに油揚げ」というのは本当だった。

この辺で座って食べていると、犬猫もやってくる。動物たちも、人が食べている物は気になるらしい。狐だけは早朝か夜しか来ないけれど。
人間にとっても、自分が食べ終わって残った物があれば、動物たちが食べてくれるのでちょうどいい。
ここには食べ物が豊富にある。野菜は余るほど穫れるし、野草も取ってきて食べられる。
趣味で釣りをする人達から魚もよくもらう。肉もたまにもらう事があって、そういう時はバーベキューが始まる。
鶏を飼っている家からは卵をもらうし、牛を飼っている家も一軒あって、そこからは一升瓶に入った牛乳をもらう事がある。
梢は、ここに来るまでは卵や牛乳が嫌いではないが特別好きでもなかった。
それは、生みたての卵や絞りたての牛乳が、こんなに美味しいとは知らなかったからだった。今では卵と牛乳が大好物になった。

ここに来て慣れないうちは、散歩に行ってもやたらと人が物をくれるので「こんなにもらっていいのかな」「何か後でお返ししないといけないかな」と思って戸惑ってしまっていた。
今では、そんな気遣いは無用だと知っている。
今は、特定の欲しい物があって「あそこに行けば余ってるかも・・・」と思えば、堂々と「もしあったらいただけませんか?」と平気で言えるようになった。
逆に人が何かもらいに来ても、全然驚かなくなった。
ここでは人も動物も、欲しい物はもらいに行く。
「余ってるからご自由にどうぞ」というので、季節の野菜などが積んであるのを目にする事もあった。
必要なら遠慮なく欲しいだけ持って帰る。
民宿の勝手口に、大根や白菜が積んであった事もあった。
そんな形で誰かがくれる事はよくあるらしく、そういう野菜があると中に持って入って、食事の材料にするか多い場合は漬物にする。

服や日用品でさえ、ここではよくタダで手に入る。
梢もここの人達と同じく、ガレージセールや交換会のような事を誰かがやっているのを見かけたらのぞきに行く。
そこで欲しい物がけっこう手に入るので、ほとんど買わずに済んでいた。
こういう日常なので、バイト代もあまり使わずに残っていってすぐに貯まる。
梢は今月、預金を一部おろして電動自転車を買った。
今までは宿泊客用のを借りていたけけれど、これがあると行動範囲も広がりそうで楽しみだった。

買って間もない新しい自転車で、ゆっくりと景色を楽しみながら走る。
海沿いを風を切って走ると、歩いている時よりは寒さを強く感じる。
けれど凍えるようなというレベルの寒さではないし、冬の景色というのも梢は嫌いではなかった。
ほとんどの木々が葉を落としていても、枝だけになった木のシルエットはそれはそれで美しく、梅の蕾もそろそろ膨らみ始めている。
公園の近くを通ると椿の花の美しい赤も見られる。
梢は夏からここに来て、秋を迎え、冬を迎えた。
もうすぐ立春で、暦の上では春を迎える。
京都に居た頃も季節ごとの自然の美しさを楽しんできたけれど、ここでもそれは同じだった。
むしろ京都の街中よりも、ここには手つかずの自然の風景が多く残っている。
人の手が入っている部分も、都会と違って土地が安く庭が広く取れるので、家庭菜園などを楽しんでいる家が多く見られた。
美しい花が一番多く咲く春に、どんな景色が見られるのか今から楽しみだった。
植物を育てるのが好きで、いつも美しい庭を見せてくれる家も沢山あった。

自転車で走るのに少し疲れたら、知っている店に入って休憩する。
梢が最初にこの地域へ来た時に、他とは様子が違うのを外から観て気になり、入ってみたカフェ。
今では、週に1~2回は必ずここへ来るようになっていた。
ここのコーヒーは最高だし、食べ物もおいしい。
それに今では、いつ来てもほとんど知っている人ばかりだった。

梢が働いている民宿へこれから行く予定で、ここに寄ったという旅行客に会うという事も何度かあった。
その時はちょうどいい具合に道案内ができた。
そういう事があると、最初に自分がここから案内してもらって民宿に行った時の事を思い出し、とても懐かしかった。
考えてみればそれからまだ一年も経っていなくて、つい最近の事なのだけれど。
梢はこの地域の住人としてすっかり馴染んでしまったので、なんだかそれが遠い過去のように思えた。

この季節、通いの猫は外にはいなくて、来た時は大抵中に入っている。
さすがに二月の店の前は寒いのかと思う。
今日も梢が入っていくと店の中はほ満員で、猫はボックス席のテーブルの下で寝ていた。
ここに来る人で動物が苦手な人はいないので、猫は誰が居ようと堂々と入ってきて、その日の気分で好きな場所に陣取っている。

店内はカウンター席の端が一つ空いていたので、梢はそこに座った。
今日偶然隣の席に居るのは薫さんで、梢が客として民宿に泊まった時会った女性だった。
今では友達と言える距離感になっている。
「今日休み?」
「うん。明日まで二連休」
民宿では正月の期間が忙しかった分、今の期間に交代で連休を取っていた。

ランチを頼むほどお腹が空いていないので、梢は今日は焼き菓子を頼んだ。
ここの焼き菓子は、オーナーの美津がその日によって、気まぐれで色々な種類の物を出してくれる。
今日はチーズケーキで、新鮮な材料を使ったケーキは飾りなくシンプルだけれど最高に美味しい。
少し苦味の強いコーヒーとの相性も抜群だった。
「やっぱりここのケーキ美味しい。最高」
「ありがとう。みんなそう言うてくれるし嬉しいわ」
カウンターの向こうの端のお客さんと話していた美津が、梢の独り言を聞いて答えてくれた。

ボックス席には、梢が最初にここに来た時相席で席を空けてくれたカップルが、友達の男性二人と一緒に来ていた。
友達の方は、この地域で陶芸をやっている人達で梢も顔見知りだった。
この店の食器も民宿の食器も、この人達の作品だった。

カップルの二人の名前は達也と怜。最近まで東京で仕事をしていたと聞いた。
本業のイベント関連の仕事がコロナ騒動でやりにくくなったので、副業だった文筆業やユーチューブチャンネルでの配信などを仕事にしている。
この二人が夫婦なのかどうかは未だに知らないし名字も知らなかったが、そんな事は関係なくけっこう親しく話すようになっていた。

そういえばオーナーの美津や今隣にいる薫に関しても、名字も知らないしパートナーが居るのかどうかも知らなかった。
一緒に民宿で働いている人達でさえ、名字は一度聞いた気もするけどもう忘れていた。
それくらいこの地域では、何々家という立場のようなものは意味を持たない。
年上も年下も無い。完全に皆んなが横並びの世界だった。
一度ここに馴染んでしまうと、もう以前の世界では暮らせない。
梢がそう思っているのと同じように、他の人も皆んなそう思っているようで、誰かがそんな話をするのを時々耳にすることがあった。
世間の常識、どうでもいい決まり事、人からの干渉などがめんどくさくて、とてもじゃないけれど元の世界では我慢できそうにない。

世の中では今、コロナワクチンの接種がスタートしているらしく、その話題も時々入ってきた。
ここでの日常を暮らしていると、コロナ騒動自体を忘れているので、何でワクチンが必要なのかと不思議な感じしかしない。
コロナ騒動が始まってから既に一年以上が経過していたけれど、テレビの中の世界で騒ぎが大きくなっているだけで、この地域の知り合いの範囲では、真冬でも風邪をひく人さえ滅多にいなかった。
この地域の中でももちろん、全員が知り合いなわけでもないし、コロナを死ぬほど恐れている人もいればワクチンを救世主のように待っている人もいる。
この地域全体の人口から考えると、むしろそういう人の方がずっと多い。
そっちの方が今の世の中での圧倒的多数派で、その中にあって自分達数十人の繋がりは、豆粒のようなものだった。

でも「このくらいだからいい」というのも、ここではよく聞く話だった。
大きな人数になって、目立ってくれば潰されやすい。
目立たず、世の中の状況に対して対立せず、考えの違う人を無理に誘わず、自分達の暮らしを守って楽しく生きる。
世の中からは、最初から居なかった事にしてもらう。ある意味「消える」
実際に今そうなっていて、自分達の中だけで、世の中とは完全に違う世界を生きている感覚だった。
何か仕切りや囲いがあるわけではないので、同じ場所に居ながらも、観ている世界がまるで違う。
コロナ騒動がどれほど大きくなろうが、国のトップたちがワクチン接種を一生懸命進めていようが、ここではまるで関係なかった。
この地域の知り合いの人数はまた少し増えて、70人に近づいていた。

2021年3月

季節は春になった。
この辺りでも2月は一番寒いはずなのだが、京都の冬に比べると寒いうちに入らないというのが、住んでみてよく分かった。
雪が降る事も道が凍る事も一度もなく、寒いのが苦手な梢は、いよいよこの地域が好きになった。
皆に聞いたところ、毎年冬の寒さはこの程度らしい。
3月に入ってからは、さらに暖かくなってきて菜の花や桃の花が見られるようになった。
春になると咲く花も多くなる。地域の人から、自宅の庭に咲いた花をもらったりして、食堂のテーブルに飾るとすっかり春の雰囲気になる
寒さが気にならなくなってきたので、動物たちは昼間よく外で寝ている。
この地域の動物たちは全部放し飼いだけれど、あまり遠くには行かない。
行動範囲がちゃんと決まっているらしい。

民宿の今日の仕事が終わり、梢と健太が食堂で遅めの夕食を取っていた。
「高校出た時すぐ行っといたら良かった。まあ時間もなかったししゃあないけど」
「惜しかったけど無くても何とかなるやろ。今のとこ」
「生活には困らへんし。まあええか」
今話しているのは、運転免許の事だった。
今は教習所でも感染対策万全で、マスク着用、検温、手指の消毒などが当たり前になっている。
それを考えると梢は、免許が欲しい願望よりも、そういう所に行きたくないと思う方が強かった。
健太も梢と同じ考えなので、もし自分がこれから免許を取りに行くとしたら、今の状況なら行かない方を選ぶと言った。
「ここにおったらそういう事忘れてるけど、こういう時思い出すよな」
「ほんまに嫌になるわ。普段は何も困ってないしええけど」

この時間になると外はまだ少しだけ寒い。
夕食の後は、洗い物を済ませて今日もらった野菜や魚を箱に入れたり冷蔵庫に入れる。
鍵を閉める前に、扉の外に動物の気配を感じるときは開けて見る。
今日は、外には通いの犬、猫が来ていて、少し離れたところにはいつもの狐が二匹来ていた。
残り物であげられる物を持って外に出ると、動物たちがぞろぞろと集まってきた。



梢は、健太とはいつの間にか一番よく一緒にいるようになって距離が近くなり、気が付いたら付き合っていると言える関係になっていた。
いつから付き合ったかと聞かれると、どちらもよく覚えていない。
付き合ったからといって、結婚がどうとかいう話にはならない。
ただ、お互いに一緒に居たいと思うから一緒にいる。
いつまでも続くだろうかとか、約束や契約が無いと不安とか、そういう考えの人はこの地域にはいない。
一生変わらないのがいい事で、そうではない事が悪い事という考えもない。
今、一緒に居たい人と一緒にいる。それは恋愛に限らずどんな人間関係でも同じだった。
いつ終わってもそれはそれと思っていると、なぜか反対にけっこう長く平和に続いている人が多かった。

ここでは皆がそんな感じで、家柄がどうとか跡継ぎがどうとか家系がどうとかいう考え方も全く無い。
夫婦なのか違うのか分からない人達が沢山いても、男性同士女性同士のカップルがいても、人の事は誰もごちゃごちゃ言わない。
恋愛にはあまり興味が無く、ゆっくりと一人を楽しむ人もいる。
どんな生き方もありで、ここでは何もかもが自由。人目を気にする必要が全くない。
これは恋愛や結婚に関してだけでなく、生活の全てにおいてそうだった。
人に対して余計な干渉はしない。
付き合っていても一緒に住んでいても、お互いに相手に対して「この人は自分のものだ」という考えを持たない。
なので、一般的によく見られる、恋愛がらみの修羅場はここでは見られない。
家族間や近所や会社での人間関係の、泥沼の争いとも無縁だった。
争いのほとんどは、執着、所有欲、依存、干渉から始まる。
それが無いとなると、争いも起きようがなかった。
「自由だと治安が悪くなる」と言う説は間違っていたかもしれないと、ここに来れば誰もが思う。

外から見ると、ここでの人と人との関係は、かなりあっさりしていてドライにも見える。
一人一人が自分の好きな事だけをして楽しく生きているので、他の人の事がやたらと気になったり執着心を燃やすという事も無い。
それでもここで繋がりを持っている人の人数は百人未満なので、皆お互いの顔も住んでいる場所も仕事も知っている。
近所で誰かの姿が見えないと、
「あの人ここ数日見かけないけど元気かな」
という感じで気になって訪ねて行くという事もある。
誰かが怪我や病気で具合が悪ければ、他の誰かが差し入れをしたり買い物に行ってあげるというのも、ここでは普通の事だった。
病気と言っても風邪で2~3日具合が悪くなる程度で、重い病気の人や持病があって病院通いをする人、介護を必要とする人などはこの地域にはいなかった。
ストレスが無く、いつも目の前に自分の好きな事やりたい事があると、人間は大抵元気でいられるらしい。

ここの民宿では特に休日でなくても、1日の中で1人ずつ交代で休みを取って外に出かける事も出来た。
その日の状況にもよるが、日によっては3時間くらいまとまった休みが取れる。
梢は、今日は昼食の後休みが取れたので外に出てきた。
雨の日なら部屋で本や漫画を読むか、好きなユーチューブの番組でも見るところだけれど、天気のいい日は出かけないともったいない気がする。
3月半ばを過ぎた今は、すっかり春の気候だ。
今年は桜が早いようで、もう蕾が膨らみかけている。今年は4月にならないうちに、満開の桜が見られそうだった。
自転車でゆっくり走りながら、まだ京都に居た去年の春は、計画していた花見が中止になってとてもがっかりした事を思い出す。

ここでの花見は、特に計画していなくても誰かが始めると来たい人は勝手に参加して、何となく始まると聞いている。
そういう緩い感じもこの地域らしくていいなあと思う。今年は楽しみだ。
桜並木を走りながら、今年の花見を思い描いた。
(唯さんとラインで話した時は・・・京都でも今年はカフェのお客さん達と花見やる予定とか言ってたな)

普通の日常に戻る事を望んでいる人は、この地域だけでなく何処にもいる。


少し先まで行くと、外にテーブルを置いて、数人の子供達が集まっているのが見えてきた。
ここでは、慶が子供たちに勉強を教えている。
古い町家を修理して住んでいる自宅と兼用の、私設の塾のような物だった。
昔で言う、寺子屋のような感じに近いのかもしれない。
今日は暖かく天気がいいから、勉強も外でやっているらしい。

通りすがりに梢が挨拶すると、みんなで元気よく返してくれる。
ここの子供達は、皆本当に健康で明るい。
感染対策が始まってから学校へ行かなくなった、世間一般で言う「不登校」の子供達。
世間では学校に行っていないというと、問題あり、異常、病気というとらえ方をするけれど、ここの子供達は学校へ行っている子供達よりむしろ元気に見える。
学校へ行けば、皆同じ時間割に従って行動し、何の意味があるのかよく分からない細かい規則を沢山守らないといけない。

梢は自分も子供の頃そういうのが嫌いだったので、学校へ行きたくない子供たちの気持はよくわかった。
それに加えて今は、感染対策として真夏でも1日中マスク着用、何度も手指を消毒、アクリル板やダンボールで仕切られた中で過ごす。
どう考えても健康に悪そうだし、精神的にも辛そうにしか思えない。
生活していくのに必要な事や、読み書きや簡単な計算を教わるのに、別に学校でなくても何の問題もないように思える。成長してからより多く学びたければ、通信教育という手もある。

慶が引っ越してきた時には、民宿のスタッフ全員で手伝いに行った。
オーナーと健太は家の修理が得意だ。数年間空き家になっていたボロボロの家は、二人が修理してかなり綺麗になった。
パソコン関係の事は侑斗が得意なので全部任せる。
慶が借りた家は、持ち主も、使わないし売れないしどうしようかと思っていたような物件だったらしい。
好きに直していいという事で、賃貸で借りられる事になった。元がボロボロなので家賃も安い。

こういう家がこの辺りにはまだもう少し残っている。
毎月、ここの地域の事を知って、一人、二人と引っ越して来たり、元々ここに住んでいる誰かの家族が来て人が増えたりしてるが、地域全体で百人程度までは増えても住めそうだった。
全国からバラバラに集まってきているのに、なぜか気が合わない人はいない。平和な日々は今日も続いている。

今年の桜は予想通り早くて、3月の終わりには満開になった。
聞いていた通り、何となく人が集まってきて花見を楽しんでいるという光景が見られた。
梢も、最初から人が集まっている場所へ、民宿のメンバー皆んなと一緒に参加した。
昼は昼で空の青を背景に満開の桜が美しく、夜は夜で幻想的な雰囲気が楽しめる。
夜は、誰かが照明を持ってきたらしく桜がライトアップされていて、昼間とはまた違う雰囲気が楽しめた。

普段から、この辺りでは野外で演奏を披露する人も多い。
ギターの弾き語り、トランペット、フルート、ハーモニカ、伴奏の音源を持ってきて歌を披露する人もいる。
一人で演奏する人もいれば、数人のメンバーでやっているグループもあった。
聴きたい人は立ち止まって聴いて、演奏が気に入ったらお金やら食べ物やら置いていく。
誰が決めたわけでもないけれど、何となくそうなっていた。

この日の花見のように、何かある時はいつも以上に路上で演奏をする人が多い。
順番が決まっているわけではないけれど、適当に譲り合っていい流れになっている。
常にだれかが何かやっていて、観る方も色んな演奏や歌が楽しめて飽きることがなかった。
食べ物を求めて集まってきた通いの動物たちも、聴きながらリズムに乗っている様子。
演奏の合間には、昔懐かしい紙芝居をやっている人もいて子供たちが喜んでいた。
工芸作品など普段店で売っている物を、持ってきて売っている人もいる。
皆それぞれに、好きなところにレジャーシートを敷いて、ライトアップされた桜を眺め、好きな飲み物や食べ物を楽しむ。
座らずに、ゆっくり歩いて桜を楽しむ人もいて、人それぞれだった。

梢は花見の様子を写真に撮って、前の職場の3人と作っているグループラインに送った。
数日後には、京都でも常連のお客さんを交えて花見をしている写真が送られてきた。
知っている顔ばかりで懐かしい。世の中がどう変わろうとも、変わらない場所がある。ここにも、そして京都にも。
この流れはきっと、もっと広がっていく。それを想像すると、梢の頭の中ではいくらでも楽しい空想の世界が広がっていった。

4月に入って以降は、天気のいい日の昼間は少し暑いくらいの時もある。
自転車で風を切って走るには、一番気持ちのいい季節がやってきた。
梢は最近電動自転車を買って、急な上り坂も楽に走れて全然疲れないので、以前よりもっと遠くまで行くようになった。
自転車がパンクしないか気にしつつ、まだ人の手があまり入っていない山道も少し走ってみた。
さらに遠くまで行きたい時は、健太が車で連れて行ってくれた。
民宿のメンバーや、この地域で出来た友達が一緒の事もあった。

地域全体をくまなく回ったり、もう少し外側まで行ってみる目的は、気分転換以外にもう一つある。
この地域全体で、つながっている人達の店を全部載せて地図のような物を作ろうという計画だった。
載せていいかという事は、店に行った時ついでに個別に聞いていた。載せて欲しくないという人はいなかったので、全部載せられる。
地図を作って店の場所が分かるようにして、店名と扱っている品物やサービスを書きこむ。
あとは、希望する人のみ連絡先やホームページなどの情報を載せる。
地域動物の事も載せると面白いかもしれないなど、新しい案も出ている。

これに関わっているのが民宿のメンバー4人と、薫、慶の6人だった。
この他に、時々相談に乗ってくれたり手伝ってくれるのが、カフェの女性オーナーと、そこの常連の達也と怜の二人。
出来上がったら、カフェの壁にもこれを貼ってくれる事になっていて、達也と怜のブログやユーチューブで、地域名は伏せた上で出していこうという計画だった。
地域名を伏せるのは、今も変わらず感染対策万全でやっている世の中の流れからすると全く反対の事をしているわけで、知られたら潰される可能性も考えているからだ。
ここを気に入って転居してくると見せかけて、工作員が送り込まれても困る。
まだもう少し人が住める余裕があるだけに、せっかくいい感じで暮らしているところを邪魔されたくないというのは、この地域の全員に共通する願いだった。
地図を作るのは、これから新しく移住してくる何人かの人が、ここに来た時に暮らしやすように。
そして、もしその人達が商売をしていて望むなら、そのお店の事も地図に書き加え、新しい店にも皆が行きやすいように。
そうやって皆が暮らしやすい場所を、楽しんで作っていこうという考えだった。
これに関わっているメンバーは皆、お金と時間にはそこそこ余裕があるので「取材」と称して店を回り、好きなように飲食したり買い物をする。そのついでに店内や商品の写真を撮ってくるというのが常だった。
そんなマイペースでも、地図は少しずつ完成していった。




「なんかまた店減ってる」
「ほんまに?ここ何ヶ月で?」
「そう。新しいホテルばっかり増えるわ」
京都にいる唯との、グループラインでの会話だった。
梢の前の職場であるカフェの三人が、この冬に泊まりに来てくれた時にも、そういう話は少し聞いていた。
それからわずかの期間にさらに、元あった店は軒並み潰れていき、建物ごと取り壊されてホテルが建てられているらしい。
数十年前から京都にいる人達からすると、ここまでの変化は今までになかったことで、何か得体のしれない気味悪さを感じると言う。
京都市内で、大きなビルがまとめて外国資本に買い上げられたという情報も入っていた。

場合によってはここには居られないという事を、この頃家族で話すようになったという事だった。
コロナ騒動以降特に「京都の街はすっかり変わってしまった」と言っているのはこの家族だけでなく、店の常連のお客さん達の間でも、SNS上でもその話は出ている。
東京は更にひどい状況らしく、大阪でも今までにない変化が起きていた。
都会にいるほどこの変化から逃げられないかもしれないというのは、今の世の中の騒動に疑問を持つ人の間で共通の認識だった。
梢は、今の場所で暮らし始めてからそういう危機感とは無縁で呑気に生きてる。
でも世の中はまだ、元に戻っていないどころかもっとひどくなっているという情報しか入ってこない。
個人店舗が次々と姿を消して街の様子は激変し、感染対策という名のもとに決まり事はどんどん増えて、さらに暮らしにくくなっているらしい。
「もしかしたら今年来年ぐらいに引っ越すかもしれん」
4人のグループラインには、そんな事も書かれていた。

京都でも、車が無いと暮らせないくらい不便な田舎の方に行けば、まだ変わっていない場所はあるという。
店が休みの日には、そういう場所に出かけて行ってリサーチしているらしい。
常連のお客さん達ともそんな話をしているようで、グループラインにも転居の話が、最近よく入ってきていた。
グループラインで話している内容から、唯と両親は、京都でどうしてもいい場所が見つからなければ京都を離れる事も視野に入れて今動いているようだった。
梢は、どんな形でもいいし三人がこれからも幸せに生きてくれるようにと願っている。

何か悪い事をしたわけでもないのに、なぜ逃げないといけないのかと思うと理不尽さも感じる。でも今の世の中の状況に合わせたくなければ、逃げると言うより離れるのが得策だと思える。そんなことが、グループラインでの会話に入ってきていて、梢もその通りだと思っていた。
この地域の人達の考えも、今の世の中の権力と戦うという感じではなかった。
戦おうとすれば、相手はより強い力で押してくる。もっと決まりを増やし、もっと強制力を強めて、さらに強く抑えつけてくる。
そうならないためには、静かにそっと離れる。
実際この地域の中では、梢は自分達が透明人間になったのではないかと思う事があった。

梢自身を含めここで繋がりのある人達の事は、この地域に住む他の人達から見えていないのではないか。そう感じる事がよくあった。感染対策を守らない不快な連中だからあえて無視しようというような、敵意も特に感じない。
存在自体が認識されていないのではないかという、何とも不思議な感覚だった。
この地域でも、テレビの情報を欠かさずチェックして感染対策を頑張っている人の方がずっと多いはずで、その人達はすぐ近くに暮らしている。実際、こちら側からその人達の事は見えている。
最近では、感染対策にはマスクを二重にするといいということが言われているらしく、そんなのを本気にする人がいるんだろうかと思っていたら、実行している人をけっこう見かけて驚いたことがあった。
花見の季節にも、一応それらしくレジャーシートを敷いて、でもマスク着用、距離を取って消毒液を何本も置いて、疲れた顔をして無言で向き合って座っている人達のグループをいくつか見かけた。
余計なお世話だが、あれで楽しいのかと疑問に思ってしまう。
こちら側からは向こうの世界が見え、反対からは見えていない。そんな事があり得るのかと思うが、どうもそれに近い事が起きているらしい。
こちらが対立の波動を出せば、相手側からもこちらを見て攻撃してくるし、文句を言ってくるだろう。
なのでこちらは戦う意思を持たず、対立せず、ただ自分達のペースで平和に暮らす。
相手の視界から消えるには、そこがどうもコツらしい。

今日も民宿のテーブルには春の花が飾られていて、外の花壇にも花が咲き乱れている。
新茶の季節なので、料理の後にお茶を出して喜ばれている。
果物はいちごが今荀なので、食後のデザートにはいちごを使っていた。
梢はここに来て、夏、秋、冬、春と全ての季節を体験して、毎月毎月季節の変化を感じる食べ物、草木、花、景色を楽しんでいる。
ここでは人間も動物も、相変わらず皆とても元気だった。
恐ろしい伝染病などどこで流行っているのかと思う。
その裏にある真実も知ってしまった今では、外でどんな事が起きていても「またやってるなあ」としか思えなかった。
来月は新緑の美しい5月になる。民宿のメンバーの間では、テーブルの飾り付けやメニュー、イベントをどうしようかと、今日も賑やかな話し合いが行われていた。

5月は半ばを過ぎたこの時期。外は新緑が眩しい。
この季節は、朝の散歩で緑の多い場所へ行くと、何時間眺めていても飽きないほどに若葉の緑が美しく、花も多く咲き乱れている。
一年のうちで最も、人が外に出かけたくなる季節かもしれない。

この季節を気持ちよく感じるのは人間だけではないのか、動物達も昼間からよくうろうろしていたり、道端で寝ている。
狸の親子は相変わらず時間通りに現れ、最初見た時は小さかった9匹の子狸達の、サイズもかなり大きくなってきた。
今月の初めには猫も子供を産んで、小さい子猫達が加わっていた。
この地域の人達は、開放的な外で過ごすのが普段から好きで、よほど寒い暑いがなければ外に居る事も多い。
そんな中でも特にこの季節は、皆んないつも以上によく出歩いている。
天気が良ければ公園でお昼を食べたり、テーブルと椅子のセットを庭に持ち出してお茶を楽しんだりもしていた。
そこに、おこぼれにあずかろうという動物達が集まってくる。

特別何か行事があるわけでもないのに、いつも何となく賑やかだった。
梢も、外に散歩に出るとすぐ知り合いに会った。
この地域全部が知り合いでつながっているというわけではないのに、なぜか繋がりのある者同士は外でもすぐお互いを認識する。
でもそれが、近所付き合いの煩わしさを感じるようなめんどくさいものでは全くなくて、ただ人がいるという安心感だけを感じられた。お互いに干渉し合わないので、常にこの関係が成り立っている。

前々からいつも不思議なのは、この地域には、繋がりの無い人、関係ない人もいるはずで、むしろそちらの方が多いはずなのに何故か、自分達の知り合い以外の存在を感じない。
ここには自分達しか住んでいないのではないかと勘違いしそうになる事がしばしば起きる。
これは本当に不思議な現象なのだけれど、ここの友人達に聞いても皆同じことを言っている。
特にここ1年ほどは、世の中がコロナの話題一色で感染対策で人々が皆んなピリピリしているはずなのに、ここでは全くそれを感じなかった。ここの皆で楽しみに見ているユーチューブの番組の情報では、今地球は既に5次元領域に共振しているらしい。
そのことが何か関係あるのだろうかと、集まればよく話していた。

この地域では、遊ぶことは子供だけの特権ではない。
大人でも年寄りでも皆が好きな事をして遊んでいる。そしてその遊びが仕事になっている。
この場所の事を聞きつけて引っ越して来た人はさらに少し増え、今の時点で82人になっていて、もう少しで100人。
これくらいの人数がいれば、生活の中で必要なほとんどの事は誰かそれが得意な人がやって、お互いに提供しあい十分に回せる。

この地域の中ではどんどん、お金のやり取りをする事すら減っている。そういう流れが見られた。
一般的にこの世の中では、お金とは神のような物で特別な物で、お金がなければ死んでしまう、少しでも多くお金を稼がないと大変だということになっている。梢も以前はそう思っていたし、親からも学校の先生からもそう言われて育ってきていた。
ここの他の人達に聞いても、やはり以前はそうだったと言う。皆んなそこから出て、今では違う価値観で暮らしている。

ここの地図を作る計画も着々と進んでいて、空いた時間に集まって皆でワイワイ楽しみながら作っていた。
最初は、地図の作成は主に民宿のメンバー4人に友人の慶、薫を加えて6人でやっていたのだが、他の人達もどんどん参加して来て、人数が増えて賑やかになっていた。
ここの人達は皆好奇心旺盛で、誰かが面白いことをやっているとなると集まってくる。
人が多く集まればアイデアも多く出て、さらに面白い物ができていく。

地図の裏面に、希望するお店の写真、連絡先電話番号、メールアドレス、SNSアカウントなどを載せる事になった。
載せて欲しくないという人はいなかったので、裏面に線を引いて枠を100個作り、当分に割った。
特に店を構えて商売をしていない人でも、連絡先は載せていいという人ばかりだったので空白はどんどん埋まっていく。
「花」「陶器」「野菜」など、売っている物の名前は分かりやすく色を変えたりして。楽しい地図が仕上がりつつあった。
今の調子なら、予定よりも早くでき上がりそうだった。まだ100人いないので、あとは新しい人が入ってくるたびに書き足していくということになる。

梢にとっても、仕事の楽しみ以外にこの楽しみも増えて毎日がとても刺激的だった。
梢は、京都にいる唯とは時々ラインで連絡を取っている。梢と唯の他に、マスター、ママを入れた4人のグループラインもあり、そちらもいつも楽しく盛り上がっていた。この3人は、梢が以前働いていたカフェのオーナー夫婦と一人娘だ。
3人が、ここの民宿に泊まりに来たのは数ヶ月前、この冬のことだった。

梢はその時知らなかったのだが、唯はここに滞在している間に慶と親しくなっていた。
他にもここで知り合いが沢山できたけれど、その中でもこの2人は気が合ったらしい。
それから続けて連絡を取るようになり、会えない距離ではないので時々行き来していた。
付き合うようになったのは最近のことで、今では梢も、唯の両親のマスターとママもそのことを知っていた。
元々カップルでこの地域に引っ越してくる人達もいるけれど、梢もそうだったように後からここで恋愛が始まる事もある。
恋愛も人間関係の一つだから、エネルギーの合う人達が集まってくれば恋愛が始まるのも自然な事だ。

唯が、この地域に住む慶と付き合いだした事を別としても、唯と両親の三人家族はこの地域への転居を考えていた。
冬に旅行で来て数日間滞在してみて、3人ともここが本当に気に入っていた。
京都の街はどんどん変わってきてしまっている。今の世の中の動きを見ていると、都会にいるほどその影響は受ける。
常連のお客さん達と離れるのは寂しいし、ずっと店を続けて欲しいという人達がいる事を思うとためらいもあるが、本当に住みにくくなる前に京都を離れる事は去年の終わりから考え始めていた。

この地域にはあともう少し、人が住めるスペースがある。
カウンターだけの小さな店をやるのにちょうどいい大きさの物件が先月空いて、それから特に本気で考えるようになっていた。
朝から晩までの長い営業時間が少し辛くなってきていて、夜の営業を中心にお酒を提供する店をやりたいというのが、マスターとママの希望でもあった。
来月もう一度ここに来て、物件を見てみることは決まっている。
もしここの家族が来てくれて店をやってくれたなら、今ここにはないタイプの店が出来る。
梢としては、もしそれが実現したら三人にいつでも会えるし、そうなったらいいなあと思っていた。
地域全体としても、新しい店が増えるのは大歓迎だった。

今も地図を作っていて改めて思うのは、本当にうまい具合に同じような店が重なったりせず、一店舗ごとに個性的な店が揃っている。ここに住んでいる人々の年齢も10歳以下から90歳以上まで幅広い世代の人がいて、そのおかげで情報の幅も広い。
5歳以下の子供達も全部で10人いるけれど、ここでは子供の面倒は皆んなでみるので、小さい子供のいる親だけが忙しくなって大変な思いをするということはない。子供を産んだことも子育て経験もない人でも、子供の世話を体験したければすることができる。
誰が何時から何をするなど一切決まっていないけれど、何となく全てがうまく回っている。

梢達は今日も仕事が終わった後、6人で集まって地図を制作していた。
場所は、広いテーブルが使えるこの民宿。作業中といっても、皆んな好きな飲み物やお酒を飲みながら、好きな物を食べながらで気楽なものだった。
「今見た限りでは大丈夫やったわ」
梢が、地図の書き終わった部分をもう一度全部見て、誤字脱字の確認を終えて言った。
「酔っ払ってないか?顔赤いで」
健太が笑って言う。
「そこまで酔うてないし、確認は大丈夫やと思うわ。多分」
「まあ違ってるとこあっても死なへんけど」
見る方も細かいことは言わないので、作る方もてきとうでいい。

「あ!やってもた」
侑斗が、食べていた揚げ物のソースを地図の上に落とした。
健太と2人でティッシュを持ってきて拭き取れるだけ拭き取ると、少しシミが残った程度になった。
「あとは修正液で消しといたら大丈夫やろ。どうせ印刷するんやし」
かなりいい加減なのだが、それだから続くわけで予定より早く出来上がりそうだった。

「ここだけで暮らせるよな。そう言うたら俺ここに越してきてから1回も県外出てないわ」
慶が、色を塗っていた地図から顔を上げて言った。
「たしかに。何でもあるしね。私も滅多に県外行かなくなったな。県外どころか普段は半径100メートル以上動いてないかも」
薫も同意する。本当にここには、生活に必要な物は何でもあり、遊びや楽しみのための場所も沢山あった。
音楽を聴きたければいつも野外で誰かが演奏をやっているし、特定の人の音楽が聴きたければその人のライブに行ったりユーチューブの番組を観ればいい。本や漫画が読みたければそれを置いている店があるし、趣味の品物を扱う店も多い。
大量生産された物と違って丁寧に一つ一つ作られた物は、長持ちもするし何故か飽きがこない。

この感じだと、今月には地図が完成して皆に配る分の印刷も終わりそうだった。
梢は地図を見ながら、元自分の職場でもある京都のカフェの3人がここに越してきたらという事を考えていた。
(この地図のこの辺りに描き足すことになるかな)
などと、想像しているとどんどん楽しくなってきた。
もし3人が来ても、その他にもまだ空いている所が少しあり、人数にしてあと20人近くは新しい人が入ってこれる余裕がある。
どんな人が来てくれるのか、どんなお店が増えるのか、これからも楽しみは尽きない。

ユーチューブを観ている時、たまにテレビの内容が目に入ると、コロナの騒ぎがまだ終わっていない。
変異株が出たとかどうとか言い出したし、ワクチン接種も2月からもう始まっている。
来月には高齢者を中心に全員接種に向けて動いているらしい。
ここにいるとそういう事は完全に忘れているので、たまに見ると知らない間に大変なことになっていて驚く。
そのうち職場や学校でのワクチン接種が始まりそうな勢いだ。
この地域の中にいる人は自営業がほとんどなので職場は大丈夫としても、子供達の中には外の学校に行っている子供もいる。
いざとなればここで全部勉強を教えることもできるので、そのための場所を少し広げることなども皆で時々話していた。

東の空がうっすらと明るくなってくるこの時間。
初老の医師はもう仕事を始めていた。
別に早く起きなければいけないわけでもないが、外の景色が夜から朝に変わっていくこの時間が好きだった。
ランニングシャツにステテコの上に白衣を引っかけて裸足でペタペタと歩く。
昔から組織で働くのは嫌いだし出世には興味がないので、小さな診療所で自分一人で働けるここの環境はとても気に入っていた。
環境が合うせいか数年前に還暦を過ぎていても健康そのものだった。
普段は夕方には仕事を終えて外に出て酒を飲む。
救急の外来が有れば時間外でも対応するが、ここでは滅多にそんな事は起きなかった。

やんちゃな遊び盛りの子供が怪我をしたとか、蜂に刺されたとかムカデに噛まれたとか、病気よりも怪我の応急処置の方が多いくらいだ。
体の不調に対しては鍼灸治療や漢方薬の処方を行なっている。
煎じ薬を調合するのには、昔ながらの天秤をずっと愛用している。
天秤の上に紙をのせて、その上に薬草をおいて量をはかっていく。
東向きの大きな窓が目の前にあるこの場所は、毎日朝日を眺めることができる最高の場所だ。
今日は強い風も無いから紙や薬草が飛ばされる心配もなく、窓を全開にして景色を楽しみながらゆっくりと仕事をしている。

何か茶色いものが目に入ったので天秤から目をあげると、立派な角を持った大きな鹿が窓からこちらをのぞいていた。
ぐっと頭を突き出して天秤の上の物を見ている。
「これか?食べもんやないで」
目が合ったので医師は鹿に語りかける。
薬草なので草の匂いがして食べられるものだと思ったのかもしれない。
「これは食べたらあかん。ちょっと待っときや」
テーブルの上に、昨日食べかけておいていた煎餅の袋があるのでそれを持ってきた。
一枚与えると食べたので残りも全部、玄関の扉を開けて外に置いた。
鹿が食べているのを少し離れて見ていると、向こうから5〜6歳くらいの男の子が走ってきた。
「先生来て」
「何やどうしたんや?」
「もうすぐ生まれるかもしれん。大丈夫やと思うけど一応呼んできてって言われたし」
「わかった。行くわ」
医師は往診用鞄を持って、子供と一緒に歩き出した。

すぐそこに見えている家の中から、元気のいい赤ん坊の泣き声が聞こえている。
歩いてこの家に向ながら、医師と男の子はそれを聞いた。
「来んでも大丈夫やったな。何よりや」
この地域で助産師をしている女性二人が家の中から出てきた。
一人は医師と同世代のベテランの女性で、もう一人はずっと若く30代の女性だ。
この二人は同じ仕事をしている母と娘だった。
二人とも晴れやかな笑顔なので、母子ともに健康なのが言われなくても分かる。
「先生。おはようございます。元気な女の子が生まれました」
「良かった。おつかれさん」

この地域では、出産の時誰も病院には行かない。
別にそう決まっているわけではないし個人個人好きにしていいのだが、何となくそうなっている。
機械に囲まれた分娩室で産むのが気が進まないので、安心できる自宅で産む。それがここでは普通だった。
ここに越してくる前から長年助産師をしていたこの二人もいるので、いつも出産の時はその家に行って手助けをする。
もし何かあった時のために、医師もすぐ近くにいるようにしていた。

「無事に生まれたし祝いに酒でも飲もか」
「もう先生朝から。自分が飲みたいだけやろ」
「バレたか」
中に入っていくと、生まれたばかりの子供を胸に抱いた女性がベッドで休んでいて、顔色も良く健康そのものだった。
「おめでとう。元気そうやなあ」
「ありがとうございます」
女性は満面の笑みで答えた。
出産を終えたあとの女性の肌は本当に美しく、子供を授かった喜びで表情は生き生きとして輝いている。
医師を呼びにきた男の子は、生まれた赤ん坊の兄になった。
「先生を呼びに行ってくれたんやなあ。ありがとう」
母親にそう言われて照れたように笑う。
生まれたばかりの妹を、少し不思議そうに興味津々で見ている。
「僕も生まれた時こんなに小さかったん?」
「そうやで」
「ほんまに?!」
男の子がものすごくびっくりした顔をするので皆の間に笑いが広がる。

外からも少しずつ人が集まってきた。
梢のいる民宿でも、出産が近い女性がいる事は知っていたのでお祝いの品物を用意していた。
泊まりのお客さんがいるので民宿には誰か居ないといけないし、交代でお祝いに行き、夜は皆んなで行こうということになっていた。泊まりのお客さん達も、何度もリピートしている人や数週間一ヶ月連泊している人ばかりなので、この地域の人と親しくなっていた。祝いの宴会がある時はお客さん達も皆何となく参加する。
この地域では何かイベントがあると、何となく人が広場に集まって来る。
祝い事があった家に寄って品物を渡した後も、来たい人は広場に寄って好きに飲食したり演奏を聴いたりするのがいつものことだった。
季節のいい時は眠くなればその辺で寝ている人がいるし、深夜明け方まで飲んで話して楽しむ人達もいる。
一人で静かに座って「皆の存在を感じる賑やかな空間での一人時間」を楽しむ人もいる。

この地域では、人間の子供はもちろん動物の子供が産まれても祝うし、新しい人が引っ越してきても祝うし、誰かの店が新装オープンしても祝う。
誰かの絵の展示会や、、陶芸、木工、アクセサリーなどの展示即売会もたびたびあるし、音楽をやっている人の演奏会やCD販売会もある。
ほぼ数日に一度は誰かが何かやっていたり、何かを祝っているので、ここで生きていると飽きるとか退屈という事がない。
かといって何かあれば行かなければという事も無い。行きたければ行けばいい。
ここに来てもうすぐ丸一年になる梢も、ここでは日常の全てがイベントのようだと思っていた。

6月のはじめには、京都のカフェの一家三人が来て、店舗用物件を見た。
マスターとママが思い描いていた通りの物件だったようで、喜びの興奮状態で借りる事を即決した。
広さはないので経費も京都にいる時より安く抑えられそうだった。
昭和30年代40年代が全盛期だった昔ながらのスナックの感じを再現したいという希望があるらしい。
早くも店に出すメニューの話しで盛り上がっていた。
マスターとママは京都の店があるので民宿に二泊したあと帰っていった。
これから内装を直さないといけないし、京都の店のこともあるのでオープンは年末頃になりそうだ。

唯は京都へは戻らず、慶の家で一緒に暮らし始めた。
年末には両親もこの地域に来るので、数ヶ月離れるけれどまた両親とも近くで暮らせる。
スナックは二人で十分なので、唯は民宿で梢達と一緒に働く事になった。
また一緒に仕事ができることが、二人とも本当に嬉しかった。

宿泊客以外の人も一階の食堂に入れるようにして、モーニングやランチのメニューを提供したり、自家製の漬け物や菓子を売りたいという話しは前から民宿の4人の間で出ていた。
でも、これ以上忙しくなって大変になるのもどうかなあというところで計画がストップしていた。
唯が入ってくれて主にそちらをやってくれるなら、ついにこれが実現できそうで民宿の全員にとってもありがたいことだった。

皆で作っている地図にも、さっそく今度オープンする店の事も書き入れ、2021年12月オープン予定と書いた。
地図はもう仕上がっていて、印刷して地域の中で配り始めたり、各店舗に置いたり、拡大した物を壁に貼ったりしていた。
新しい店ができるたびに最新版を作っていく。
皆のアイデアが集結して、カラフルで楽しい地図が出来た。
ここに住む人達の人数は、今日一人生まれた事、唯が来た事、マスターとママが年末に来る事なども入れて90人近くなった。
これから出産予定の人もいるし、念願の100人程度の小さな村がもうすぐ完成する。

ここには、人工的な遊び場のような物もほとんど無いし、豪華絢爛な建物や高いビルも無い。
それでも、豊かな自然、季節の移り変わりと美しい景色、人々の触れ合いがあって毎日が楽しさに溢れている。
全員がいつも半分遊んでいるようなものなので、特に仕事を休んで休息を取って・・・という考えはここでは不要だ。
仕事と遊びの境目はゆるく、日常の中に仕事があり遊びがあった。
賑やかな事が好きな誰かがしょっちゅう勝手にお祝いやらイベントやらやり出して、別に参加募集案内などしないのに、参加したい人は勝手に集まってきた。
静かな時間を過ごすのが好きで一人で過ごしたい人は、好きなだけ一人で過ごしている。
それでも周りには、近い考え方の人達が居るという事で何となく安心感があった。

何の強制も干渉も無く、個人個人が好きに生きている。
ただ周りに皆の存在がある安心感。
それがこの地域の一番いい所だと梢は思っている。

2024年12月

今年の夏、やっと最後の一人が移住してきた。
新しい場所に全員が移ってから数ヶ月が経ち、季節は冬になった。
最初の場所から、一年以上の時間をかけて数人ずつ、少しずつこちらに移動してきていた。
何年も何十年も放置されている空き家は多かったけれど、以前の場所と比べて全ての家が酷く傷んでいて、すぐに住める状態の家はなかった。
そういう家を、住めるように整えるまでにもかなり時間がかかった。
最近になってやっと、以前の場所と比べてほぼ変わらない暮らしができるまでになった。
周りの環境として、より多く自然が残っているという意味では、前の場所以上にここが好きと言う人は多い。
梢も、この場所の方が前以上に好きで、同じ民宿で働く皆も同じ意見だった。
朝起きた時に聞こえる様々な鳥の声、すぐ近くにいる動物達や昆虫達、樹齢数百年、中には千年以上ではないかと思われる大木が至る所で見られるこの場所は本当に素晴らしい。

海に近かった前の場所よりもここは山深い。
以前は自転車でよく行っていた海岸線までは車で一時間ほどかかる。
駅からもずいぶん遠く離れて、この場所にはバスさえも朝と夕方の二回しか来ない。
それも乗る人が少ないので、もうすぐ無くなるのではないかと噂されていた。
もしそうだとしても、この地域の人達の三人に一人は自家用車を持っており、持っていない人は気軽に乗せてもらえるので何も不自由はなかった。バイクや自転車が好きな人は、普段それで山道を移動した。
舗装されていない土の道は、徒歩での散策でも足が疲れず、長時間気持ち良く歩ける。
「体を鍛えるために特に頑張って運動しよう」などと思わなくても、日常の散歩だけでいい運動になった。

ここでは以前と違って、自分達の知り合い以外の人間をほとんど見かけない。
駅からも遠く離れ、ガイドブックなどには一切載っていないので、旅行者が思いつきでふらりと立ち寄るような場所ではないからだ。
たまに車で駅近くまで出かけるとなると「山を降りて街に行ってくる」という感覚になる。
そう度々街に行かなくても、山奥ながら電気ガス水道があり、ネット環境も整っているので、ここにいてほとんど困る事はなかった。
ここにはまだ手付かずの豊かな自然が残っていて、水や空気、食べ物が美味しく、安心できる人とのつながりがある。
以前と変わらず毎日の生活そのものを楽しめる環境と、賑やかな祭りやイベントなどの沢山の楽しみもあった。

民宿に泊まりに来るのは、以前から何度も来ている長期連泊の馴染みの客か、そこからの紹介者しかいなかった。
それでも八部屋ある民宿は、いつも満室になっている。
働いているメンバーは以前から変わらない。
相変わらず皆で和気あいあいと仕事をしている。

一番新しくここのスタッフに加わった唯は、今では三歳の女の子と一歳の男の子のお母さんになっていた。
この地域では子供が生まれたら皆で面倒を見るので、一人で大変な思いをして孤独に子育てをすることにはならない。
子供を預ける必要がないから、この地域には幼稚園や保育園に行っている子もいない。
年齢はバラバラで十数人いる子供達は、皆でてきとうに遊んでいる。
ここに移ってきてからは前以上に、木に登ったり昆虫を観察したり砂や土で遊べる場所が多くなった。
子供達は木の枝や石を集めて「秘密基地」なるものを作って遊んでいる。
誰かが山の斜面を滑っていて落ちたり木から落ちて怪我をした時は、診療所の医師が呼び出され往診鞄を持って出動してくるのだが、今のところそれで済んでいて救急車を呼ぶような事態になった事はなかった。
危ないからこれをしてはいけない、あれをしてはいけないというような事を、ここの親達は誰も言わない。
子供達はいつも泥まみれになり、たまに怪我をしたりしながら逞しく育っている。

民宿以外もこの地域では自営業の人達が多かったが、ここの中だけでも需要はあるので売り上げはそれなりにあり、誰も生活には困っていない。
のんびり暮らして行く分にはそれだけで十分だった。
お金を介さない物のやり取りも、以前にも増して増えていて、生活に必要な金額も少なくて済んでいる。
欲しい物があったりしてさらに稼ぎを増やしたい人は、インターネットで店の物を売っている。

元々この場所に住んでいた数人のお年寄りも、新しくやってきた見知らぬ人間達を温かく迎えてくれた。
この場所がどんどん寂れていくよりも、活性化される方がいいと思っている感覚が伝わってきた。
いっぺんにどっと移住するのではなく最初は数人、この地域の人達と親しくなり慣れた頃にまた数人、という形で少しずつ増やしていったのも良かったのかもしれない。
元々ここにいた人達は全部で六人。祖父母の代、親の代からここで育った人達で、今では全員が八十歳以上、上は九十歳を超えている人もいるけれど、皆逞しく元気だった。
この人達の子供、孫の世代の人達は、仕事の都合も含めて不便な山よりも都会での暮らしを求めてここを離れ、年に一度顔を見せる程度になっていた。コロナ騒動以降はそれすらも無くなり、身内が訪ねてくる事はなかった。

ここの人達は、車もバイクも無かった頃からここで育ち自然に体を鍛えているからか皆頑健で、自分のことは自分でやるし、やたらと人に頼らない強さがある。
一組の夫婦と、他の四人は皆一人暮らし。家と家の感覚は隣が見えないほど離れているので、お互いに余計な干渉もなく、マイペースで生きている様子だ。
移住していった方も、ここの人達と同じような年代の人達もいれば若い人達もいる。
ここの人達も、色々な年代の人と触れ合うのは楽しみなようで、皆いい感じで親しくなっていった。
この土地のことでわからない事は、古くから住んでいる人達に聞くと快く教えてくれる。
食べ物や品物なども互いに分け合い、元々居た人達と移住組を合わせてちょうど百人の村が出来上がっていった。


以前の場所を離れて、さらに人里離れたこの場所に皆で引っ越してくるきっかけになったのは、世の中全体の変化だった。
2021年の終わり頃から、世の中の様子があまりにも急激に変わり始めた。

それはもっと前から始まっていた事で、2019年の末頃から始まったのコロナ騒動。その時から続いている。
もっと言えばそれより前からずっと続いていた事が、コロナ騒動を機会にはっきりしてきた、支配が強まってきたというだけなのだが。
そんな世の中の状況からそっと離れるように、考え方の近い人達が、一人、また一人と少しずつこの地域に集まってきた。
梢は旅行に来たのをきっかけにこの場所を知り、今の民宿で働くようになった。

その後梢は、同じくここで働いていた健太と親しくなり、付き合うようになった。
今でも以前と変わらず、同じ民宿で働き、仕事場のすぐ近くに二人で住んでいる。
梢がここに来る前京都に居た頃に、働いていたカフェのオーナー夫婦もこの地にやって来た。
十人座ればいっぱいになるカウンターだけの小さなスナックを二人で営んでいて、店内はいつも満員で賑わっている。
夫婦の一人娘である唯は、この地域で子供達に勉強を教えている慶と知り合い、一緒に暮らすようになった。

この頃で既に、地域の中で繋がりを持つ人達の人数は百人に近くなっていた。
元々この地域に居た関係のない人達の方がはるかに多い中で、何となく棲み分けて平和に暮らしていた。
地域の中の地図も出来上がり、他の場所へほとんど行かなくても、つながりのある人達の間だけで衣食住も足りて楽しみもあり十分暮らせるようにまでなっていた。

最初は皆、あのまま同じ場所で暮らすつもりだった。

ところが、その後世の中の様子は日を追うごとに不穏になっていき、コロナ対策と理由を付ければ何でもありで、いろいろな事が強制的に決まっていった。
街の中の様子も、人々が皆が神経を張り詰めてピリピリしている。
そのエネルギーが伝わってきて、ここで楽しく生きていくのがだんだん難しくなってきた。
「本当に住みにくくなる前に引っ越そう」という話が、仲間内で出始めた。

2022年の中頃から、梢と健太、民宿のオーナーの喜一と、同じ民宿で働く唯と侑斗など主に民宿のメンバーが、移住候補の地域をあちこち下見していた。
唯のパートナーの慶や、民宿のメンバーの共通の友人である薫も加わることがあり、皆で情報を集め、話し合った。
地域の地図作りが終わった後に、そのメンバー達がそのまま今度は移転先探しで集まるようになっていた。
そんな中で2022年の秋に、今の場所を見つけたのだった。


街に行くのは、ほぼ一年半ぶりだった。
今日は健太の運転で、久しぶりに以前住んでいた街に向かっている。
「前行ったのっていつやったっけ?」
梢は、運転席の健太に話しかけた。
「今年が2024年やろ・・・去年の最初・・・いや春ぐらいやったかな」
「2023年か。あの頃でもめちゃくちゃカメラ多かったけど今どんなんやろ」
「あんまり酷かったらすぐ帰ろな」

途中すれ違う車も人もいない山道を抜け、一時間近く走った頃、少しずつ道幅が広い場所に出て街が見えてきた。
時刻は正午近く、寒い12月でも車窓から入る昼間の太陽光は暖かかった。
「お腹すいたしどっか入る?」
梢は、半分答えが分かっていながら聞いてみた。
「入れるとこ無いやろ」
「そやろな。車停めて非常食にしよか」
朝一緒に作った民宿のランチ用料理から、少し貰ってきていた。
民宿にはあと三人いるので、今日この後の時間は休みをもらっている。
以前住んでいた街の中を一周し、海岸線を走った。

海を見渡せる場所に車をとめて、窓を開けて少し潮風を入れる。
今日はあまり風が強くないのもあって、耐えられない寒さではなかった。
外の冷たい空気がむしろ気持ちいい。
アルミホイルで包んだ卵焼き、おにぎり、漬物などをつまみながら、水筒に入れて持ってきたお茶を飲んだ。
いつも食べているメニューも、違う場所で食べるとまた気分が変わって新鮮に感じられる。
「やっぱりカメラ増えてない?」
「予想はしとったけど見たらやっぱげっそりするわ。そこにもあるやろ?」
健太の視線の先にも監視カメラがあった。
車をとめて話している間でさえ、何だか居心地が悪い。
常に監視されているような気がした。
プライベートな話の内容すら、聞かれているのかも知れない。

街の中から個人店は全て消え去り、駅前にコンビニが一つと、大型ショッピングモール一店舗だけが残っている。
外を自由に出歩く人の姿さえ少ない。
買い物は通販、娯楽もほとんどがVRの世界で済まされ、リアルの楽しみを求める人は減っているらしい。
そういう場所さえほとんど無いのだから、求めたとしても行きようがないのだが。
ほとんどの人にとっては、体内に埋め込まれたマイクロチップがないと暮らしていけないのが今の世の中だ。
ワクチン接種証明を含む色々な個人情報の入ったマイクロチップ。
どこに入るにも、何かの手続きをするにも、それによって認証される。
商店街が潰れた後には、以前にはなかった得体の知れない灰色のビルがいくつか出来ていて、わずか数年で街は色を無くしたように見える。
ビルの入り口、街中の至る所に監視カメラが取り付けられ、まるで街全体が巨大な刑務所のようだ。

オリンピックの終わった後一年ほどで、コロナ騒動は一応落ち着いたかに見えたけれど監視管理体制に入って行く流れは止まらなかった。
感染対策として始まった生活習慣がむしろ当たり前のように定着し、さらに監視体制が強まって少しずつ自由が無くなっていくことに、誰も気が付いていないように見えた。
一時期は、ワクチンの副反応を疑う人達が出始め、政府はそれをどこまでも否定、政府への反発は強まり、殺伐とした空気が一部で広がっていた。それを通り越すと今度は、全てを諦めたような人達が管理体制の中に組み込まれていき、刑務所を思わせる世界が出来上がっていった。
家族、交際者、友人、どんなに近い人であっても、大多数の人がそちらを選んでいくのを止める事は、ほとんどの場合叶わなかった。

こうなる事を予測して、せっかく落ち着いていたあの場所を捨て、皆で移動したのは間違いではなかったと梢は改めて思う。
「やっぱり入れる店全然無さそうやな」
さっき見てまわった街の様子を思い出し、梢は健太に言った。
「てきとうに走ったら帰ろか」
「家が一番ええわ」
「海の景色だけは変わらんし、それだけ楽しんで帰ろ」
それは健太の言う通りだった。
街の中がどんなに変わっても、この海の景色だけは一年前も二年前も、さらに前の梢が京都からここに越してきた時からも、ずっと変わらない。

家に帰ろう。

いい響きだと思う。

梢には帰れる家があり、豊かな自然に囲まれた環境があり、そこに住む人達の笑顔がある。

「今日言おうと思って黙っててんけどな」
梢は健太に話しかける。
「多分来年の夏ぐらいにもう一人増えるで。今まだお腹の中におるけど」
「そうか!何となくそうかいなと思ったことあったけど間違いなかってんな。帰ったら祝いや!はよ帰ろ」
健太は満面の笑みを浮かべ、アクセルを踏み込んだ。
「スピード出したらあかんて。カメラあるし」

灰色の街の方には目を向けず、梢は車の窓から見える海の景色だけを、ゆっくり目に焼き付けるように眺めた。
ここへ来るのは次はいつなのか、もしかしたら当分来る事はないかもしれない。
海岸線を抜けて山道に入ると、家に近づいている感覚に心が安らぐ。
山間のあの村では、自分達の親世代の人達も、祖父母世代の人達も皆限りなく元気で生き生きとしている。あの村で生まれ、これから大人になっていく子供達は、そんな周りの大人達に囲まれ、豊かな自然に触れながら伸び伸びと育っていく。
来年生まれてくる子供にとっては最高の環境だと梢は思う。
歳を重ねても元気な周りの人たちを見ていると、まだまだ長い自分のこれから先の人生も、希望に満ちたものに思えてくる。

変わっていく世の中に絶望しかけた時も、諦めなくてよかった。

家に帰ろう。



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