最果ての地にて愛をつなぐ ⑲ 第14章 2021年6月

小説 最果ての地にて愛をつなぐ

丸い社会をイメージして書いている架空の物語です。

東の空がうっすらと明るくなってくるこの時間。
初老の医師はもう仕事を始めていた。
別に早く起きなければいけないわけでもないが、外の景色が夜から朝に変わっていくこの時間が好きだった。
ランニングシャツにステテコの上に白衣を引っかけて裸足でペタペタと歩く。
昔から組織で働くのは嫌いだし出世には興味がないので、小さな診療所で自分一人で働けるここの環境はとても気に入っていた。
環境が合うせいか数年前に還暦を過ぎていても健康そのものだった。
普段は夕方には仕事を終えて外に出て酒を飲む。
救急の外来が有れば時間外でも対応するが、ここでは滅多にそんな事は起きなかった。

やんちゃな遊び盛りの子供が怪我をしたとか、蜂に刺されたとかムカデに噛まれたとか、病気よりも怪我の応急処置の方が多いくらいだ。
体の不調に対しては鍼灸治療や漢方薬の処方を行なっている。
煎じ薬を調合するのには、昔ながらの天秤をずっと愛用している。
天秤の上に紙をのせて、その上に薬草をおいて量をはかっていく。
東向きの大きな窓が目の前にあるこの場所は、毎日朝日を眺めることができる最高の場所だ。
今日は強い風も無いから紙や薬草が飛ばされる心配もなく、窓を全開にして景色を楽しみながらゆっくりと仕事をしている。

何か茶色いものが目に入ったので天秤から目をあげると、立派な角を持った大きな鹿が窓からこちらをのぞいていた。
ぐっと頭を突き出して天秤の上の物を見ている。
「これか?食べもんやないで」
目が合ったので医師は鹿に語りかける。
薬草なので草の匂いがして食べられるものだと思ったのかもしれない。
「これは食べたらあかん。ちょっと待っときや」
テーブルの上に、昨日食べかけておいていた煎餅の袋があるのでそれを持ってきた。
一枚与えると食べたので残りも全部、玄関の扉を開けて外に置いた。
鹿が食べているのを少し離れて見ていると、向こうから5〜6歳くらいの男の子が走ってきた。
「先生来て」
「何やどうしたんや?」
「もうすぐ生まれるかもしれん。大丈夫やと思うけど一応呼んできてって言われたし」
「わかった。行くわ」
医師は往診用鞄を持って、子供と一緒に歩き出した。

すぐそこに見えている家の中から、元気のいい赤ん坊の泣き声が聞こえている。
歩いてこの家に向ながら、医師と男の子はそれを聞いた。
「来んでも大丈夫やったな。何よりや」
この地域で助産師をしている女性二人が家の中から出てきた。
一人は医師と同世代のベテランの女性で、もう一人はずっと若く30代の女性だ。
この二人は同じ仕事をしている母と娘だった。
二人とも晴れやかな笑顔なので、母子ともに健康なのが言われなくても分かる。
「先生。おはようございます。元気な女の子が生まれました」
「良かった。おつかれさん」

この地域では、出産の時誰も病院には行かない。
別にそう決まっているわけではないし個人個人好きにしていいのだが、何となくそうなっている。
機械に囲まれた分娩室で産むのが気が進まないので、安心できる自宅で産む。それがここでは普通だった。
ここに越してくる前から長年助産師をしていたこの二人もいるので、いつも出産の時はその家に行って手助けをする。
もし何かあった時のために、医師もすぐ近くにいるようにしていた。

「無事に生まれたし祝いに酒でも飲もか」
「もう先生朝から。自分が飲みたいだけやろ」
「バレたか」
中に入っていくと、生まれたばかりの子供を胸に抱いた女性がベッドで休んでいて、顔色も良く健康そのものだった。
「おめでとう。元気そうやなあ」
「ありがとうございます」
女性は満面の笑みで答えた。
出産を終えたあとの女性の肌は本当に美しく、子供を授かった喜びで表情は生き生きとして輝いている。
医師を呼びにきた男の子は、生まれた赤ん坊の兄になった。
「先生を呼びに行ってくれたんやなあ。ありがとう」
母親にそう言われて照れたように笑う。
生まれたばかりの妹を、少し不思議そうに興味津々で見ている。
「僕も生まれた時こんなに小さかったん?」
「そうやで」
「ほんまに?!」
男の子がものすごくびっくりした顔をするので皆の間に笑いが広がる。

外からも少しずつ人が集まってきた。
梢のいる民宿でも、出産が近い女性がいる事は知っていたのでお祝いの品物を用意していた。
泊まりのお客さんがいるので民宿には誰か居ないといけないし、交代でお祝いに行き、夜は皆んなで行こうということになっていた。泊まりのお客さん達も、何度もリピートしている人や数週間一ヶ月連泊している人ばかりなので、この地域の人と親しくなっていた。祝いの宴会がある時はお客さん達も皆何となく参加する。
この地域では何かイベントがあると、何となく人が広場に集まって来る。
祝い事があった家に寄って品物を渡した後も、来たい人は広場に寄って好きに飲食したり演奏を聴いたりするのがいつものことだった。
季節のいい時は眠くなればその辺で寝ている人がいるし、深夜明け方まで飲んで話して楽しむ人達もいる。
一人で静かに座って「皆の存在を感じる賑やかな空間での一人時間」を楽しむ人もいる。

この地域では、人間の子供はもちろん動物の子供が産まれても祝うし、新しい人が引っ越してきても祝うし、誰かの店が新装オープンしても祝う。
誰かの絵の展示会や、、陶芸、木工、アクセサリーなどの展示即売会もたびたびあるし、音楽をやっている人の演奏会やCD販売会もある。
ほぼ数日に一度は誰かが何かやっていたり、何かを祝っているので、ここで生きていると飽きるとか退屈という事がない。
かといって何かあれば行かなければという事も無い。行きたければ行けばいい。
ここに来てもうすぐ丸一年になる梢も、ここでは日常の全てがイベントのようだと思っていた。

6月のはじめには、京都のカフェの一家三人が来て、店舗用物件を見た。
マスターとママが思い描いていた通りの物件だったようで、喜びの興奮状態で借りる事を即決した。
広さはないので経費も京都にいる時より安く抑えられそうだった。
昭和30年代40年代が全盛期だった昔ながらのスナックの感じを再現したいという希望があるらしい。
早くも店に出すメニューの話しで盛り上がっていた。
マスターとママは京都の店があるので民宿に二泊したあと帰っていった。
これから内装を直さないといけないし、京都の店のこともあるのでオープンは年末頃になりそうだ。

唯は京都へは戻らず、慶の家で一緒に暮らし始めた。
年末には両親もこの地域に来るので、数ヶ月離れるけれどまた両親とも近くで暮らせる。
スナックは二人で十分なので、唯は民宿で梢達と一緒に働く事になった。
また一緒に仕事ができることが、二人とも本当に嬉しかった。

宿泊客以外の人も一階の食堂に入れるようにして、モーニングやランチのメニューを提供したり、自家製の漬け物や菓子を売りたいという話しは前から民宿の4人の間で出ていた。
でも、これ以上忙しくなって大変になるのもどうかなあというところで計画がストップしていた。
唯が入ってくれて主にそちらをやってくれるなら、ついにこれが実現できそうで民宿の全員にとってもありがたいことだった。

皆で作っている地図にも、さっそく今度オープンする店の事も書き入れ、2021年12月オープン予定と書いた。
地図はもう仕上がっていて、印刷して地域の中で配り始めたり、各店舗に置いたり、拡大した物を壁に貼ったりしていた。
新しい店ができるたびに最新版を作っていく。
皆のアイデアが集結して、カラフルで楽しい地図が出来た。
ここに住む人達の人数は、今日一人生まれた事、唯が来た事、マスターとママが年末に来る事なども入れて90人近くなった。
これから出産予定の人もいるし、念願の100人程度の小さな村がもうすぐ完成する。

ここには、人工的な遊び場のような物もほとんど無いし、豪華絢爛な建物や高いビルも無い。
それでも、豊かな自然、季節の移り変わりと美しい景色、人々の触れ合いがあって毎日が楽しさに溢れている。
全員がいつも半分遊んでいるようなものなので、特に仕事を休んで休息を取って・・・という考えはここでは不要だ。
仕事と遊びの境目はゆるく、日常の中に仕事があり遊びがあった。
賑やかな事が好きな誰かがしょっちゅう勝手にお祝いやらイベントやらやり出して、別に参加募集案内などしないのに、参加したい人は勝手に集まってきた。
静かな時間を過ごすのが好きで一人で過ごしたい人は、好きなだけ一人で過ごしている。
それでも周りには、近い考え方の人達が居るという事で何となく安心感があった。

何の強制も干渉も無く、個人個人が好きに生きている。
ただ周りに皆の存在がある安心感。
それがこの地域の一番いい所だと梢は思っている。

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