正しく美しい事とされているけれど・・・「神様は見ている」という意識の裏側

自営業者の日常雑記

「人の見ていない所でいい事をしたら・・」

・・・の部分に
「神様は必ず見ているから幸せになれる」
「神様は見ているから、あとからいい事を起こしてくれる」
「神様はその行いも見ているから、
死んでから天国に行ける確率高くなる」とか。
世間では割と当たり前のように言われているし、
この考え方は正しく美しいことだとされている傾向だけれど。
以前からこれには思いっきり違和感がある。

逆に「悪い事したら・・・」の場合も結局は同じで
「神様は見てるから、あとから悪いことを起こして罰を与える」
「神様はその行いも見ているから、死んだら地獄に行く」

「神様」といううのが、特定の宗教の中で崇められる存在であっても、
特定の宗教では無いけれど、何か人間よりも絶対的に賢く偉大で
力のある存在という意味であっても、いつもその存在に見られている
という感覚に変わりは無い。
常に監視されていて尚且つ、その存在の価値観を基準とする良い事を
するか悪い事をするかジャッジされ続けているといううわけで。

常に何者かに見られているという感覚で、
人の見ていないところで良い事をするから後で良い事を起こしてほしい
という願望だったり、
悪い事をしたら地獄行きかもしれないという恐れから行動するなら・・・
それは本当の自分の意志とは全然違うと思う。

この場合の「神様」って一体何者?

この場合の「良い事」「悪い事」は、一体誰の基準?

日本では昔から「八百万の神」という考え方があって、
人間含む地球上の全ての動植物、
天地自然の全ての中には神が宿るというもの。
これだと、ここまで書いてきた「神様」とは違うと思うけれど。
全ての中に神が宿る。
すなわち全ては同じ存在というワンネスにも繋がってくるので。

ところが、最初に書いた「神様は見ているから・・・」
という場合ほとんどが、自分とは別存在の人間より上の立場に居る
人間よりずっと力のある存在というイメージ
で言っている。
その存在に喜ばれるように行動しなければ。
その存在の逆鱗に触れないよう行動しなければ。
という思考が常にあって、見られている、ジャッジされているという
感覚が抜けない。

「良い事」「悪い事」という判断基準が何処からくるかという、
親に教えられた事、学校で教えられた事(親も学校に行ってるので
親から教えられた事も学校で教えられた事とイコールであることが多い)
特定の宗教に親が入っていたり大人になってから自分が入ったらそこで
教えられた事。

良い事悪い事の基準がなくていいなら、毎日どんどん人を殺しまくって
物を盗みまくってもいいのか?という
極端な話になってくることもあるけれど・・・
まあ実際今の人間社会でピラミッド型システムの上の方に居る人達は、
医療ビジネス、あらゆる項目の税金という名のカツアゲ、中抜きで
それに近いことやってるけど。
日常直接的に目に触れないそういうことは、ほとんど誰も問題に
しないわけで・・・

それは一旦おいておいて、殺人や泥棒ということは別にしても
「良い事。悪い事」の基準が、
子供の頃から繰り返し教えられたきたことが土台
というのは
分かると思う。
学校で教えられる良い事とは、集団行動が出来る事、
物事は多数決で決めてそれに従う事、決められた規則に従う事、
リーダーを選び、そのリーダーの指示に従う事
などがある。

悪い事とは、それに従わない事、違う意見を持つ事、
決められた事やリーダーの指示に疑問を持つ事、
集団行動ができない事。

この他には「良い事」として、ボランティアをする事、
寄付する事、誰かに親切にする事などがあるけれど、
これもどうかと思う。
本当にやりたくてそれをやるのではなくて
「神様は見ているから」が無意識のうちに動機になってる
としたら・・・
「自分が神様がらよく思われること」が目的なわけで。

寄付をするのも、そのお金が本当に、表面上「ここに寄付します」
と言われている場所に行っているのかどうか、
あやしい
ものはいくらでもある。
そこを確認もしないで「寄付した(良い事をした)神様は見ている」
では、どうしようもないと思う。

人に親切にするというのも、本当に相手がそれを望んでいるかよりも
「良いことをしている自分」の方が先
にあって
「いい事をしている自分を神様は見ている」になっていたら同じこと。

寄付やボランティアの場合にもこれはある。
相手側が望んでもいない見当違いのものになっていたり、
場合によっては裏に利権が絡んでいる事も。

良い事悪い事というのが、
無意識のうちに刷り込まれた基準になっていないか?
常に何者かに見られている意識が無いか?

常に自分の内面を観察してみるとよく分かってくる。


今の人間社会が向かっている方向を見ると、
物理的な意味でも常に何者かに見られていて
ジャッジされるような世界へと突き進んでいる。

治安が悪くなってきたことを理由に(自然にそうなったのでなく
悪くしていくことも彼らはできるわけで)至る所に監視カメラを
設置する。
犯罪を未然に防ぐという理由付けで信用スコアを導入し
個人情報を完全監視管理。
彼らの基準での「良い人間」で無ければ、逮捕、監禁、処刑も
ありうる世界(改憲が通ればこれは可能)
自然災害の増加、食糧自給率の低下、経済的困窮者の増加などを
理由に(どれも自然現象ではないけれど)居住区域の制限、食糧配給制へ。
新たな感染症の発生、拡大を理由に(そんなものは存在しなくても、
あることにすればいい)行動制限、予防接種の強制。

ワンネスということから考えると、
本当は自分より上の存在も下の存在も居ない
わけで、何者かに常に
見られている(監視)など勘弁願いたいし、
その者の基準でジャッジされるのもまっぴらごめんだと思う。

彼らの基準=「神様が見ている」になっていることが
どれだけあるか観察してみると危機感しか感じない。

街中のいたるところで見かける目のデザインの看板、広告なども、
人間側からすると「常に何かに見られている」という意識を
持ってしまう要因で、これも意図的。
実際彼らが、彼らの都合の良い様に宗教を作り、
人類に対して彼らを「神」と認識させてきた歴史もある。

それを知ったら、常に「神様は見ている」で物事を考えることは
無くなっていくと思う。
自分がそうしたいからそうする。自分の感覚の基準。それ以外要らないと思う。

私自身のことで日常を振り返って考えてみると・・・
例えば家の近くの道端にゴミが落ちていた時、たまたま目について、
自分がただ気になるから拾って帰って
家のゴミ箱に捨てるという事はよくある。
他のところに意識が行っていてゴミがあっても見えてないことも
あると思うけれど。
他所から来て迷っている人に道順を教える、段差のある場所で荷物を
持ち上げるのを少し手伝う、席を譲るなども、
状況が目に入って気になり、相手がそれを求めていれば
「もし宜しかったら」の感じ。
自分が余裕が無い時は見えてなくてスルーしてると思う。
どれも自分の感覚。
「神様は見ているからいいことをしなければ」とか
「神様は見ているのにいい事ができなかった」と思う事は無い。

「神様は・・・」と今思ったかも?と感じたら、
その「神様」って何者?
良い事悪い事って誰の基準?と思い直してみると、
そこではなくて自分の感覚に戻れるはず。

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