オリジナル小説 もう少しだけ生きてみようか 後編

オリジナル小説 エッセイ

子犬の里親を探そうと思う

久しぶりに、とても気持ち良く目が覚めた。天気もいいし、さらにテンションが上がる。目に映るのは昨日と同じ部屋の中だし、今の状況が何か変わったわけでもないのに、何でだろう・・・全てが違って見える。

昨日出会った子犬は、私の横でまだ眠っている。子犬の朝食用にドックフードを牛乳でふやかしておき、皿の水を新しいのと取り替えた。その作業をやっているうちに、そういえば自分の食べる物を買い忘れていたことに気が付いた。

昨日まで死のうと思っていたから、食べ物なんて当然置いていない。できる限り荷物を減らそうとしていたくらいだから。食べ物のことを考えると、猛烈にお腹が空いてきた。昨日あの女性からもらった焼き菓子を、残しておけばよかったと後悔する。

犬を部屋に置いて買い物に行って大丈夫か?もし寂しがって鳴きでもしたら、見つかってしまうかもしれない。

昨日はお風呂にも入ってないから今日は銭湯に行ってサッパリしたいけど、その時もまた問題ありだ。

「それこそ連れて行くわけにはいかないし・・・」

でも今はまだ早朝だし、人通りは少ない。このアパートには私の他にもう一人しか住んでないし、二階に居るその人は朝は大抵遅めだからまだ起きていないはず。

「あっちの方向に出れば、大家さん夫婦と会ってしまう可能性も低いし・・・」

どうしたら人に会わずにやり過ごせるか、私は色々と考えた。

底のしっかりした布製のバッグにタオルを敷いて、子犬を入れて連れて行く準備をする。水とエサ、食器、糞を片付けるためのティッシュペーパーやビニール袋などを、まとめてリュックに詰める。

子犬は自転車の前かごに入る大きさだし、乗せてゆっくり走るか、怖がるようなら自転車を押して歩いてもいい。

「途中どっかで食べ物買って・・・あの雑木林に行ったら今日は天気いいし、気持ち良く過ごせそう」

つい最近死のうと思って行った場所に、全然違う目的で向かうのも何だか不思議な気がする。とにかく今日一日外で過ごして、夕方になったら昨日会った藤村さんという男性に電話してみようと決めた。結局すぐ頼ることになるけど、他に何も思いつかない。私が銭湯と買い物に行っている間、一時間くらい犬を預かってもらえたらそれだけで大助かりだ。

私が準備をしている間に子犬は起きて、さっそく朝ごはんを食べ始めた。

今日も元気そうで良かった。

食べ終わると寄ってきて、嬉しそうに尻尾を振ってくれる。あんなふうに人間に捨てられたのに、まだ人間を信頼してくれているのがありがたい。

何とかして、この子を可愛がってくれる里親を探そう。今度こそ幸せに生きてほしいと思う。

外に出ると、思った通りこの時間はまだ人通りが少なく、知っている人にも会わずに済んだ。自転車を押してゆっくり歩き始めても、子犬が怖がる様子は無い。これなら大丈夫と思い、今度は自転車に乗ってゆっくり走ってみた。

昨日は車にも酔わなかったし、移動はわりと大丈夫な子なのかもしれない。それならすごく助かる。

途中でパン屋さんを見かけたので、食パンと惣菜パン、コーヒー牛乳を買い、自動販売機でペットボトルのお茶を買った。焼きたての食パンは何もつけなくても柔らかくて美味しいし、これくらい有れば今日一日足りると思う。

一昨日、確かにここに来たはずなのに・・・

山道に近付いてきたところで、私はふと一昨日のことを思い出した。あの時会った女性の家は、たしかこの辺りのはずだ。

「道案内しながら山道抜けて、ここに置いていた自転車押して・・・歩いたのはたしか二分かそこらくらいだったから・・・」

彼女の家は、ここからすぐ近くの路地を入った所だった。そのうちちょっと寄ってみるのもいいかもしれない。この前のお礼にお菓子でも持って。

連絡先は聞いてないけど、ちょっと寄ってすぐ帰るくらいならそんなに迷惑にもならないと思うし。

「私はあの人を知っている」という感覚がどうしても抜けなくて、でもどこで会ったかさっぱり思い出せないのが気になる。機会があれば「どこかでお会いしましたか?」と直接聞いてみたい気持ちもあった。

たしかここだったと思える路地はすぐに見つかった。今日はとりあえず場所を確認するだけと思って、自転車を押しながら路地に入って行く。

「道幅もこれくらいの感じやったし、両側の家もたしかこんな感じで見覚えあるし・・・多分間違えてない」

ところが、路地奥まで進んでも藤村という表札の家は無かった。

路地の両側に家が四軒ずつ、突き当たりに一軒。そんなに多くないからすぐに全部見て回れる。

「たしかここやったはず・・・なんで無いんやろ」

私がここだと思った家には違う名前の表札が出ていた。念のため他の家も一軒ずつ見たけれど全部「藤村」ではなかった。

それに・・・何が違うのか最初気が付かなかったけれど、この路地の中全体の雰囲気が、一昨日見た時と違っている。建物全部が、まだ新しい。一昨日見た記憶では、どの家ももっと年季が入ってる感じだった。家の周りには大きな木も何本かあった。今はそれも見当たらない。

「私の勘違い?でもつい最近のことやし・・・」

数十メートル先まで行くとまた路地があった。遠すぎて違うとは思うけれど、もしかしてここか?と思い一応確認した。けれど全然違っている。

道幅からして違うから、やっぱりさっきのところだと思う。でもあの人の家は存在しない。建物自体は、おそらくこの位置かと思うところにあったけれど。表札の名前は違うし、入り口付近の感じも全然違う。

一体どういう事なのか。狐につままれたような気分になった。

「あれは夢だったとか?あんなにはっきりした現実的な夢ってある?そうか・・・あの時撮った写真・・・」

現像してみれば分かる事だ。それと、あの女性からもらったメッセージの紙。あれも部屋にあるはず。今日帰ったら真っ先に確認してみようと思った。

こんなところでいつまでもうろついていたら怪しい奴だと思われそうなので、とりあえず今日は探すのをやめた。

山道に入る手前で自転車を置いて、子犬を抱いて歩き始める。

今日も快晴で、暑すぎることもなく風が心地良い。舗装されていない土の上を踏み締めて歩くと、春の匂いがする。一昨日ここに来た時は、そんなことを感じる余裕も無かったけど。

歩いているのは同じ山道で、見ているのは同じ景色のはずなのに、気持ちが違うとこんなにも違って見えるものなのか。

子犬を抱いているのでゆっくりと歩いて、少し開けた場所まで来た。いい具合にテーブルにできそうな木の切り株もあるし、短い草が生えているので直接座っても土の上より柔らかい。私は子犬を下ろして、持ってきた食糧を切り株の上に並べた。

寝転んで空を見上げていると、少しずつ形を変えながらゆっくりと流れていく真っ白い雲が見える。空の青との美しいコントラスト。ずっと眺めていても飽きることが無い。

優しい風が吹いて春の匂いを運んでくる。周りをよく見ると、実にさまざまな種類の植物があり、虫達や鳥達など多くの生き物が居ることに驚く。

様々な鳥の鳴き声が聞こえ、すぐ近くに飛んできた蝶が、私の目の前の草花に止まった。

こんな場所に居ると、自分もこの雑木林の中で自然の一部になったような気がしてくる。

子犬は私の足に戯れついたり、遊び疲れたらよく眠った。私も子犬と戯れてみたり、お腹が空いたら持ってきたパンを食べて、眠くなれば子犬と一緒に昼寝をした。

パンは焼きたてを買ってきたからとても美味しくて、特に今は、青空の下で食べるのは最高の気分だった。私は、美しい景色を楽しみ、鳥の声を聴いて、春の匂いを感じ、食べ物の美味しさを味わった。

少しチクチクする草、柔らかい草、ザラザラした切り株の表面、子犬の毛の滑らかな手触り・・・ここに居ると、五感の全てが研ぎ澄まされる気がする。

仕事の事、お金の事、住居の事、健康面の事・・・今抱えている問題が、何一つ消えたわけでは無いけど。自然の中でゆっくりと過ごして、草花や虫を観察して空の雲を眺めていると、今悩んでいること全部が小さなことに思えてくる。元気に戯れついてくる小さな子犬にも、生きるエネルギーをもらっている気がする。

きっと何とかなる。大丈夫。どうやって何とかなるのか、何が大丈夫なのか知らないけれど。ただそんな気がしてきた。

辺りが暗くなってくるまで、私は飽きることなくこの場所で過ごした。

「そろそろ行こか」

子犬にそう声をかけてから、私は立ち上がった。真っ暗にならないうちに家に帰りたい。

昨日の彼と、連絡する前に遭えた偶然

自転車を置いた場所まで戻れば、近くに公衆電話がある。やっぱり他の方法は思いつかないし、昨日会った藤村さんに電話してみようと思う。

私は子犬を抱いて山道を歩き始めた。パンは全部食べてしまったし、飲み物もほとんど残っていないから、荷物は来た時より軽くなっている。

子犬を前かごに入れて自転車を漕ぎ出してすぐ、軽くクラクションを鳴らす音が背後で聞こえた。

振り向くと、見覚えのある軽トラックが止まっていて、藤村さんが私に向かって手を振っている。これから電話しようと、たった今思っていたところで、その相手が目の前に現れた。凄すぎるタイミング。

「こんにちは!昨日はありがとうございました!」

私は自転車から降りて近付いて行き、真っ先にお礼を伝えた。

「ほんまに助かりました」

「気にせんといて。帰り道でついでに送っただけやし。犬は?元気そうやな」

バッグの中から顔を出している子犬を見て、藤村さんは笑顔になった。

「あの・・・実はちょうど今電話しようとしてたとこで。そしたら会えたしびっくりしました。昨日の今日で悪いんですけど、一時間ぐらいこの子預かってもらえません?」

「全然かまへんで。一時間でも二時間でも」

「良かった。助かります。銭湯行って買い物行きたいんで、その間預かってもらえたら」

藤村さんはその場で子犬を預かってくれて、私は自転車で帰宅した。財布とお風呂の道具を鞄に放り込んで、すぐに家を出る。

まずは銭湯へ行って三日ぶりの入浴でサッパリして、気分も爽快になったところで食料品を買いに行った。

いつでも子犬を預かってくれる人が居るのは本当に助かる。

買い物が終わったあと藤村さんに電話すると、家の場所を教えてくれた。

メモした道順を確認しながら行ってみると、自転車でも数分で行けるほど近かった。私の住んでいるアパートと似たような外観で、もう少し戸数の多い三階建てのアパート。

藤村さんの部屋は一階の角部屋で、玄関はスッキリと片付いていた。男の人の一人暮らしにしては意外なほど綺麗。

子犬を受け取ってお礼を言って帰るつもりだったけれど、玄関で立ち話しているうちについつい長居してしまった。

今日預けた短い時間の間にも、藤村さんと子犬の友情は深まったように見えた。そういえば預ける時も、子犬は昨日会った人だと覚えているのか藤村さんを見た瞬間から嬉しそうだった。

「里親探すんやったら協力するけど、ちょっと一緒におっただけでなんか愛着湧いてきたわ」

「この子めちゃくちゃ可愛いし分かるわ。私もアパートが動物禁止やなかったらお迎えしたいぐらいやし」

「・・・里親探す話やけど、ちょっと待っといてくれへん?」

「もしかしてお迎えしてくれるとか?」

「もう犬飼う気無かったんやけど・・・ちょっとそういう気になってきたかも」

前に居た犬が亡くなった話を、昨日彼がしていたのを思い出した。私もその気持ちは分かる。仲良くなるほど別れは辛い。だけどやっぱりお迎えしたい子に出会うと、その魅力には勝てないものだと思う。

「明日まで預かってかまへん?」

「もちろん。こっちは大家さんに内緒やからむしろ助かる。私もこの子には会いたいけど」

次の日は藤村さんの仕事が休みで、約束していた通り私は昼過ぎに子犬を迎えに行った。半分予想していた通り、子犬を連れて帰ることは無かったけど。子犬は藤村さんの家に迎えられることになった。一緒に過ごしてみると、もう手放せなくなったらしい。

子犬は毛が少し長めで黄金色なので、小さいライオンみたいに見えるというので「レオ」という名前も決めていた。職場にも連れて行くことは出来るし、遠方に行く時は私が預かるということになった。

今日は玄関で立ち話しではなくて部屋に上がって、子犬のことから仕事のことまで色々と話した。。会ってから間もないというのに、何故か気を使うことなく自然体で話せる。最初会った時は話し方がぶっきらぼうだったし、今でも口数が多い方ではないけど、何故か一緒に居て安心感がある。

今日初めて藤村さんの年齢を知ったけど、私より13歳上の42歳で大体思った通りだった。年齢からいくとバツイチかなと思ったけど、結婚したことはないらしい。仕事柄外にいることが多いからかよく日焼けしていて体格も良くて、顔立ちは彫りが深くて整ってる方だしモテそうなのに。

自炊も割と好きで苦にならないし、気楽な一人暮らしで満足しているということだった。私の方が女なのに自炊なんてほとんどしてない事は、ちょっとかっこ悪くて言えない。

食べ物や民間療法の話しにも、藤村さんは詳しかった。あまり自分から多く話さない人だけど、聞けば何でも教えてくれる。食材をよく選んで基本的に自炊で、自分の体に合う物を食べていれば滅多に病気にもならないらしい。私もそういう事に気を付けていけば、もしかしたら今からでも健康に自信が持てる体になるかもしれないと、少し希望が見えてきた。

「引越し先決まった?」

会話が途切れた時、藤村さんが聞いてくれた。

私の住んでいるアパートがもうすぐ取り壊し予定だということは、前に話していたので覚えていてくれて、ちょっと心配してくれたのかも。

「まだ決まってないけど、あと半年もあるし大丈夫やと思うわ」

私は笑って答えた。実際、それまでには何とかするつもりでいる。どうやって何とかするのか今は分からないけど、生きると決めたんだから。

「ペット飼育可の所探すつもりやったけど、そこはも気にせんと探せるし助かったわ」

「ペット大丈夫なとこ、意外と少ないもんな。役に立てて良かったわ。俺が勝手にこの子と暮らしたいと思っただけやけど」

話の流れで、実は仕事も今探し中だということを言ったら、良かったらバイトに来るかと誘ってくれた。

「ずっと継続的に仕事あるわけやないけど、次仕事見つかるまでのつなぎでも、ちょっとぐらい足しになると思うし」

「行ってええの?めっちゃ助かるわ。今は何もないし月何回かでも働けるんやったらほんまにありがたいわ。未経験でもいけるんやったらぜひおねがいします!」

私はすぐに返事をした。

出来るかどうか考えたり迷っている時間も無いほど、今は切羽詰まっている。仕事のチャンスは逃したくない。

現地集合でバイト先に行くと、子犬のレオがいつも藤村さんと一緒に車に乗って出勤してきていた。とても人懐っこい子で、私にも他の人達にもいつも友好的に接してくれる。なので皆に可愛がられて、スクスクと育っていた。成犬になれば相当に立派な体格になりそうだ。黄金色の毛は相変わらずフサフサしていて、見た目にも美しかった。

仕事も、友達も、住む場所も・・・流れが変わった?

私は最初、藤村さんの所で月に数日でもバイトに入れたら、あとは単発で他のバイトも入れて何とか食いつなごうと考えていた。ところが、いい意味で予想に反して月のうち半分以上バイトに入れてもらえたので、掛け持ちでバイトをしなくても暮らしていける状況になった。

掃除、道具の手入れ、積み込み、整頓、少し慣れてきた頃には電話応対、その次には帳簿付けまで、言われたことは必死で覚えて、私は精一杯頑張った。体を動かす仕事は元々嫌いではなかったし、電話応対や帳簿付けは以前の仕事で経験がある。やれば何とかなるという自信が、少しずつ戻ってきた。

節約のために自炊するようになり、体を動かすことが多い仕事になったのがかえって良かったのか、生理がきた時に今までほどの激痛が無かった。

ずっと悩まされてきた生理痛で仕事に支障が出て、せっかくのバイトが続けられなくなったらどうしようと不安だったけど。大丈夫だった時は本当に嬉しかった。バイト先からの「もう来なくていい」という言葉を、今度こそ聞きたくなかった。

その月はたまたま軽く済んだのかもという気持ちも半分あったけど、次の月も大丈夫だった時の喜びは大きかった。まぐれではなく、確実に体質が変わったらしい。それが分かると嬉しくて、さらに食生活にも気を付けるようになった。自分の体質に合うお茶も見つけた。

以前道案内したのがきっかけで家に招いてくれた女性が、出してくれた黒豆茶。あれがなんかいい感じだったから、どこかに無いかと探していたら自然食品店にあった。たしか鉄分が多くて貧血にもいいと聞いたし、しかも美味しい物なので迷わず買って帰った。それも毎日飲むようになって、少しずつ体が冷えにくくなった気がする。

バイトを始めて三ヶ月が過ぎた頃、藤村さんから嬉しい提案が来た。

「このままうちでバイトを続けてくれるんやったら、次の住居借りる時俺が保証人になろか?」

「ほんまに?ありがたい!めっちゃ助かる!」

私は即答した。そこまで頼むのは厚かましいかなとちょっと思いつつ、向こうから言ってくれた事に対して遠慮している余裕は無い。バイトはもちろん続けたいと思ってるし。

立ち退き期限までにはまだ余裕で間に合う時期に、今の住所近くで四畳半二間のアパートが見つかった。築年数が古い割に綺麗だったので、見てすぐに決めた。部屋の隅には流し台があって自炊出来るし、共同トイレだけど部屋から出てすぐの所にあるし、銭湯もコインランドリーも歩いて行けるほど近い。今よりも便利になるくらいだ。

荷物を極限まで減らしていたから、引っ越しはも楽だった。藤村さんとバイトの友達が来てくれて二時間くらいで済んでしまった。お金もかからなくて本当に助かった。

仕事では、他のバイトの人達と一緒になることもあり、新しい友達が数人できた。仕事は慣れるほど面白くなり、体を動かす仕事のせいか自然と体力もついてきた。あんなに辛かった生理痛と過多月経がどんどん改善してきて、そのうちほとんど気にならなくなってきた。貧血が無くなったこともあって、体力も戻ったのかもしれない。

鉄分補給のために薬を飲んだり、鉄剤の点滴を受けるために病院に通う必要はもう無くなった。

そういえばほんの数ヶ月前まで私は、死ぬしかないと思って遺書を書いて、自殺を実行しようとしていた。何でそこまで思い詰めたんだろうと、今振り返ると不思議な気持ちになってくる。

「まあ確かにあの時は色々と最悪だったけど」

ほんの僅かな間に、運勢って大きく変わるものらしい。今は、あの時死ななくて良かったと、心の底から思える。

今の私には、住む場所があり、仕事があり、頼れる友人もいる。体の健康も取り戻してきた。死を決意するほど悩んでいた事のほとんどが、特に大変な努力をしたわけでもないのに気が付いたら消えていた。長年付き合っていた彼が去って行った事も、今ではそれほど大したことではないように思える。

「もう終わりにしたい」と思った日から、気がついたら丸一年。再び桜が咲く季節が巡ってきた。

そういえば私は、死のうと思っていた遠くない過去の事を、もうすっかり忘れていた。

私に生きるきっかけをくれた犬のレオは、逞しい成犬になった。今も変わらず毎日藤村さんと一緒に出勤してきて、職場の皆に可愛がられている。

私も職場では、少しずつ頼りにしてもらえるようになってきた。藤村さんだけでなく仕事で会う他の人達とも、月日が経つごとに親しくなっていった。辛い状況にたった一人で取り残されたような感覚は、今では遠い過去のものになった気がする。

藤村さんとは、出会ってまだ日が浅い頃から、雇い主と従業員というより仕事上の相棒のような関係だった。私は必死で仕事を覚えようと頑張ったし、彼も私を信頼してくれて、大事な仕事を次々と任せてくれた。それが嬉しくて、私はもっと一生懸命になった。

仕事を終えた後の時間にも、彼とはよく一緒に食事に行き、飲みにも行った。気を使うことなく何でも本音で話せる関係は、本当に心地よかった。

あの過去の不思議な出来事の答え

出会ってから数年間は、私と藤村さんの間には恋愛の気配は全く無かった。年齢も離れているし、会う時はお互い作業着姿だし、話題は大体いつも仕事の事か犬のことだったので、色気も何も無い。

それなのに何をどう間違ったのか、いつのまにか私は「この人のことが好きなのかもしれない」と思うようになっていった。以前の経験で懲りていて、恋愛なんてめんどくさいものは無い方が人生がスッキリすると思っていたのに。

「藤村さんも私のことを悪くは思ってなさそう」というのは、何となく雰囲気で伝わってきて感じていた。本人からはっきり言われたわけではなかったけれど。

愛の告白をされたとか結婚を申し込まれたとかいう事は何も無いまま、気が付いたらこの人がいつも隣に居てくれたという感じだった。後から聞いてみると、彼の方も大体同じように感じていたらしい。

私達が結婚を決めたのは、出会ってから十年が過ぎた頃で、私はもうすぐ四十歳を迎えるという時だった。出会って間もない頃は、彼は私の事が気になりつつも歳が離れているということで遠慮もあったと、後になってから話してくれた。

私は、人生の後半、縁のあった人と暮らしてみるのも悪くないと思った。

何がなんでも結婚したいとか子供が欲しいとかいう願望は全然無くて、執着が薄いことで逆にうまくいったのかもしれない。

式を挙げたり旅行に行ったりはせずに普段通りに暮らしながら、役所に書類だけ提出した。

仕事が忙しくて新居を探している暇も無かったし、私は一人暮らしの住居を引き払い、とりあえず彼のアパートに移った。元々住所が近かったのもあり、仕事も同じだし、環境はほとんど変わらなかった。

唯一変わったのはレオとのこと。それまでも毎日仕事場で会っていたけれど、これからは家でも一緒にいられると思うと嬉しかった。拾った時子犬だったレオは、元気な若犬の時期を経て今では十歳を過ぎたけれど、今も衰えは目立たず健康で、落ち着いた風格が出てきた。頼もしい番犬にもなってくれている。少し長めの黄金色の毛並みも健在で、若い時より風格が増した分、更にライオンっぽい見た目になってきている。

彼と私とレオと、二人と一匹の暮らしがスタートした。

そういえば私は若い頃、酷い生理痛と過多月経に悩んでいたのに・・・今では、そんな事は嘘のように丈夫になっていて、四十歳で初めての出産を経験した。二人と一匹から三人と一匹に、家族が増えた。

生まれてきた息子も、幸いとても丈夫で手がかからなかった。さらにありがたいことに、綾部に住んでいた義父母が、車で30分ほどで来れる場所に引っ越してきて息子の面倒を見てくれた。そのおかげもあって、私は今まで通り夫と二人で仕事に没頭する事ができた。

せっかくだから記念写真くらい撮ろうかと思いついたのは、さらに後の話で、息子が一歳の誕生日を迎えた頃。日々の仕事に追われ、息子の写真を撮ることさえそんなに多くはなかった。最近になってやっと思いついて、私達二人と息子も一緒に、結婚写真というより家族写真を撮った。

それを見た時、私は驚くべきことに気がついた。

一瞬にして私の中で、過去の記憶が鮮やかに蘇ってきて、全てが繋がった。

どうしてあの時、気が付かなかったのか。

二十代の終わり頃のあの日、自殺を決意して出かけて行き、そこで偶然出会った女性。

その人に会った時に感じた「私はこの人を知っている」という不思議な感覚。なのにどこで会ったのか全然思い出せないモヤモヤ感。

招かれた家に飾ってあった家族写真。

あの時私は、悪いとは思いつつ、持っていたカメラでその写真立てを撮った。写真があれば後から思い出せるかもしれないと思ったから。

けれど、そのあと急に忙しくなってずっと忘れていた。

何年か経ってやっと現像に出したけれど、持って帰ったあと見るのも忘れて放置していた。

私は久しぶりに、書類や写真をまとめて入れている袋を引っ張り出してきた。あの時もらった、メッセージを書いた紙も一緒に残しておいた記憶がある。

ちょうど今は家族もいないし、目当ての物を探すために遠慮なく部屋中に袋の中身を広げられる。

探し始めるとそれほど時間をかけることなく、私は目当ての写真を見つける事ができた。

つい最近携帯のカメラで撮った家族写真と、見つけ出した写真を並べてみる。

やっぱりそういうことだったのか。間違いない。

この写真に写っているのは、あの時私が会ったのは、未来の私だった。

初対面の時から「私はこの人のことを知っている」と感じたけど、知っているも何も自分自身だったわけだ。

今から八年くらい未来の私達が、あの写真の三人ということになる。

未来の自分の姿も、二十代の頃に見ると自分だとは分からなかったけど、今この写真を見ればなるほど自分だなと分かる。一緒に写っているのは今の夫と息子に間違いない。

夫に初めて会った時も、そういえば・・・

「あの女性の家で見た写真の人に似ている」と思った記憶が蘇ってきた。

それでも年齢が違いすぎるし、まさか未来の彼本人だとは思わなかった。

自分のことすら分からなかったわけだし、人のこととなると尚更分かるわけないか。

夫の姓の「藤村」にも見覚えがあると気付いて、前日に行った家の表札と同じだと、そこまでは気がついたけど・・・まさかこんなことだとは思いもよらなかった。

あの時・・・未来の私を見た二十代の私は「この人はすごく幸せそうで、私の持っていないものを全部持っている」と感じたし「私とは違う世界の人だ」とも感じて、とても辛くなった。まさかそれが、未来の自分だったとは。自分には何も無いと絶望して、死のうと思っていた私の未来には、全然違う人生が待っていたということか。

そういえばあの時、頭ではもう無理だと思って死のうと決意しているはずなのに、突然邪魔が入ったり・・・自分でそういう状況を引き寄せといたとも思える。本当はまだ生きたいと願っていて、生き続けられる未来をすでに設定していたという事なのかもしれない。

この事は家族にも話さずに、自分の胸の中だけに大切にしまっておこうと思った。

 

それからしばらく経って、さらに決定的な事があった。

子供もこれから大きくなるし、もう少し広い家に引っ越そうかという話になった。私達は、大型犬飼育可能の条件で家を探し始めて、数ヶ月後にやっと気に入った物件に巡り会えた。

その家というのが、あの路地の中の町家だった。

もう十年以上前になるけれど、私が探しに行った時は存在しなかった家。

その場所に家は確かにあったけれど、周りの感じも違うし表札も違っていた。この家に上がってお茶をよばれたはずなのにと、あの時は狐につままれたような気持ちになったのを思い出す。

なるほどあの時に見ても無かったはずだ。あの時点では、私達はまだ住んでいなくて別の誰かが住んでいたのだから。

あの時から見ると未来の私達が、今からあの家に住むわけで、八年後もそのまま住んでいるということかと思う。

あの時、もう終わりだと思った人生の先に今があると知っていたなら、絶対に死のうとか思わなかったけど。一つ一つ見れば偶然のように見える出来事がいくつも重なって、私はあの時生きる方を選んだ。これも全て、本当は生きたいと願っていた私が引き寄せた現実だと思う。

遠い過去のあの二日間。あの時の記憶を辿ってみると、もう一つ思い出した事があった。

自殺の名所と言われる場所へ行った時。河原へ降りて行って出会った、弁当を作り過ぎたからと分けてくれた年配の女性。

その人を見た時も私は「どこかで見た事がある」「知っている気がする」と思い「年齢は違うけど昨日会った女性に似ている」とも思った。

もしかしたら・・・いや、多分確実に、あの年配の女性も未来の私だったのかと思う。

あの時分けてもらった弁当の中身も、焼き菓子も、今の私の得意料理だから。これから先十年二十年経っても、私はこんな感じの料理を作り続けてると思うし。

これからの未来も楽しみにしておこう。

あの時会った六十代の私も、とても楽しそうだったから。

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