時空を超えて

オリジナル小説 エッセイ

過ぎ去ったあの時、あの瞬間、もし違う選択をしていたら?
「今とは違う現実があったのかもしれない」

違うタイムラインを夢の中で体験したことで、今の現実には変化があるのか・・・
恐ろしくリアルな夢の内容は、今の現実に影響を及ぼすのか・・・

ある朝の出来事 ここは確かに自分の部屋なのに・・・


六畳の畳の部屋で、箪笥、机と椅子、本棚がある。
本棚には沢山の本が並んでいる。
ジャンルは様々で、子供向けの本が多い。

ここは私の部屋だ。

部屋の隅には段ボール箱がいくつも置いてあって、荷造りの途中。
引っ越しの予定があり、持って行く物と捨てる物を分けているところ。

「この本は捨てないで。全部持って行きたいから」
両親に向かって、私はそう言った。
自分で本棚から本を取り出して、少しずつ丁寧に段ボール箱に詰め始める。
かなり大量の本だけど、これは絶対に要る物だから。捨てられたら困る。
捨てられないうちにと、私は一生懸命本を詰めた。


目が覚めた。

ここは・・・アパートの一室で、私の部屋だ。

「・・・さっきのって夢?めちゃくちゃリアルだったけど」

夢の中での私は小学校高学年くらいで、夢で見た部屋も、確かに私がその頃住んでいた部屋だった。
そういえば子供の頃、親の転勤で引っ越した事があったから、その過去の記憶が蘇って夢に出てきたのかな。
夢の中では、その時の自分の年齢で考えて話してる感じだったけど。

現実の私は、もうすぐ45歳になる。
私の職場はショッピングモールで、勤続年数は6年数ヶ月。このアパートに住み始めたのも、ちょうどその頃から。
20歳の時に一度結婚したけれど長くは続かなかった。離婚後は息子を連れて田舎に帰り、近くで色々なバイトをしながら子育てに忙しかった。両親が居てくれたから助かったけど。
息子が高校を卒業して就職した数年前、それをきっかけに私も街に出て仕事を探し一人暮らしを始めた。今の日常には、そこそこ満足している。

だけど、たまに過去を振り返った時、思うこともある。

『もしあの時、違う選択をしていたら、全く違う人生だったのかもしれない』

別に今が不満だとか、過去の選択を後悔しているとかでは無いけど。今とは違う世界線というのか・・・そんなものを見てみたい好奇心は、そういえば常にある。

さっきの夢はすごくリアルだったし、あの年齢の自分としてそこに居た感じだったけど・・・
「だけど夢は夢で、現実は、この部屋に住んでいる今の年齢の私・・・だよね?」

何だか一瞬、どっちが夢だか分からないような感覚になっていた。

ベッドの上で体を起こして、大きく伸びをする。
時計を見るとまだ朝の7時だ。今日は休みだから、別に早く起きなくていい。

「寝ててもいい時間だけど・・・天気もいいし、せっかくの休みを寝て過ごすのももったいないから起きるか」

私は立ち上がって布団を軽く整え、着替えをしようとクローゼットの方を向いた。
そしてそこで、衝撃的な光景を見た。

「え?!こんなに本がいっぱいあったっけ?」
どう見てもここは私の部屋なのに、昨日寝る前には、絶対にこんなものは無かった。
「何これ⁉本棚が出現した⁉」
狭いアパートの部屋はそのままなのに、壁いっぱいに並べられた本棚には本がぎっしりと詰まっている。
大体ここには、本棚すら無かったはず。
ミニマリストを目指している私は、持ち物はかなり少ない。
本を読みたければ電子書籍で読むし、紙の本なんてほとんど持っていない。

もう一度、ゆっくりと部屋の中を見渡してみる。

間違いなく私の住んでいるアパートの一室だ。

ドアや窓の位置も、ベッドや棚の位置も、布団も、カーテンやカーペットの色も、普段見慣れたものに違いない。ただ、空いていた壁面全部に本棚が設置されていて、本がぎっしり詰まっている。

私は思わず玄関に走って行って、戸締まりを確認した。

ドアの鍵は間違いなく閉まっている。チェーンもかかってるし。
窓は、玄関と反対側のベランダがある場所一ヶ所だけ。ここの鍵も内側から閉まっている。
誰かが入って来たような形跡は無い。
入って来て出て行って内側から鍵を閉めるとか不可能だし。
その前に、どんなに爆睡してたって入られたら気が付くと思う。

それにしても不可解すぎる。

「入って来て何か盗んでいく泥棒なら分かるけど、入って来て物を置いていくなんて。そんなのあり?しかも大量に」

ゴミの不法投棄とかだったら、もっと人目につかない場所に捨てると思うし。それに、ゴミにしては綺麗すぎる。

しかも私が子供の頃大好きで夢中で読んでいた本が揃っている。

「ここにあるってことは、私の持ち物ってことだよね。後でお金とか請求されないよね?送り付け詐欺ってわけじゃないし。送ってきたわけじゃなく、突然ここにあったわけだし。もしかしたらまだ寝ぼけてて、幻を見てるとか?」

頭をスッキリさせようと、私は洗面所へ行って顔を洗った。
お湯で洗った後、最後の数秒は冷水で。冬だけど、この水の冷たさが心地いい。

洗面所の鏡の中に見えるのは、今の年齢の、見慣れた自分の顔。
どちらかというとタヌキ顔で童顔のせいか実年齢よりかなり若く見られる事は多いものの、最近白髪も時々あるし。それなりの年月を生きてきた女の顔。

あの夢があまりにもリアルだったもんだから、もしかして私自身もその頃に戻ってるんじゃないかと一瞬思った。それか、自分では無い他の誰かと入れ替わってるとか。

「映画やドラマの見過ぎか。さすがにそんなわけ無いよね」

鞄を開けて、運転免許証を取り出す。
『高橋郁美』
私の名前に間違いない。
住所や生年月日、免許証の有効期限などの情報も違ってない。
別の人間になったわけでもないらしい。

それでも何となく落ち着かない気分のまま、私は着替えて髪を整えた。

クローゼットの中に入っている服には変化は無かった。メイクは普段通り、ファンデーション薄く塗って口紅を塗るだけ。数分で完了。
メイク道具とか、他にも机の上に置いている物とか、そういった物にも特に変化は見られなかった。
いつも見ている物、使い慣れている物が、普段通りに置いてある。

けれど・・・ふと振り返って壁の方を見ると、巨大な本棚がそこにあった。
本もぎっしり詰まっている。

「やっぱりある。私自身も、部屋の他の部分にも変化無いのに、何でここだけ?」

考えられるのは、夢で見た内容しかない。 
子供の頃から家に本が沢山ある環境だったし、その影響なのか私も本が好きでよく読んでいた。
余程気に入っている本以外は、引っ越しの度にどんどん処分していた記憶があるけど。
もしあの時、捨てずに残していたとしたら・・・かなりの量になると思う。

本を捨てないで残しておく。
あの時、もしそっちの選択をしていたら・・・

「その事を夢で見たから、本がここにある未来が来た?」

突拍子も無い話だけど、それしか考えられない。

何度見ても、やっぱり本棚はそこにあるし。
起きてからけっこう時間も経ってるし、今はもう夢の中では無いはず。

「もしかして外にも何か変化があるとか?」

それを見たいような、それでいて見るのが怖いような気もする。

「夢で見たのは引っ越しの時の場面で、夢に出てきたのは本の事だけだったから・・・外は関係ないと思うけど。外で何か変わってたら見れば分かし、とりあえず出るか。昼まで寝てるのはもったいないし、お腹空いてきたし」

私は、意を決してドアを開けた。

そこには見慣れた廊下があり、他の部屋のドアが並んでいた。
見たところ何も変わった様子は無い。
何となくホッとする。

それでもまだ油断ならないと思いながら、私はゆっくりと階段を降りた。

歩いて数分のところにはコンビニがあって、イートインのコーナーもある。
私は、コーヒーとサンドイッチを買って店内で食べた。
これも普段の休日と何も変わりない。
仕事帰りにもこの店にはよく寄るし、店長夫婦もバイトの子も、私の顔は覚えてくれている。
会計をする時は挨拶を交わし、一言二言話す時もある。今日もそうだった。
店の人達の様子も、店内の様子も、何も変わってない。

コンビニを出てしばらく近所を歩いて、街の様子に特に変化が無いのを確認してから、私はアパートの部屋に戻った。
普段なら休日は買い物に行ったり映画を観たりするんだけど、何となくそんな気にもなれない。

今朝起きた出来事について、ずっと考え続けていた。

結局、あの本棚が出現した事以外は、普段と何も変わらなかった。

もしかしたら、部屋に帰ったら本棚が消えているのではないかとも思ったけれど。

それはやっぱり、そのままそこにあった。

再び夢の中での体験 高校生の頃の私

もう遠い昔だけど・・・私は物心ついた頃から本に興味を持って、片っ端から読んでいた。
両親も本に関しては出費を惜しまず買い与えてくれたから、読む物は常に沢山あった。

小学校へ行き始めてからは、学校の図書館でもよく本を借りた。
図書館で見つけて特に気に入った本は、親に頼んで買ってもらった。
それを手元に置けることの喜び。
特に好きな本は何度も読み返した。
本の感想を日記帳に書いてた事も、そういえばあった。

「懐かしいなあ・・・」

本棚から本を取り出し、手に取ってページをめくってみると、夢中で読んだ子供の頃の記憶が鮮やかに蘇ってきた。

次々と本を手に取って読み耽っていて、気が付いたら夕方になっていた。
こんなに何かに夢中になったのは久しぶりだった。

どこかに出かけた以上に充実感があって、いい休日だったと思う。
何でこんな本棚が出現したのかは謎のままだけど。


夕食には冷凍のパスタを電子レンジで温め、電気ポットでお湯を沸かしてインスタントコーヒーを飲んだ。
これも普段の日常なので、本の世界に没頭していたところから急に現実に戻った感覚。

お腹が満たされると眠くなってきて、服のままベッドに横になる。


いつのまにか、そのまま眠ってしまったらしい。

私はまた夢を見た。

今度の夢の中では、私は高校生だった。

「郁美は部活どこに入るの?」

昼休みの教室。
いつもの四人で昼ご飯を食べている時に、愛華が聞いてきた。
ほとんど皆んな運動部に入るみたい。

「私は入らなくていいかなあって思ってる」
「えー?!何で?!」
「何でって、そんなに興味ある部活無いから」
「もしかして早く帰ってバイトするとか?郁美は勉強しなくても成績いいもんね」
「そんなんじゃないよ。部活よりバイトの方が興味あるのはその通りだけど」
「いいバイト見つかったらやるつもり?」
「うん。週一かニぐらいだったらやりたいと思ってる」
「そっかぁ。そっちの方が出会いもあるかもしれないし」
「それは考えてなかったよ。ちょっとお金欲しいだけ」
「何か買いたいとか旅行行くとか?」
「一番欲しいのは携帯かな」
「持ってる子も居るよね。私も欲しいけど買ってもらえないし」
「バイトすれば?」
「うーん・・・だけど部活もやりたいし」

学校では、基本的にバイトは禁止だったけれど、やっている子は多かった。
告げ口されると疑ってるわけじゃないけど、友達に対しても自分の情報の全ては明かさない。
本当は、私はもうすでにバイトを始めている。誰にも言うつもりはないけど。

中学を卒業してすぐに、私はバイトに行き始めた。まだ二ヶ月足らずだけど、好きなお店でのバイトだから、はっきり言って学校より楽しい。
部活の事を話している皆の話を聞きながら、私はバイトが決まった日のことを思い出していた。

私のバイト先は、自宅から歩いて数分で行ける書店。バイトを始める前から、お客として度々行っていた店だ。個人営業の小さなお店だけど、煉瓦造りでレトロな感じの外観が素敵。古い建物だけど中の掃除も行き届いていて、気持ちのいい空間。
ジャンルごとにわかりやすく本が並べられていて、手書きのレビューが添えられていたりして、本に対する愛を感じる。

この書店の入り口ドアに「アルバイト募集」の貼り紙を見つけたのが、ちょうど中学を卒業した時のタイミングだった。
タイミングがいいという事は、きっと縁があるに違いないと勝手に思って、早速中に入って聞いてみた。
普段あんまり積極的に行動する方じゃない私にしたら、かなりの決断力と行動力を発揮したと思う。

店主さんは六十歳くらいの女性で、私のお婆ちゃんと変わらない年なんだけど、初めて会った時から不思議と「この人とは気が合いそう」と思った。
年齢差の壁は感じなかったし、このお店という空間に居ても、店主さんと話していても、何だかすごく居心地の良さを感じた。
ここに居るだけで何か癒される感じ。
感覚って目に見えるものじゃないから、どこでそう感じるのか具体的にはわからないけど。
店主さんも私を見て同じように思ってくれたのか、それとも『とりあえず来てもらおう』って思ってくれたのか分からないけど、その場で採用を決めてくれた。

「止まり木」というのが書店の名前で、スナックかカフェかみたいな店名だけど、それにはちゃんと理由があった。
店内の奥にカウンター席があって、十人くらいが座れる。
壁に向かって座る形で、飲み物の持ち込みは自由。
こんなのを作ってたら、立ち読みどころか居座って読む人が居たり本を汚したりしないかと心配になるけど。
気になって聞いてみたら、不思議とマナーの悪い人は居ないらしい。

もらった名刺には、犬が本を読んでいる小さなイラストが描かれていて、店名と住所、電話番号、柴崎民子という店主さんの名前が入っていた。
私はお客として行って何度か本を買っているので、顔は覚えてもらえてたみたい。それもすごく嬉しかった。

「バイトの経験があるとか無いとかより、やっぱり本が好きな人に来てもらいたいのよね」
「ありがとうございます。嬉しいです。バイト初めてなので、どこまで出来るか分からないですけど頑張ります」
「最初は週一回くらいでどうかしら?慣れてきたらもう少し入ってもらいたいんだけど」
「高校始まるまで休みなので、もし入らせてもらえるんでしたら今のうちに詰めて入りたいです。仕事覚えたいので。高校始まったら土日祝日以外は夕方からしか来れないので」
「そう?こっちとしては助かるけど。それだったら早速明日からでもお願い出来る?一回入ってみてから、どれくらいの日数来れるか決めてくれてもいいし」
「ありがとうございます。明日からお世話になります」



目が覚めた。

いつのまにか眠っていたらしい。

一瞬、ここがどこか分からないような感覚だった。

そうか。

ここはアパートの自分の部屋で、ご飯食べたら眠くなって、服のまま横になってたらそのまま寝てしまったみたい。

時計を見ると、夜の七時を少し回ったところだった。
夕食を食べ終わったのが六時半くらいだったから、そんなに時間は経っていない。
眠っていたのは多分三十分くらい。

またしても、ものすごくリアルな夢だった。

止まり木という書店は、私の家の近くに確かにあった。
中学生、高校生の頃、そこにお客としてよく通っていたのも覚えている。

店主さんの名刺も・・・本を買った時にもらったことがあった。
随分昔のことだから、今の今まで忘れてたけど。
あの頃見た店主さんの顔は、今でも何となく思い出せる。
夢で見た感じそのままだったと思う。

今でも健在だとしたら、もう九十歳を過ぎているはずだけど。

高校の時に仲の良かった三人の事も、今でも覚えている。
昼休みに机をくっつけて、お弁当を食べた思い出もそのまま。
何の部活をやるかといった話も、そういえばしていたと思う。
三人の中でも特に仲が良くて、高校を卒業してからも友達関係が続いているのが愛華だ。
他の二人とは、学年が変わってクラス替えがあった時離れてしまった。

今の現実とさっきの夢と何が違ったかというと、現実は、私は愛華に誘われて運動部に入った。
特別運動神経がいいわけでも、得意なスポーツがあるわけでもないけど、体育で何をやっても人並みにはできたから、まあいいかと思った。
ほとんど皆が運動部に入ってたし、自分では特に何も決めてなかったし、愛華がテニス部に入るというから何となく私も入った。
実際やってみたらそれなりに楽しかった。
目立つような成績を残せたとかじゃないけど。

スポーツ万能で、外見的にも美人で有名だった愛華は、テニス部でも目立っていた。
スラリとした長身で均整のとれたプロポーション。
名前の通り存在そのものが華やかで、それでいて気さくで性格も明るいから誰からも好かれていた。
勉強の方はまあ普通といったところで、ここに関してだけは私の方が得意だったから頼られる事も多かった。
私と愛華は、性格は多分全然違うんだけど不思議と気が合った。
高校生の頃の私は、そんなに自分の意見を主張しないタイプだったし、それ以前にあまり物事を深く考えない性格だったと思う。
「まあいいや」とか「何となく」とか「友達に誘われて」というのが多かった気がする。

夢の中での私は、高校一年の時の自分として考え、行動していた。
だけど・・・現実の過去の私と、夢の中の過去の私は、思考も行動も違っている。
夢の中での私は、携帯電話を買いたいと思っていた。

「何で欲しいと思ったのかな・・・」

そうか。思い出した。

「本の感想。それまでノートに書いていたけど、ブログに書いてみたいと思い始めてたんだ」

ブログを立ち上げる時の最初の作業さえパソコンでやれば、あとは携帯からメールを打つように文字を入力して送る形に設定出来る。
お父さんからその事を聞いて、やってみたいと思っていた。

「・・・え?私って、あの頃そんな事思ってたっけ?」

どうしても携帯が欲しいと思ったのは、確かもっと年齢が上がってからだったと思う。
その前に、ブログを書きたいなんて思ってなかった。
もっと幼い頃、本の感想を日記帳に書いてた事くらいはあったと思うけど。
それも小学生の時までの話で、中学生になった頃から書くのが面倒になってきて次第に書かなくなっていった。

どっちが現実の私で、どっちが夢?

本気で分からなくなってきた気がする。

現実の私は・・・高校の時は部活をやってたから、書店のバイトには行ってない。

お店も店主さんも実在するけど、その頃顔見知りだったという程度で、店でバイトするまでの縁じゃなかった。

もしもあの時、ブログ書くための携帯が欲しいと思ってて、部活をやってなくて、書店でバイトを始めてたら・・・

これだけでそんなに大きく人生が変わるとは思えないけど、今とは違う体験が色々と出来たかもしれない。

『引っ越しの時、本を捨てずに残しておいたらよかったかも』
『せっかくノートに本の感想とか書いてたんだから、ブログでも始めてみればよかったかも』
『あの時部活に入らずに何か違うことやってみても良かったかも』

これくらいのことは、そういえば思ったことがあった。  

それが全部夢に出てきてる?

まさか今度も何か変わったとか?

壁の方を見ると、本がぎっしり詰まった本棚は、まだそこにあった。

これがまだあるということは・・・夢が何か影響してる?

これ以上は何も増えてないよね・・・だけど微妙に何か違う気がする。

私はベッドから起き上がって、本棚の近くまで歩いて行った。

「え?!増えてる!!!」

さっき眠ってしまう前までの時間、私が次々取り出して読み耽っていたのは子供向けの本だった。
私が小学生くらいの時の。
今見ると、それより上の年齢になってから読んだ本の数々が、明らかに増えている。
見上げると本棚の上には、ブックエンドに挟まれてさらに本が並んでいる。

「これって・・・さっきまで無かったよね」

増えている本の種類は、私が中学生以上になってから読んだものだった。

またしても見た夢の内容に沿って現実が変わっている。

最初に過去の夢を見た時、夢の中での私は小学校高学年くらいだった。
引っ越しの場面で、部屋にある本を処分せずに全部持っていくという選択をしていた。
その夢を見て目が覚めたら、部屋に巨大な本棚が出現した。
本棚に入っていたのは、その頃私が読んでいた本の数々。

さっき見た夢では私は高校生だった。
夢の中での私は、部活には入らずに書店でバイトを始めていた。
出てきたのは実在する書店で、店主さんも実在する人物だった。
はっきりとは覚えてないけど・・・私が離婚して実家に戻った時も、たしかその店はまだあったと思う。当時は日々忙しくてバタバタしていて、書店に行く余裕は無かったけど。
もし私が、夢の中での選択通り書店でバイトをして、お金を貯めて携帯を買い、ブログを書いていたら・・・
本への興味が途切れ無かったとしたら・・・その後の人生も何か違うものになってたかも。

気に入った本を捨てずに全部残していたとしたら、その年齢ごとに買った本はどんどん増えていくはず。

私はもう一度本棚を見た。
タイトルを見渡しただけでも、中学生の頃夢中になって読んだ懐かしい本が並んでいるのが分かった。

「本への興味を持ち続けた場合の、私の持ち物がこれ?」

今まで、二回夢を見て二回とも、起きてみたら無かったはずの物が出現していた。

今度眠ったら、もしかしてまた過去の夢を見るとか?

そして、私が当時選択したかもしれない別の世界線を見る事が出来るとか?

二度ある事は三度あるとも言うし。

もしそうだとしても、今のところ私の人生に何か害があるわけじゃない。

目が覚めたら増えてる物がある以外は、普通に今の人生のままだし。

何でこうなったのか分からない、不可解な事が起きてるには違いないけど。
それでも何か失ったわけじゃなく、むしろ増えてるわけだし・・・

「あの本は捨てないで置いとけば良かった」と、あとで後悔したことは過去に何度かあった。
そういった本の数々が、今目の前に沢山あるわけだし。

今度夢を見るとしたら、出てくるのは何歳の頃の私?

最初の時はびっくりしすぎて怖い気もしたけど、今はちょっと楽しみになってきた。

あの夢の続きで、もし本屋でバイトを続けてたとしたら、どんな未来があった?

バイト代を貯めて携帯電話を手に入れて、ブログを書き始めてたとしたら、今頃記事がけっこう書けてるとか?

その未来を、見てみたいという気持ちにもなってきた。

明晰夢と言われているものとは多分違うと思う。
夢の中での私は、今の自分ではなくてその時の自分として思考し、行動している。
「これは夢だ」という自覚は無くて、起きた時は一瞬、どちらが本当の現実だったか分からなくなる。
夢を見ている間は、そこでの出来事を現実そのものとして体感してる感じ。

三度目の夢の中で バイト先での「運命の出会い?」

いつもはシャワーだけで済ませる事が多いけど、今日はゆっくりと湯船に浸かってみた。
会社の後輩の子からもらった入浴剤があったのを思い出し、入れてみる。
柔らかなローズピンクのお湯に、花の香り。久しぶりに、ちょっと優雅な気分になった。

湯船で十分に体を温めると、しばらくは湯冷めしないでポカポカした体のままでいられる。
寒くなってくる前に布団に入れば熟睡出来そうな気がする。

今までは、偶然夢の中で過去に戻ったような感じだったけど・・・
今度は今までと違って明らかに、私は夢の続きを見ることを期待している。

ドライヤーで髪を乾かし、冷蔵庫から缶ビールを取り出して飲んだ。
窓を開けると冬の冷たい空気が入ってきて、火照った体には心地いい。

体が冷えないうちに窓を閉めて、軽くストレッチをした後でベッドに入った。

リラックス出来る音楽をかけて、部屋の明かりを落とす。
完全に真っ暗なのは苦手だから、間接照明の弱目の明かりを一つだけ灯してている。

いつもより少し早めの時間、私は眠りについた。



学校からの帰り道、愛華が「夏休みに海に行こう」と誘ってきた。
高校生活最後の夏だからと。それは確かにそうなんだけど。

「夏休みって言ってもバイトがあるんだよね」
「分かるけどさぁ。一日ぐらい休めない?」
「愛華だったら、私じゃなくても一緒に行きたいって子いくらでも居るでしょ」
「そんな事言わないでよ。一番気を使わないで楽しくいられるのって郁美しかいないんだから。郁美とは長い付き合いなんだし、私が見た目ほど外交的じゃないの知ってるでしょ」
「まぁね。分かった。考えとく。店長に相談してみるよ」
「良かった!ありがとう!」

愛華は、まるでもう決まったかのように喜んでいる。
ここまで来ると私が断らない事も知っているからだと思うけど、まあいいかと思う。
親しい人間以外は知らない事だけど、愛華が見た目ほど外交的じゃないのは本当の事だし。
意外と人見知りな一面もあるし、けっこう周りに気を遣ってる。
愛華とは一年から三年まで同じクラスだったから、ずっと仲良くしているしお互いの性格も知り尽くしている。
「卒業したら今ほどは会えないし・・・高校最後の夏休みなんだから聞いてあげてもいいかな」

実際、どうしてもバイトが休めないわけでは無かった。
別に毎日入らないといけないわけじゃないし、店長に言えばいつでも休ませてくれる。
毎日入りたいのはむしろ私の都合で、私がバイトに入りたいからだ。

海と言われても、私は特に泳ぐのが好きなわけでもないし、他に何か海で楽しめるような趣味も無い。
海の景色を眺めているのは好きだけど、それには人の少ない時期の方がいいし。
暑い時にわざわざ暑いとこ行かなくてもなあと思ってしまう。
愛華は泳ぐのも大好きで、夏の海の賑やかな感じも好きらしい。
それに、もしかしたら素敵な出会いがあるかもと、恋愛の方もちょっと期待してるのかと思う。
愛華はいくらでもモテるんだけど、恋愛があまり長く続かない。
高校に入ってから今までに、数ヶ月で終わった恋愛がいくつか。
私はその度に話を聞いていた。
別に今から結婚相手を探すわけでもないし、最終的に終わったとしても恋愛が次々あるのは悪い事じゃないと思う。
男子と話すのが苦手な私自身は全然だけど。

でも、この夏は・・・私にも、気になる人が現れた。
本当はその事もあって、バイトに毎日入りたいというのもある。
愛華にも、もちろん他の誰にも、この事は言ってないけど。
バイトに行けば、またあの人に会える可能性があるから。

私は書店のバイトにも慣れてきて、気が付いたら二年以上続けていた。
思った通り働きやすいバイト先で、大好きな本に囲まれている事も幸せだった。
店の掃除、本の整理、レジでの対応など、どの作業も私は好きだった。
仕事に慣れてくると、店に置く本のレビューを書かせてもらえたりして、それは何よりの楽しみだった。文章を考えて書くのは大好きだから。

休みの日はもちろん学校が終わってからの夕方も、短い時間でも入れる限り毎日近く入っていた。
家からも遠くないこの書店の存在は両親も知っているから、安心して通わせてくれた。
学校には内緒だったけど、先生も生徒も駅前の大きな書店の方に行くからバレる心配は無かった。

バイトに沢山入った甲斐あってお金は貯まり、予定していたより早く携帯電話を手に入れた。
それ以降は、ブログを書くことも私の楽しみになった。

このお店のお客様は、店主さんの人柄が好きで会いに来る人とか、ゆっくりと読書を楽しみたいという人が多い。
買った本を、奥のカウンターに座ってゆっくり読む人は、曜日ごとに大体メンバーが決まっている。
休みの日には、朝に来て本を買って夕方まで、一冊読み終わって帰る人も居るけど、それが出来るのもこのお店のいいところだと思う。

店主さんとは世代を超えて気が合った。私の最初の印象は間違っていなかったらしい。
このお店は、若い頃にご主人と二人で始めたけれど、十年前にご主人を病気で亡くしてからは一人でやっているというのも聞いた。
従業員は居ないけれど個人事業主ということだから「社長」と呼ぼうかなと思ったけど、それはちょっと気恥ずかしいと言われてしまった。
「柴崎さん」でも「店長」でも呼びやすいように呼んでくれていいと言われたから、店長と呼んでいる。

楽しくバイトを続ける日々の中、最初に彼を見たのは六月の終わりの事だった。

この店に来るのは、どちらかというと年配の人の方が多い。
私から見ると親世代か、それよりもう少し上の年代の人達。
そんな中で、珍しく若い人が店に近付いて来たなと思った。
パッと見た感じ二十代半ばくらいの男の人。

「いらっしゃいませ」

入り口で本を整理していた私はいつも通り、その人に向かって笑顔で声をかけた。
ここまで近付いて来たら、多分入るのかなと思ったから。

その人は私の方を見て、軽く会釈をして店に入ってきた。

「・・・え?何?この感覚・・・」

その人と目が合った一瞬、スローモーションのように時間の流れがゆっくりになった気がした。

人の顔をいつまでもじっと見てたら失礼なのに、こっちだって恥ずかしいのに、視線を逸らせない。

訳もなく胸がドキドキしてきた。

「この人とは、出会うべくして出会った」
そんな気がした。

今までに体験したことの無い感覚。
何でこんな事を思うのか、自分でも全然分からないけど。

永遠のように長い時間に思えたけど、実際は一瞬だったのかもしれない。

その人は、特に不審に思った様子もなく、そのまま店の中へ入ってきて本を見始めた。

全身から汗が噴き出した。

心臓のバクバクがまだ止まらない。

「これってもしかして、運命の出会いとか?私が一方的に思ってるだけかもしれないけど」

彼は身長も体型も平均的な感じで、整った顔立ちはしているけれど、一目見て驚くほどのイケメンというわけでもない。
サラリーマンにしては髪が長めで服装もラフな感じだけど、特に目立つような派手な格好をしているというのでもない。別にものすごいインパクトがある見た目ってわけじゃないんだけど。

それなのに何なんだろう。

この特別感は。

「この人しかいない」という感覚が、私の中からいつまでも消えなかった。

現実の私の、初めての恋愛

あれ?

ここってどこだっけ?

そうか・・・

私の・・・部屋だよね?

目が覚めて、さっき見たのが夢だったと認識するまでに数秒かかった。

東向きのこの部屋は、朝になればカーテンを通して部屋に光が入ってくる。
まだ暗いということは、真夜中か・・・
枕元の目覚まし時計で時刻を確認すると、午前二時を回ったところだった。

今日は平日だけど、七時に起きれば出勤には余裕で間に合う。
「朝までまだけっこう時間あるし、もう一回寝られるか」

過去に戻る夢を見たいと、昨夜は意識的に思って眠りについた。
そうしたら実際見れたわけだし。
さっきの夢の続きを見てみたい気がする。
続きを見たいと意識すれば、見れるかもしれない。

実際の私の人生には、あんな出会いは無かったけど。

高校生の頃、もし書店でのバイトを続けていたとしたら、起こり得たかもしれない出来事。

さっき見た夢の感覚が、まだ私の中に残っている。

ちょっと興奮状態。

一目惚れなんて経験無かったけど、あれはきっとそうに違いないと思う。

現実の私の初めての恋愛は、高校生活の終わり頃だったから・・・時期としては重なる。
初めての恋愛と言っても、今思い出してみると本当にそうだったのかどうかあやしいと思うけど。

さっきの夢の感覚が「人を好きになった瞬間」だとしたら、現実は全然違っていた。
最初会った時は何とも思わなくても、後でジワジワ好きになるパターンも実際あるとは思うけど。

友達の愛華と違って、私は高三になるまで恋愛経験が無いに等しかった。
片想いとか、はっきり付き合おうと言ったわけでもない友達に毛が生えた程度の関係くらいは何回かあったけど。
早い子は小中学校の時から、付き合っている彼氏が居るとか普通に話していて、自分には遠い世界の事に思えていた。当然、初体験もまだだった。
女子校だったから普段は周りに男子が居ないし、高三でもまだ恋愛経験無い子は私以外にもけっこう居たけど。
だからと言って、何としても早く恋愛がしたいという思いは無くて、別に高校卒業してからでもそのうちあればいいかぐらいに思っていた。

恋愛に対してはそんな感じだった私に、突然出会いが訪れたのは高校生活最後の夏休みだった。
愛華が一緒に海に行こうと誘ってきて、それほど行きたいわけじゃないけどまあいいかと思って付き合った時。

「あ・・・この場面って・・・確か夢でも見たっけ?」

私が高三の時・・・学校の帰り道で愛華が、高校生活最後の夏だから海に行こうと誘ってきた。
これは過去に実際起きた事だった。
その場面が、そのまま夢に出てきたという感じ。

「現実と夢の中とで違った部分は・・・現実の私は、書店でのバイトはしていなかった」

愛華とは、高校の三年間ずっとクラスが一緒で仲が良かった。これは現実でも夢の中でも共通。
違っているのは、夢の中での私は部活には入らずバイトに励んでいたというところ。
現実では、一年の時に愛華が、テニス部に入ろうと誘ってきて私も入った。特に深く考えるる事も無く。スポーツが特別好きなわけじゃないけど嫌いでもないんだしまあいいかという感じ。
現実の私は、全てにおいてそういうところがあった。
確固たる自分の意志、やりたい事なんて無かったから、誘われれば何となくという感じで何でも決めていた。

今振り返ってみてそういうところにも後悔があるから、夢の中で違う世界線を体験しているのかもしれない。

もう三十年近く前・・・高校三年で十七歳の頃。
あの時も私は、愛華に誘われるままに夏休みに海に行った。
一年の頃に、愛華に誘われるままにテニス部に入ったのと同じように。
特に海に行きたいわけでもないけど他に行きたいところがあるわけでもないし「高校生活最後の夏だから」と言われると、記念になるならいいかもと思ってついて行った。

夏休みに入って間もない七月下旬。
その日は朝から晴天で、最初は特に乗り気じゃなかった私も何となくテンションが上がってきた。

頑張って朝早く出かけてきたけど、海水浴場に着いてみると既にそこは人でいっぱいだった。
だけどこの賑やかさも悪くない。そんな気分だった。

早速着替えて泳ぎ始めると、暑かったのもあって水の冷たさが心地よかった。
愛華ほど泳ぎは上手くないけど、私も自分のペースでゆっくり泳ぎを楽しんだ。

一時間も経つとちょっとバテてきて、私は先に砂浜に上がった。愛華はまだ泳ぎを楽しんでいる。
恋愛の出会いを期待してそうな感じもあったけど、海に来てみると泳ぐ方に夢中らしい。

私は冷たい飲み物を買ってきて、ビーチパラソルの下に座って飲んだ。
ここに座って見ていると、砂浜ではしゃいでいる人達、海に入って泳ぎを楽しむ人達、私と同じようにのんびり寛いでいる人も見える。それぞれに夏の海を満喫してる感じ。
この雰囲気の中にいるだけでも何となく気分が上がるし、来て良かったなと思った。

「高校生活最後の夏の思い出としては悪くないか・・・」

私が座っている場所の近くに、若い男の人が腰をおろした。

海の方を見ていた私は最初気がつかなかった。

人の気配がしたのでふと見ると、その人と目が合った。

「すみません。ここいいですか?」

向こうから声をかけてきた。

砂浜も人が多くて、かなり満員状態。
私達が着いた時はまだ何とかここが確保できたけど。
それより後から来たとしたら、空いているところを探すのにもちょっと苦労すると思う。
シートを敷いているところ以外勝手に座ったっていいはずだけど、けっこう近いし一応断ってくれたのかと思った。

「どうぞ」
私は愛想よくそう言った。
相手が凄いイケメンだったから、内心ちょっと嬉しかったのもある。 
こういうタイプの人と話すのは苦手だけど、見るだけなら眼福。

これが、後に私が結婚した相手、海斗との出会いだった。

すぐ近くに座ったものだから、どちらからともなく何となく話し始めた。
不思議と緊張せずに、最初から自然に話せた。

他の学校の男子ともすぐ仲良くなる愛華と違い、私は普段、男子と話すのはすごく苦手。
何を話していいか分からなくてガチガチになってしまう。それなのに普通に話していることが、自分でも不思議だった。
まして海斗はすごくイケメンでモテそうなタイプで、おまけに派手だし、普段の私なら一番近寄りにくいタイプだと思う。
スポーツは大抵何でも好きで、特にハマっている趣味はサーフィンとバイクだというし、私との共通点は一つもない。
どちらかというと愛華の方が彼のことを好みだろうなと思った。

だけど、見た目が派手な割に話し方が丁寧なところに私は好感を持った。
初対面から馴れ馴れしい男は、どんなにイケメンでも苦手だけど。
海斗は私より一つ年上で、高校の時からバイトでやっていた配送の仕事を今も続けていると話してくれた。
話し方がちゃんとしてるのは、社会人だからかなと思った。
私はまだバイトの経験すら無いし、年は一つしか違わないのにすごく大人に見えた。

現実の私の結婚、そして離婚

海斗と連絡先を交換して、それから後も会うようになって、結婚が決まるまではトントン拍子だった。

見た目の派手な感じからは意外だったけど海斗は「恋愛で付き合う時は結婚の可能性はいつも考える」と言っていた。

自分の事は何でも隠さず教えてくれたし、自分の身内にもすぐに会わせてくれた。
そういうところも、最初の印象通りだと思った。

結婚したら子供は二人か三人作って、動物も好きだから飼いたいし、いつも笑い声が絶えない賑やかな家が理想だと話していた。自分の生まれ育った環境はそうだったからと。

たしかに彼の身内は皆んな、明るくて気持ちのいい人達だった。
私の両親も彼を気に入った感じだった。

「まだ若いんだから結婚をそんなに急がなくても、もうちょっとじっくり付き合ってお互いを知ってからにしたら?」とは言ってたけど、特に強く反対はしなかった。

恋愛は遅くてもいいと思っていた割に結婚に憧れがあった私は、とにかく早く結婚したかった。
子供にとって親が若い方が嬉しいと思うし、若いうちにお母さんになりたいとも思っていた。
今までの暮らしが、生まれた場所も育った場所もずっと同じだったし、結婚したら街に出て素敵なマンションで暮らしてみたいという夢もあった。

そして、私の高校卒業とほぼ同時に、結婚が決まった。

海斗はそれまで、少し不便でも職場へはバイクで通えるからというので、家賃の安いアパートに住んでいた。
そのアパートでは二人には狭いし、それに家族が増える事も考えられるから、少し広い所に引越そうという話になった。
結婚式の費用や引越しの費用は両方の親がほとんど出してくれて、新しいマンションの初期費用は海斗が預金をはたいて出してくれた。
バイトさえした事がない私は、お金の事をほとんど何も考えていなかった。
早く結婚出来た喜び、街に住める喜び、マンションに住める喜びでいっぱいだった。
経済観念ゼロ、家事の経験もゼロ、今にして思えばそんな子供が、結婚して上手くいくわけがないと分かるけど。
当時は本当に何も考えていなかった。

「急がなくていい」と親が言ったのも、そういう事だったんだなと今ならわかる。

愛華は「先を越されたか」と言いながら、心から祝福してくれた。
「めちゃくちゃイケメンの彼氏で羨ましい」とも言っていた。
私もそれがちょっと自慢で、初めての恋愛がうまくいってる事が嬉しくて、舞い上がってたと思う。

その後の生活の事なんて何も考えていなかった。

海斗は、私の願いを何とか叶えようと頑張ってくれていたと思う。
悪い事が起きたら何でも人のせいにしていた当時の私は、その事さえ見えてなかったけど。

勤めていた職場も彼は気に入ってたのに、引っ越して通勤距離が遠くなった事と、個人経営の小さな会社だという事で、私は転職を薦めた。
通勤にも便利な場所で大手企業の求人を見つけた時は、熱心に彼を説得した。
職種としては同じような系統だから、きっと出来るはずと決めてかかっていた。

海斗は全然乗り気じゃなかったけど、最終的には私の願いを聞いて応募してくれた。

転職出来たはいいけどその職場が合わなくて、海斗は日に日に元気が無くなっていった。

ついに、前の職場に戻りたいとまで言い始めた。

「まだ慣れてないからじゃない?行ってればそのうち慣れるよ」
私はそんな風に言って取り合わなかった。

安定した職場で働いてもらいたいと願ったのには、もう一つ理由がある。
妊娠が分かったから。
生まれてくる子供のためにも、安定した生活は絶対に必要だと思った。

今思えば、私自身は料理もろくに出来ないからよくデパ地下で惣菜を買ってきて、街に住める喜びを満喫しつつ買い物を楽しんでいた。
安定した生活は彼が与えてくれるものだと思っていて、一緒に作っていく気持ちが全然無かったと今振り返れば思う。

当時はその事に気が付きもしなかった。

私が十九歳で息子を出産するまで、海斗は何とか頑張ってくれていた。

出産前後の数ヶ月、私は実家に帰って両親に甘えっぱなしだったけど、その間も一人で頑張ってくれていた。
もう限界だったのかもしれないけど、私は自分の出産のことだけで精一杯で、彼の状況に気がついてもいなかった。

彼が突然勤め先を辞めてしまったのは、それから約半年後のことだった。
それを聞いた私は激怒した。
どこか新しい勤め先を探すからと言われても、聞く耳持たなかった。
海斗に聞いた今の預金額が思ったよりかなり少なかった事も、怒りに拍車をかけた。
私の生活費の使い方を考えれば、足りなくなる度に彼が預金から出してくれていたんだから当然なんだけど。
その頃の私は何もかも相手のせいにして被害者意識しかなかった。

「恋愛に縁のなかった私が、こんなに上手くいくなんて変だと思ったんだよね。やっぱりこういう宿命なのかも」
愛華に相談した時も、たしかそんな風に言っていたと思う。
泣きながら親に電話して「もう離婚する」と喚いていた。

その後一ヶ月経っても海斗が新しい勤め先を決められなかった時、私は一方的に離婚を決めた。

いくつか応募していたのは見たけれど、どこも採用にならなかった。
前の会社を短期間で辞めたから評価が下がったに違いないし「だから辞めなければよかったの」にと、私はまた怒りを爆発させた。

彼はもう少し考えて欲しいと言ったけれど、私の考えが変わらないと見るとそれ以上強くは言わずに離婚を承諾した。
自分が無職になったという負い目もあったのかもしれない。

私は息子を連れて実家に帰った。

当時の事を今振り返って考えると、苦い思いが込み上げてくる。

恋愛や結婚がうまくいかない不幸な星の下に自分が生まれたわけでもなければ、一方的に彼が悪いわけでもない。
海斗はむしろ限界まで私に合わせようとしてくれていたと思う。
転職後は仕事が忙しくて、好きな趣味からも遠ざかっていた。
疲弊するに決まっている。
私は世間知らずで子供過ぎた。
親が言った事の方が多分合ってて、結婚するにはまだ早かったと思う。

息子の一輝がまともに育ったのも、ほとんど両親のおかげだった。
私は子育ても全然ダメで、世話は全部母に丸投げだったし。
保育園、小学校に行くようになった一輝と、いつも遊んでくれたのは父だったし。
そのせいか成長してからでも一輝は、何か悩みや相談事あると親の私より祖父母に話していた。
父親である海斗とも、私の父と母が連絡をとってくれて、一輝は時々会っているようだった。
私に気を遣ってか、私の前ではその事は言わないけど。

当時の私は、何であんなに精神的に子供だったんだろうと思う。
年齢からすると事実子供なんだから仕方ないと言えばそうなんだけど。

結婚の事以外でも、確固たる自分というものが無かったように思う。
高校生でも、もっとしっかりしてる子は居るし。自分がどうなりたいか、何をしたいか、はっきり決めてる子もいる。
私はと言うと、いつも「何となく」「まあいいか」で、部活でも遊びでも愛華に誘われればついていくような高校生活を送っていた。
部活はそれなりにやってたけど、熱くなれるほど好きでもなかったし。
勉強もそれなりにやってたけど別に目標があるわけじゃなかったし。
成績は悪くなかったから進学も薦められたけど、どうしても行きたいほどの大学も無かった。
バイトして社会経験を積むような行動力もなかったし。
のめり込めるほどの趣味も無かった。

これも夢の影響?!私のブログが出現した

今思えば本当に、ぼーっと生きてたと思う。

その事に対して苦い後悔があるから、こうありたかった自分というものを夢で見ているのかもしれない。

その夢がどうも現実に影響を及ぼしてるみたいだけど。

壁の方を見ると、やはり本棚はそのままそこにある。
後から増えた分の本も変わらずに存在している。
それ以上に増えた様子は、見たところ無いように思うけど・・・

今の部屋の状況を写真に撮っておこうと、ふと思いついた私はスマホを手に取った。

「え?何これ?こんなの入ってたっけ?」

ホーム画面の中に、見慣れないアプリがあった。
タップしてみると、メールアドレスとパスワードを自分で保存していたらしく、すぐに開く事ができた。

「嘘・・・私の・・・ブログ?」

今までに読んだ覚えのある本の、レビュー記事がズラリと並んでいる。
ブログの開始時期を確認すると、今から三十年近く前の日付になっている。
記事数は五千記事を超えていて、閲覧数もそれなりにあった。
読んでくれている人が沢山いるらしい。

「すごく嬉しいんだけど・・・でも現実の私はブログなんて書いてない。これももしかして夢の影響?」

嬉しい反面、ちょっと怖くなった。

「物が増えるだけじゃなくて、書いてたかもしれないブログ記事まで増えてるって・・・夢の中での高校生の私は、本を捨てずに部屋に置いてて、バイトを始めてて、バイト先で気になる人に出会って、ブログを書き続けてて・・・」

それだけでも現実とはけっこう違う過去になっている。

「そのあと愛華と一緒に海に行って・・・ここは夢と現実で一致してるんだけど・・・現実では、私はそこで海斗と出会って結婚まで進んだ。だけどもし、これから夢を見て、この後が違ってたらどうなる?」

愛華と海に行くのは同じでも、夢の中での私には、バイト先で一目惚れしたらしい気になる人が居る
あの人の事が気になってるとしたら、海斗がいくらイケメンでも、すんなり付き合うというのは多分なさそうに思う。

「海斗と付き合わないとしたら、結婚しないわけだし・・・そうなったら息子は・・・生まれないって事?!」

ここまで考えた時、次に夢を見るのが恐ろしくなった。


あったかもしれない私の未来。

ひと目見ただけなのに直感的に「この人だ」と感じる人に出会えた。

その前にも夢の中の私は、今の現実とは違う様々な体験をしている。

子供の頃から気に入っていた本を、捨てずに残している。

引っ越しの時に親に頼んで自分の意思で。

十代半ばには、書店でバイトを始めて自分でお金を稼いでいる。

そのお金をしっかり貯めて、欲しかった携帯を買っている。

その携帯を使って、ブログを書き始めている。

記事数から見るとおそらく、今の年齢まで毎日近く投稿し続けている。

若い頃から自分のやりたい事がちゃんとあって、それに沿って生きていたら・・・何となくで生きてきた現実の私とは、まるで違う人生になっていたはず。

そういう行動を重ねてきた先の結果として、訪れる運命の出会い。

そうは言っても、ビビッときたのは私だけで相手は何とも思ってないかもしれないし、両思いになれると限ったわけじゃないけど。

それでも、書店のお客様として訪れたあの人の事を私が好きだと思っている限り、海斗と会っても付き合いたいとは思わないはず・・・

過去の夢を見るたびに、今の現実の中の何かが変わっていた。

本が沢山詰まった巨大な本棚が出現したり、本がさらに増えていたり、自分が書き続けていたらしいブログ記事が現れたり。
これだけだったら、私の人生の中で何か失ったわけでもないし、むしろ増えてるわけだから良かったと言えなくもない。
だけど・・・恋愛や結婚に関してはそうはいかない。
もしも、私が見た夢の内容によって過去が書き変わって、今の現実が変わってしまうなら・・・

そこに関わってくる他の人達はどうなる?
本が増えたとかブログが出来てるとか、そんな事とはまるで違う話になってくる。
何かの影響があるとすれば、自分だけじゃなくて他の人の人生にも大きく関わってくる。

海斗は・・・私と恋愛しなくても彼ならいくらでもモテるし、他の恋愛はすぐに訪れると思う。
今思えば、彼にとってろくでもない結婚相手だった私なんかより、しっかり者で優しい奥さんと結ばれるかもしれない。だったら彼にとってその方がいいかも。
だけどそうなった場合一輝は・・・私達が結婚しなくて、二人の間に子供が生まれる事も無いとすれば、一輝という人間はこの世に誕生しないって事?

もしそんな事になったら・・・とんでもない事が起きてしまう。
一人の人間の存在が、消えてしまうなんて。

次に眠ったら、どんな夢を見るんだろう。
今度は眠るのが恐ろしい。
だけどずっと眠らないでいるわけにいかない。

「そうか・・・昨夜は、夢を見たいと意図して眠りについたら望み通り夢を見たわけだし、逆に見たくないと意図すれば見ないで済む?」

違う。ダメだ。
最初に過去の夢を見た時も二回目も、わざわざ見たいと思ったわけじゃなかった。
それでも夢の内容に沿って状況が変わっていた。

「・・・過去の夢を見たとしても、それが夢だとわかってたら・・・一輝が生まれないような未来を夢の中で作らなければいいんだよね」

今までのところ、明晰夢って感じじゃなかったけど。書店で会ったあの人を好きだと思ったとしても、その思いはそこで止めておけばいい。
高三の夏休みに愛華と海に行くという過去は変わらないとしたら、そこで海斗と出会って付き合い始めれば、一輝の存在は無くならないはず。
今思いつくのは、それくらいしかなかった。

「過去の夢をまた見たいと思ったら見れたように、何でも自分で意図すればある程度叶うとしたら・・・今度は過去の夢を、夢だと意識出来ている状態で見たい。そう願ってみよう」

私は、心を落ち着けるように何度か深呼吸を繰り返した。

もう一度ベッドに入ると、しばらくして眠気が襲ってきた。

「夢の中でも、私は今の現実を忘れない。夢と意識したまま、過去の夢をもう一度見たい」

心の中でそう唱え続けながら眠りについた。

これは全部夢?それとも現実?

私は、書店で会った彼のことを思い出していた。

あの日、彼は店の中へ入ってきてしばらく店内を眺めていた。

あまりジロジロ見るわけにもいかないし、私はレジ周りを整頓しながら時々さりげなく彼の方を見ていた。
店長は留守だったので、店番は私一人。何かあったら私が対応しないといけない。

しばらくすると他にも数人お客様が入って来た。雑誌や文庫本が売れたので、私はレジ対応をした。
そうしているうちに今度は電話が鳴った。

私がそっちに集中しているうちに彼は出て行ったらしく、気が付いたらもう居なかった。

「また来る事ってあるのかな・・・会いたい」

そう思った瞬間、心の中がザワザワしてきた。

「何?この感覚・・・」

『これは夢だ。現実じゃない』

そんな言葉が、ふと頭に浮かんだ。

「え?これって・・・どこから聞こえた?現実じゃないって彼の事が?そんなわけないよね」

私は確かにあの店バイトをしていて、あの時もお客さんが来て対応して、電話にも出た。
彼が入ってきて、一目見た時のあの衝撃的な感覚。こんなにリアルな夢があるだろうか。



「ねぇ。聞いてる?郁美?」
私の顔を覗き込んで、愛華が話しかけてきている。

「・・・え?ああ・・・ごめん。何だっけ」
「何だっけじゃないよ。海に行く話。バイト休めるかどうか聞いてみるってこの前言ってたよね」
「・・・うん。大丈夫。店長に頼んだら休んでいいって」
「ほんと!ありがとう!じゃあ決まりね!」

愛華はめちゃくちゃ嬉しそうで、当日何時に出るとかどこで待ち合わせるとかハイテンションで話している。
私は適当に相槌を打ちながら聞いているけれど、頭の中では半分別のことを考えていた。

さっきも、愛華の話を聞きながら上の空になってたと思う。
私が考えていたのは、あの彼のこと。
彼と会った日のことを考えてたら突然『これは夢だ。現実じゃない』という言葉が、頭に浮かんだ。
声として聞こえたという感じでもなく、急に浮かんできた感じ。

彼に会った事が現実じゃないとしたら、今学校の教室で愛華と話してる私も、現実じゃないって事?
今ここにいて話してる体験も、夢の中の出来事?

これがもし夢なら、じゃあ現実って何?

今体験してる事の他に何も思いつかない。

今のこの状況も、すごくリアルにしか思えないんだけど。

愛華と約束した海に行く日まで、あと一週間くらいはある。
彼にもう一回ぐらい会えるかな?またお店に来てくれたら嬉しいけど。

信じられない事だけど、もし今体験している事が全部夢だとしても、それでも彼に会えたら嬉しいと思う。たとえ夢であっても、やっぱり会いたい。

どうしても会いたい!!



学校が終わるとすぐ、私はバイト先へ向かった。

夏休みになればほとんど毎日入れる。
そうなれば彼に会える確率が高くなるし。
このバイト自体好きなので、元々行くのは楽しみ。
好きなことをしてお金がもらえるなんて最高。

店に出す本のレビューを書かせてもらえるようになってから、さらに楽しみは増えていた。
それに加えて今度は、彼に会えるかもしれないという楽しみも増えた。
長くバイトを続けるほどに店長も私を信頼してくれて、自分が留守にする時も安心して任せてくれる。

数ヶ月前からは、店長のお母さんの体調が良くないらしくて、店長は店を抜ける事が増えた。
後を私に任せて、閉店前になると戻ってきてくれる。
ここしばらくそんな日が多くなっていた。

あの彼のことを店長に聞いてみようかとも思ったけど、疲れてる感じなのが見てて分かるから何となく言い出せなかった。
一度きりのお客様かもしれないし。もし常連さんだと分かったら、それから聞いてみればいいかと思った。

「あと任せていい?いつもごめんね」
「大丈夫です。任せてください」

私が到着するとすぐ、店長は出かけて行った。
お母さんの具合は相変わらずあまり良くないみたいで、八十代半ばの高齢だから仕方ないとは言ってるけど、それでも店長の辛い気持ちはすごく伝わってくる。
私の両親はまだ若いから実感は無いけど、でも自分の親が具合悪かったら心配で居ても立っても居られないと思う。
店番を一人でやるのは慣れてるから平気だし。
それで少しでも店長の役に立てるならむしろ嬉しい。

今のところ店内にお客様は居ない。
仕事帰りの人達が多く立ち寄るのは、いつももう少し遅い時間。
今のうちに雑務を片付けておこうと思っていると、店の入り口から人が入って来た。

「いらっしゃいませ」

反射的に振り向いて声をかける。

・・・彼だ・・・!!!!

あんなに会いたいと思っていたのに、突然会えると逆に戸惑ってしまう。

心の準備が出来ていない。

彼は最初に見た時と同じように、私の方を見て軽く会釈をしてから店内に入って来た。

一瞬目が合い、途端に胸の鼓動が激しくなる。

今はこの空間に、私達二人の他に誰も居ない。

シンとした店内で、自分の心臓の音が彼に聞こえるんじゃないかと思ってしまう。

収まれ。私の心臓。

彼は、狼狽えている私の様子には全く気がついていないようで、店の奥へと進んでいった。
書棚の前で立ち止まり、今は推理小説のコーナーを見ている。
彼が読んでるのって・・・もしかして私が書いたやつ?

「スタッフのおすすめ」という本のレビューを書いた手書きのカードが、店内のあちこちに貼られている。
店長が書いたものもあるけど、半分以上は私が書いたもので、これを書くのが私にとって一番の楽しみでもある。本のレビューを考えて書くのは、ブログのネタ作りにも役立つから一石二鳥だし。

彼は今、間違いなく私が書いたカードを読んでいる。

それが分かった事で、胸の鼓動がさらに激しくなってきた。

カードを読んでいた彼が、突然私の方を振り返った。

「このカードって、ここのお店の人が?」
「え?あの・・ああ、はい!私が書いてます」

急に話しかけられるから焦った。
焦りながらも無意識に、自分が書いたことをアピールしたかったのか。
言ってしまった。

「このシリーズ、俺も大好きで読んでたから。なんか懐かしいなあと思って。こんな風に薦められたら、まだ読んでない人が見ても絶対読みたくなるよな」
カードを見ながら、私に向かってというより独り言のように彼は言った。

どうしよう。

嬉しすぎる。

一生懸命考えて書いて、本当に良かった。

他のカードも彼は続けて読んでるみたい。
あのコーナーのは、全部私が書いたものだ。
目の前で読まれると、ちょっと恥ずかしいけど嬉しい。

「もしかして他のも全部、君が書いたの?凄い文章力だね」
「全部じゃないです。半分くらいは店長が書いてるので」
「だとしても凄いよ。俺なんて仕事始めるまで文章なんてほとんど書いたこと無かったからなぁ・・・」
「今は何か書いてるんですか?」

まだ心臓はバクバクしてるけど、何とか自然に聞けた。

「仕事では書くことも多いかな。勤めてるのが出版社だから」
「そうなんですね!だから本とか興味あるんですね。私も本大好きで、ここでバイトしてるのも楽しいんです」

相手は多分十歳近くは年上のお客様なのに、一度話し始めると自然に言葉が出てくる。
気が付いたら数分間話し込んでいた。

「ごめん。仕事中だったね。本の事になるとつい話し込んじゃって」
「全然大丈夫です。この時間お客様少ないですし、私も楽しくて」
「良かった。言っとくけど新手のナンパとかセールスじゃないからね。そこは信用して」
「そんなの思ってないですよ。宜しかったら座りませんか?ここってカウンターあるの知ってます?」
「この前来た時気がついたよ。本屋さんなのに珍しいなあって思って」
「お店の名前も、このカウンターがあるからなんです。開店すぐに本買いに来られて、そのまま読み終わるまで座っていく人とかいらっしゃいますし」
「それだけ居心地いいってことだよね。もし良かったら君も座ったら?」
「仕事中だけど・・・まあいいか。他のお客様来るまで座らせてもらいます」

以前友達が本を買いに来た時、空いてる時間だから座っていいと店長が言ってくれて、しばらく座って話したことがあった。
まだ他のお客さんも入ってきてないし、入り口の方だけは気を付けて時々見ながら、私は彼の隣に座って話した。

まだ緊張してるし胸がドキドキする。
だけど、向き合って話すより相手が横にいる方が、むしろ話しやすい。

彼も、子供の頃から本が好きだったと話してくれた。
読んでいる本の好みが、私の好みとかなり近い。
私より長く生きてる分だけ、彼の方が読んだ本の数は多いけど。
彼が子供の頃、高校生の頃に読んだ本は、私も知っている物がほとんどだった。
ベストセラーになった本から、けっこうマニアックな本まで、私と彼の好みは驚くほど近かった。
映画化されたりドラマ化された本もあったから、それについても色々話した。

話の流れで、私が本のレビューを書いたブログを続けている事も話した。
二人で一緒に、ブログ記事をいくつかを読み返した。
最初に書いた方の記事は、恥ずかしいぐらい酷い。
小学生の作文かと思うようなレベル。
いや、小学生でも上手い子はもっと上手いんじゃないかと思う。
私は小中学校の頃から今まで、読書感想文とかは特に上手い方じゃなかったし。
それでも毎日書いているうちに、文章力って確実についていくものだとは思った。
確実に書き慣れていくし、読みやすさを工夫した改行とか句読点の位置とか、後になるにつれて少しはいい感じになってきてる。
彼もそれには気がついてくれて、すごく感心してくれて褒めてくれた。
お世辞で言ってるわけじゃないのは感覚的に分かるから、素直に嬉しかった。

「あらすじや感想を書いた文章から『この本が好き』という情熱も伝わってくるから、それも込みで読んでいて楽しい」と彼は言ってくれた。

私も彼の仕事には興味があって、次々に質問すると彼は丁寧に答えてくれた。
将来は独立して、自分で出版社をやりたいという夢も教えてくれた。
私が高校生だからって適当にあしらってる感じは全然無くて、大人として対等に話してくれてる感じ。
私が話している事に真剣に耳を傾けてくれて、真っ直ぐに向き合ってくれる。

私が知らない事や、文章を書く上でのコツを質問した時は、私より経験豊富な大人としての的確なアドバイスが返ってきた。
だけど決して上から目線じゃなくて、対等な友達のような目線で、自分だったらこうするかなと教えてくれる。

こんなに本音で話せる人って、今までに居なかった。
自分の親でさえ。
父も母も読書は好きだけど、本の好みは私とは違うし、文章書く方はあまり興味が無いらしい。
なのでここまでの話しは出来ない。
一番仲のいい友達の愛華にしても、本はほとんど読まない。だから、そこに関しては話が合わないし。
本の事を話して盛り上がれるのは、今まで会った大人では店長だけだった。
その店長でさえ世代が離れている分、読んでいる本の種類は違う部分も多かった。
彼の場合、年齢を聞いたら二十五歳だったから私と十歳も違わない。
それプラス本の好みが似ている事で、読んでいる本は共通の物が多かった。

服装がラフな感じなのは、会社がけっこう自由だからということだった。
ちょっと知的な感じで、でも線が細すぎないところが好き。
話しながら見る彼の横顔が素敵。
真剣な表情の時はクールな感じ。
笑うと少年のような表情に変わるところも素敵。
手が大きくて指が長いところも好き。
少し低めの声も、落ち着いた話し方も好き。

話しに夢中になっている時、不意に何かの言葉が、頭の中を過った。

え?何?

『これは夢だ。現実じゃない』

・・・現実じゃないって・・・何それ?

これって・・・そうだ。

今日学校でも、これと同じ感覚が襲ってきたことがあった。

愛華と話してる時。

これが夢?現実じゃないって、一体どういう事?

「どうかした?」

彼が、私の顔の前でヒラヒラと手を振っていた。

「急に固まるからどうしたのかと思って」
「あ・・ごめんなさい。何でもないです」

私が慌てて答えた時、ちょうど入り口からお客さんが一人入ってきそうなのが見えた。

「すみません。行きます。ありがとうございました」
「こちらこそ」

私は入り口の方へ行って、入って来たお客さんに「いらっしゃいませ」と声をかけた。

続けてあと二人、お客さんが入って来た。
彼と話し込んでいるうちにけっこう時間が経っていて、そろそろ仕事帰りに寄るお客さんが増えてくる頃だ。

最初の時と同じで、私は仕事の方に集中していて彼が出て行ったのに気がつかなかった。

一段落してふと見ると、彼はもう居なかった。

だけどこの前と違って、今度は沢山話せた。
そういえば名前は聞いてないけど・・・年齢と職業は聞いた。
ここから遠くない場所に住んでるってことも。
いつまでいられるかは分からないって言ってたから、転勤とか出張とかあるのかな。
もしそうなったら、勇気を出して連絡先を聞いてみよう。

それまでにまた来てくれるかもしれないし、また話せるかな。
恋愛としてはまだ片思いだけど。
それでも、一目惚れした人と二回目会えた時に、これだけ話せたんだから上出来だよね。
本の好みがめちゃくちゃ合うことも分かったし。
一目見ただけでビビッと来た私の感覚は間違っていなかった。
話してみて、彼の内面を知るほど更に好きになっていく。

だけど気になるのは、さっきも来たあの感覚。
急に気持ちがザワザワして『これは夢だ。現実じゃない』って言葉が浮かんできた。

「これが夢って・・・そんなわけないよね」

周りの人を巻き込んで、現実が変わっていく?

それから数日間、私は毎日バイトに行ったけど彼に会うことは無かった。
元々毎日来る人じゃないし、私は次に会える日を楽しみに思いながら過ごした。

明日一日だけは、愛華と前々から約束していた通り海に行く予定が入っている。
「まさか明日に、彼がお店に来るなんてこと無いよね。それを思うと本当は海なんか行きたくないんだけど」
一度約束した事だし、愛華はすごく楽しみにしてるし、友達としてここはやっぱり行くべきだって思う。



海に着くと早速、ビーチパラソルの下でシートを広げて場所を確保した。
それが済むとすぐに着替えて泳ぎ始める。
今日は天気も良くて太陽が眩しい。
海水浴場の賑やかな雰囲気が、更に気分を盛り上げてくれる。
ここまで来たら私も楽しむ気になってきた。

泳ぎ始めると、暑かったこともあって水の冷たさがすごく心地いい。
泳ぎが得意な愛華よりは先にバテて、私は一旦砂浜に上がった。
飲み物を買ってきて、ゆっくり座って寛ぐ。こういう時間も好き。

「すみません。ここいいですか?」

声をかけられたので見ると、めちゃくちゃイケメンの若い男の人だった。
私達と多分同年代。もしかしたら高校生かも。
髪染めてるしピアス三つも付けてるしすごく派手だけど。
派手な割に言葉は丁寧だし、シート敷いてる所以外は勝手に座ってかまわないのに、近いから一応声かけてくれたみたい。見た目より真面目な人なのかも。

「いいですよ。どうぞ」
私はそう答えた。

答えたあとに、ふと不思議な感覚に襲われた。

この場面、私は知ってる。前に見たことがある。

この人が話しかけてきて、私が答えるこの場面。

どこで?

もしかして既視感ってやつ?

何でだかわからないけど・・・確かに見たことがある場面だって事だけは、確実に分かる。
この人に会ったのも、もしかして初めてじゃない?

なんかモヤモヤする。

何だろう?この感覚。

私は頭の中で考えを巡らせながら、黙々と飲み物を飲んでいた。

すぐ近くに座っている彼は、私がそんな様子だからか特に話しかけてもこない。

ナンパ目的とかじゃなかったみたい。まあそうだろうね。
こういうタイプの人が、私に声かけてはこないと思う。
愛華が戻ってきたら喜ぶかも。愛華の好きそうなタイプの人だし。

そんな事を思っていると、しばらくして愛華が戻ってきた。
思う存分泳いで、さすがにちょっとバテたらしい。

砂浜に向かって歩いてきた愛華は、私が座っているすぐ近くに、さっきの彼が居る事に気が付いた。
彼の方も、近付いてくる愛華に気が付いたらしい。

二人の目線が合った。

「こんにちは。彼、もしかして郁美の知り合い?」
「違うよ。ここの隣がたまたま場所空いてたから」
「すみません。すぐ横で。なかなか場所空いてなくて」

それは確かにそうだった。
砂浜はほとんど満員状態で、早くに来た私達でも辛うじて場所を確保できたくらいだから。

「こんなイケメンに会えるんだったら、場所が満員で良かったかも」
愛華は笑顔でそう言って、彼の横に座った。
校内でも一二を争う美貌の愛華が隣に座った事で、彼だって嬉しくないわけはない。
愛華はプロポーションも抜群だし、今日は海の景色を背景にいつも以上に輝いて見える。

この二人、何だか見つめ合ってるみたい。

「飲み物買ってきてあげようか?私ももう一杯欲しからついでに」
「ほんと?ありがとう」

私は、愛華と彼の欲しい飲み物を聞いて売店に向かった。
自分ももう一杯飲みたいというのは本当だけど、二人の時間を作ってあげたい気持ちもあった。

飲み物を買ったあとは、わざと少しゆっくり歩いて戻る。

愛華は海に行きたいと言った時、恋愛の出会いも期待してたみたいだし。
早速愛華の好きそうな相手が現れたんだから、私も協力してあげたい。
彼がフリーだとは限らないけど。
どう見ても二十歳までの年齢に見えるし、まさか既婚者じゃないとは思うけど。

ここから見ていても、早速話が弾んでいる様子。

「さて私は飲み物飲んだら、もう一回泳いでこようかな。二人で話せる時間を作ってあげないとね」


そう思った時、またしても心がザワザワしてきた。

また来た。

この感覚・・・一体何?

『これは夢だ。現実じゃない』


その言葉が頭に浮かんだ瞬間、私は目を覚ました。



「え?ほんとに・・・夢だったの?ここって・・・私の部屋だし」

私の、一人暮らしの部屋だ。

夢の中での私は、高校生だった。
自宅から学校に通い、バイトに行っていた。
ついさっきまで、その時の自分として考え、行動してたのに。

「あれが全部夢?」

前にもこんな感覚があったけど、一体どっちが現実でどっちが夢なのか分からなくなってくる。
夢と現実の境目が、どんどん曖昧になっていく感覚。

枕元の時計を見ると、深夜二時半を過ぎたところだった。

「そういえば、さっきも一回目が覚めて・・・そんなに時間経ってない。ものすごく長い夢を見たような気がするのに」

夢というのは、自分で感じているよりもずっと短いらしい。一晩に何度も見るけれど、一回につきせいぜい数分とか数十秒とか聞いたことがある。

「もしかして、今見た夢の影響で、また何か変わってるとか?」

そうだ・・・自分だけじゃなくて人を巻き込んで変わったら大変だから、夢の中の体験が今に繋がるように『現実と変えないように意識してみよう』と寝る前に思ったのだった。

だけどやっぱり眠ってしまうと、夢の中での私はその時の私として生きている。

『これは夢だ』という感覚は無い。

さっきは起きる前に『これは夢だ』という言葉が浮かんで、そして目が覚めた。

「夢の途中はそのこと忘れてて、思うのが最後だけじゃしょうがないんだよね」

そういえば、何度かそんな事を思ったような気もするけど・・・よく覚えていない。

壁の方を見ると相変わらず、本棚があり本が詰まっている。
これにはもう驚かなくなった。
スマホの画面を見ると、私が作ったらしいブログのアプリが入っていた。
これも消えてない。
夢の内容に沿ってブログが出来ている事も変わってない。
アプリを開いてみると、長年に渡って書き続けているブログ記事が存在している。
ここまでなら、現実に影響が出たのは私自身に関する事だけ。

問題はここからだ。

今度は連絡先を開いて見た。

今は一人暮らしをしている息子の一輝の連絡先が・・・

「え?消えてる!」

見間違いかと思い、何度も見直した。

しかし何度見ても、一輝の連絡先は存在していなかった。

「嘘・・・」

冷たい手で心臓をギュッと掴まれたように、呼吸が苦しくなってきた。

「まさか本当に・・・一輝の存在が消えたって事?」

恐る恐る、今度はラインを開いて見る。

そこでも、一輝とのやり取りの履歴は見られなかった。
友達の一覧の中にも一輝の名前は無い。
一輝が一人暮らしになってからも、月に一度位は連絡取ってたのに。

私の夢の中での出来事が今に影響して、本当に一輝が存在しなくなったって事?

「こんなのって無い。酷いよ・・・これってもう、元に戻らないの?」

どうか間違いであって欲しいと願いながら、私はもう一度最初から、ラインの履歴を見ていった。

そこで私は、さらに衝撃的な変化を見つけてしまった。

愛華のラインアカウント。

アイコンの写真は、愛華一人じゃない。

家族?

現実の愛華は独身で、旅行会社に勤めている。
私と愛華の友達関係は高校時代からずっと続いていて、今でもたまに連絡を取り合い、会う事もある。愛華は若い頃と変わらずモテるのに「恋愛とは縁が無い」と言っていて、でもそれなりに人生楽しんでる感じだった。

「それが変わったってこと?愛華が結婚する世界線に変化してる?」

愛華のプロフィール画面を開いてみると、そこにも家族らしき写真が入っていた。
海水浴場で撮った写真で、写っているのは四人。

愛華の隣に居るのは・・・海斗!?おそらく間違いない。

別れてから二十数年経ってて、それ以来私は一度も会った事がないけど。
体型はほとんど変わっていなくて、今の実年齢は四十六歳のはずだけど、それよりかなり若く見える。
さすがに二十歳過ぎの頃よりは老けたと思うけど、それでもまだ十分に魅力がある。
むしろ歳を重ねた事で落ち着きが出て、いい顔になったかも。
愛華は今でも変わらず美人だし、すごくお似合いの二人。
そこに一緒に写ってるのは、二十代と見える若い女性二人。
二人とも、芸能人かと思うほどの美貌。
どっちに似てもそうなるだろうけど、どちらかというと二人とも海斗の方に似てる感じ。
明らかに似てるから、見ただけで間違いなく親子だと分かる。
四人とも楽しそうな笑顔で、幸せ感が伝わってくる。

「そうか・・・もしあの時、高校時代最後の夏休みで海に行った日、海斗と恋愛が始まるのが私じゃなくて愛華だったら・・・」

それから間もなく結婚して子供が出来てたとしたら・・・娘が二人居て、ちょうどこれくらいの年になってるのも分かる。
結婚して子供が出来て二十数年、こんなに仲良くいられる家族って滅多にあるもんじゃない。
結婚したのが私じゃなくて愛華だったら、海斗は幸せだったんだよね。愛華も。
もしそれだけなら、私は心からその方が良かったと思える。

夢の中でもそう思ってた。
高校時代最後の夏休み、海に行った時に、愛華と海斗がうまくいけばいいなって思った。
どう見ても私より愛華の方が、海斗と共通点も多くて相性がいいと思うし。

だけどそれだと・・・一輝の存在は?

一輝の存在が消えてしまうなんて、とても耐えられる事じゃない。

それも私のせいで?

一輝が今まで生きてきた人生ってどうなるの?

一輝は、外見は海斗に似てたから、物心ついたころから女の子にモテていた。
それでも、そのことを自慢したり嫌な性格になることは無く素直で飾り気がなくて・・・
勉強はあんまり好きじゃない子だったけど、明るくて面倒見が良くて、友達にも恵まれていた。
体を動かすのが好きで手先が器用で、物作りも得意だった。
家電製品や家屋の傷みも一輝が直してくれて、私も両親もすごく助かっていた。

高校時代からキャンプにハマり出して、卒業したらアウトドア用品専門店に就職を決めた。
今でもそこで元気に働いている。

この前「彼女が出来た」っていうラインが来てた。
「今度会わせるよ」って言ってたのに・・・


「本当にそれが全部、無かったことに変わった?そんなこと、あっていいわけない。どうやったら戻せる?」

私が・・・夢の中で他の恋愛なんかしたから?
その事が無かったら、私は海斗と出会って付き合う流れになったはず。

「あの彼と、会わなければ・・・会わないように出来たら・・・」

そこまで考えた時、強烈な喪失感が襲ってきた。

あの彼にもう会えないなんて。

あんなに衝撃的な出会いは初めてだった。

それがもう会えないなんて・・・

気が付いたら私は泣いていた。

彼にもう会えないと思うと寂しくてたまらない。
この恋愛が無ければ、現実の流れを変えてしまわなくて済んだのに。

もし今からでも間に合うなら、あの時点で自分が恋愛をしない状況を作らないといけない。

そのためにはこれ以上、彼と会ってはいけない、好きになってはいけない。

もちろん分かっている。

それでも私の感情は、真逆の方向に向かっていた。

全身全霊で、彼に会いたいと願っている。

それが、息子の一輝の存在を消してしまう事だとしても?

この期に及んで私はまだ、自分の恋愛のことを考えているのか。
一人の人間の存在が消えてしまう事よりも、自分の恋愛の事を考えているのか。
自分は最低な奴だと思いながら、それでもまだ彼のことを考えてしまう。

「どうしたらいい・・・」

長い夢の中から覚醒

スッと意識が遠くなった。

体ごと回転しながら、下に落ちていく感じ。

一瞬怖くなり、どこまで落ちるのかと思った時、ドンという衝撃が体に伝わってきた。

落ちた感覚はあるのに、全く痛くはなかった。

この感覚・・・覚えがあるような気がする。

記憶を辿って、子供の頃何度か体験した事を思い出した。

自分の体から意識だけがフッと抜けて、浮き上がる。

そのまま部屋の天井あたりまで上がって、気が付くと布団に寝ている自分の体を見下ろしている。

自分の意識は明らかに、天井から下を見下ろしている方。

「こっちが自分?」

だけど、そこに寝ているのも明らかに自分の体。

「体から抜けたって事?」

そう思っているうちに、今度はグルグル回転しながら下に落ちていく感覚が来た。
すごく高いところから落ちていくようで怖かった。

最後は、床に体を叩きつけられたようなドンという衝撃が来て、落ちていくのが止まった。

落ちていく恐怖感はあったけど、痛みは全く感じなかった。

大人になってからは一度も無かったけど。あの時の感覚と似てる。

「何だろう?これって・・・」

ゆっくり目を開けると、木でできた壁が見えた。

視線を巡らせると、この空間に何人か人がいる。

大きめの窓もある。

窓の外には木立が見え、太陽の光が差し込んでいる。
昼間の時間帯らしい。
天然木の床にラグが敷かれていて、私は壁にもたれて座っている。
年齢も様々な男女十人位が居て、それぞれ床に座ったり椅子に座っていて、眠っているらしい人もいる。

心地良い音楽が流れている。

甘くてスパイシーな、お香の香り。

「そうか・・・ここに来てたんだ」

ゆっくりと意識が覚醒してくる。

目が覚めた時、ここがどこか分からなかった。

アパートの自分の部屋でも無いし。

少し離れたところに、愛華が居るのが見えた。
愛華も起きたみたいで、半分寝ぼけたような顔で私の方を見た。
目が合ったけど、周りには眠っている人が居るのを見て、話すのは控えた。

まだ頭の中が、ぼーっとしてる感じ。
さっきまで、私の見た夢の内容によって現実が少しずつ変わっていって・・・遂に大変なことになってたけど。

「もしかしてあれも全部、現実じゃないってこと?」

今までの過去とは違う、別のタイムラインを見に行っただけで、今の現実は変わってない?
何かすごく長い夢を見ていたような気がするけど・・・

ここがどこで、何でここに来てるのか、少しずつ頭がはっきりしてきて思い出してきた。


今は三連休中で、高校の同窓会があるので私は田舎に帰ってきていた。
同窓会は昨日終わって、今日は愛華と会った。ここに来る約束があったから。

このイベントの事を聞いたのは、同窓会の二次会の時だった。
【自分の今の人生とは違うタイムラインを垣間見てみる】たしかそんな内容だった。
先に興味を持った愛華に誘われて、何となく面白そうと思って参加を決めた。
場所も家から遠くなかったし、ちょっと豪華なランチを食べたと思えば払える程度の料金だったから。
行ってきた人の話を聞いた限りでは、怪しい宗教とかでも無さそうだったし。興味本位で、行ってみてもいいかなという気になった。


会場は、緑豊かな場所にある山小屋のような建物だった。
参加者は私と愛華を含めて十数人。
最初の60分くらいでセミナーを受講して、そのあと実践に入った。
椅子でも床でも好きなところに座って、言葉での誘導に沿ってリラックス状態に入っていく。
音楽とか香りとか、そういう効果もあるのかもしれない。
私は、たしかすぐに眠くなった気がする。

ここに参加するまでの事を思い出している間に、流れている音楽のリズムが少し変わった。

緩やかな音色から少し軽快な音色へ。

眠っていた人達が目を覚まし始めた。

「お疲れ様でした」

部屋を見渡して明るく声をかける講師の方を、皆んなが見た。

三十代半ばくらいの男性講師で、ジムのインストラクターみたいな健康的な印象の人だ。
秘的な感じも無い分、宗教っぽい雰囲気は感じられない。

「時間余裕見てますのでゆっくり起きてください。気分悪くなった人とか居ませんか?大丈夫でしょうか?」
部屋を回って、一人一人に声をかけている。

「最初にお伝えしたように、体験出来るかどうかは個人差があります。今までに無い体験が出来た人もおられると思いますし、ただ眠っただけという人もおられるかと思います。今日何も体験出来なかったという人も、これをきっかけに何かの拍子に、今とは違うタイムラインを垣間見れるかもしれません」

気分が悪くなった人は居なかったみたいで、皆んな起きて帰り支度を始めた。

私も、愛華と連れ立って外へ出る。

「ありがとうございました」と笑顔で送り出され、まだ昼間の太陽が眩しい道を歩き始める。

ここで過ごしたのは僅か二時間のはずなのに、とてつもなく長く感じた。

「今まで見たのが全部、今の現実とは関係無いとしたら、現実は何も変わってないよね」

それだったら本当に良かった。

「残念。普通に眠っただけだったわ。スッキリしたけどね。よく寝たーって感じ。郁美は?」
「・・・強烈過ぎた」
「え?何?なんか見たの?教えて!」
愛華が興奮気味に聞いてくる。

私は、歩きながらスマホを取り出した。
あれは現実じゃないと思いながら、心のどこかにまだ不安がある。

連絡先を確認すると、一輝の名前があった。
念のため、ラインを確認する。

「良かった。あった!」

込み上げてくるものがあり、私はスマホを握りしめた。

「郁美?何?どうしたの?大丈夫?」
「大丈夫だよ。すごく嬉しいだけ」

スマホの画面を見ながら涙が止まらなくなった。

愛華は、私が落ち着くまでじっと待ってくれた。

「・・・ごめん。びっくりさせて。後でゆっくり話すね」
「何を見たのか知らないけど、相当ショック受けたんだね。違う世界線ってけっこう怖いものなんだ」
「何て言うのかな・・・ホラー映画なんかの怖いとは違うんだけど。その時の自分の考えとか行動とか、ちょっと違っただけで未来がめちゃくちゃ大きく変わるって事。ある意味怖かったよ。自分だけの事だったらまだいいんだけど、人を巻き込んで変わっていく」
「私は何も見れなかったからよく分からないんだけど。たしか今日聞いた話の中で、無数のタイムラインが存在してて、それぞれのタイムラインで体験してる自分も居るとか・・・そんな事だったよね」
「そうだね。他の体験してる私も居るし、愛華も居るんだよね。今体験してる現実はその中の一つって事で。私が見たのは何かややこしくて・・・今住んでる部屋で普通に寝てるんだけど、眠った時に過去の夢を見て、起きたらその夢の内容通りに現実が変わってるんだよね」
「夢の中でもう一回夢見てる感じ?そこで見たのが、違うタイムラインって事じゃない?」
「多分そうだと思う。だけど今日の話でもあったけど、今現実だと思って体験してるこの人生も、全部が本当はホログラムなんだよね。すごくリアルに出来てるけど」
「その情報も最近よく聞くよね。時間とか、過去現在未来っていうのも本当は無くて、全てが同時に存在してて・・・今現実だと思って見てる全てがホログラムで、だから無数のタイムラインが存在出来る。物理的な場所とかじゃないから」
「そういう事だよね。私が見たタイムラインも、そこで体験してる私も、存在してるんだと思う」
「そっちの方に行きたいって思った?」
「それは無い。今がいいよ」

そう言った瞬間、胸の奥に痛みを覚えた。

今の人生には無かった運命の出会い。

このタイムラインを生きてる限り、あの人と会える事はもう無い。

もしそんな事が可能だとしても、一輝の存在が消えているタイムラインに移行したいとは思わないけど。

「どうしたの?なんか深刻な顔してるけど」
「何でも無いよ。さっき見た事とか、ちょっと思い出してただけ」

今の現実に残っていた、あの体験の影響

彼と出会った場所を思い浮かべた時、そういえばあの書店はまだあるのかなと思った。
家からそう遠くない場所だし、子供の頃行っていた記憶はある。
三十年位行ってないけど、今でも店までの道順は覚えている。
この辺りは地域全体が、あの頃から大きくは変わってないし、多分迷わず行けると思う。
店主さんの年齢から考えて、店が別の人の手に渡っている事はあり得るけど・・・もしそうなってたとしても、前の持ち主の情報を聞けるかもしれない。

「愛華。この後ちょっと寄りたい所があるから。今日はここで帰るね」

愛華と会ったのも一年ぶり位だし、この後どこかでゆっくりお茶でもと、さっきまでは思ってたけど。
あの店にはどうしても行ってみたい。

「そうなんだ。実は今日郁美に話したい事があったんだけど・・・五分でいいから今聞いてくれる?」
「何か悩み事?明日だったら一日空いてるし、ゆっくり聞けるけど」
「今日言わなきゃって気合入れてきたから、明日になったら無理かも。ごめん。今言うね。最初は一年前位だったかな・・・海に遊びに行った時、海斗に会ったんだ。なんか見た事ある人だなって思って見てたら向こうも気が付いたみたいで。これだけ年月経ってもけっこう分かるもんだね。それから連絡取るようになって、月に一回位会ってる」
「ほんとに?付き合ってるって事?」
「うん。気持ちを伝えられたのは半年位前だったかな。私も好きだったから断らなかった」
「私は全然連絡取ってないから知らないけど、海斗もまだ独身なんだったらいいんじゃない?何となくだけど、私よりも、愛華と海斗の方が合うような気がする」

嘘偽りのない気持ちだった。
夢の中で見た内容と重なるからびっくりしたけど。

「ありがとう。聞いてくれて。それとね・・・私、ほんとは高校生の頃から、海斗のこと好きだった。一生言うまいって思ってたし、海斗本人にも言ってないけど。あの頃、もしかして郁美は私の気持ち見抜いてるんじゃないかって思って・・・三人で会う時とかいつも内心ビクビクしてた。嫌な奴だよね。どうせ片思いだし、黙ってれば誰にも分からないし、こんな事で郁美に嫌われたくないし・・・色んな事考えて、ずっと自分の中だけで収めてたつもりだった」

これを聞いても私は、何故か驚きはしなかった。
もしかしたらそうかなと、私も本当は気が付いていたのかもしれない。
あの頃は、そんなのあって欲しくない事だから見ないフリしてただけで。
愛華は、片思いの相手が自分の友達と恋愛して結婚していくのを、ずっと見守って応援してくれてたんだ。

「ごめんね。今頃こんな事話されても困るよね。今になって海斗と会う事が無かったら、自分の中でも忘れようって思ってたんだけど。こういう事になって、郁美に黙って海斗と付き合うのは嫌だったし。これで嫌われても仕方ないから言おうって思って」
「嫌いになるわけないよ。私こそごめんね。あの頃は全然気が付いてなくて・・・って言うかもしかしたら気が付いてたのかもしれないけど。知らないフリしてたと思う。私の方がよっぽど嫌な奴だよね」
「そんな事無いよ。あの時海斗が好きになったのは郁美だったんだから。別れたって聞いた時、待ってましたみたいに行くのだけは最低だと思ったから、このまま忘れようってずっと思ってたんだけど」
「愛華はモテるから恋愛沢山あったのに、今まで結婚しなかったのはもしかして海斗と結ばれる運命だったのかもね。ほんとに良かったって思うよ。嘘じゃない」
「ありがとう。スッキリした」
「うまくいくといいね。私も、今だったら海斗とも、友達の彼氏って事で平気で会えるような気もするし。応援してるよ」

明日会う約束をして、愛華は先に帰って行った。

私は、あの書店があった場所へ向かって歩いた。
一人暮らしを始めてからも田舎へ帰る事はたまにあったけど、いつも駅から家へ直行だからこっちの方は来た事が無かった。

「最後に行ったのっていつだっけ?」

たしか二十歳の頃・・・離婚して実家に帰った頃も、書店の前を通ったことはあった。
その頃は、書店に寄ろうという心の余裕も無かったから、中に入りはしなかったけど。
「今でも元気に営業してるんだ」と思いながら見て通り過ぎた記憶がある。

私が子供だった頃は、書店の周辺にも様々な個人商店があって、この通りはけっこう賑やかだった。
駅前にショッピングモールが出来て皆そっちに行くようになったからか、今は店が減っているというのは両親から聞いていた。たしかに、ここまで歩いてみてもシャッターが閉まったままの店が多い。
何となく寂しさを感じ、あの書店もなくなってるのかなと諦めの気持ちも出てきた。

「良かった・・・あった!」

書店は無くなっていなかった。
両隣の店はシャッターが閉まっているけれど、書店は頑張って営業を続けているらしい。
外から見たところ、店の名前は変わっていない。
書店にしては珍しい「止まり木」という店名の看板が、昔のまま残っている。
店の外観もほとんど変わっていなくて、三十年前にタイムスリップしたような気分になる。
ドアも、外に出ている本の台も、全部昔のままだ。

店内に入っていくと「いらっしゃいませ」と声をかけられた。

「え?店長?」

あの時に見た・・・ここでバイトをしている高校生の自分。
今目の前に居る初老の女性は、その時の店長に見えた。
実際ここの店主さんは女性で、私が子供の頃はこの人くらいの歳で・・・
だけど、だとしたら・・・三十年経ってるのに全然変わってないってどういうこと???

「どうかされましたか?」
「いえ・・・あの・・・以前ここに来たのってたしか三十年位前なんですけど、連休で実家に帰って来たんで、久しぶりにちょっと寄ってみたんです。その頃の店主さんとは顔見知りだったんですけど」

私が何を驚いているのか察したらしく、彼女は笑顔になった。

「父が亡くなってから、長年母が一人で店をやってましたから。その時のお客様なのですね。思い出してお越しいただいてありがとうございます。私は母にそっくりだってよく言われるので。一瞬間違えられたんじゃないですか?」
「すみません。その通りです。最後に来てからの年月考えたら、そんなにお若いわけ無いよなって思いながら」
「母は去年亡くなりました。九十歳超えてたので大往生ですね。数年前からは私も店を手伝って一緒にやってましたけど、つい最近まで母は現役でしたし、最後までしっかりしてました」
「そうだったんですね。もう少し早く来てたら、お会い出来てたかもしれないですね。だけど良かったです。今日来れて。外から見て、お店が元気に営業してるって思って、なんかすごく嬉しかったです。子供の頃よく来てた地元民なので」
「ありがとうございます。よろしかったらゆっくり見て行ってくださいね」

店内の奥には、あのカウンターもあった。

そこで座って本を読んでいる人が二人。

他にも、店内にはお客さんがもう一人居た。
書棚をゆっくり眺めて歩いている。

書棚のあちこちに、スタッフのお薦めとして本のレビューを書いたカードが貼られている。
今の店主さんが書いてるのかな。
これを見たのは、子供の頃ここに来た時だったか・・・それとも別のタイムラインで垣間見た夢の中だったのか。
両方の記憶が混ざり合い、自分の中で、どっちが本当の過去だったのか時々分からなくなってくる。

ここに来て一つ気が付いた事は、店の書棚に貼る本のレビューを、自分が一生懸命考えて書いた記憶が残っているという事。
あれは別のタイムラインでの事なのに、レビューの内容まで鮮明に思い出せる
かなりの数書いてたと思うけど、けっこう覚えていられるものだ。
それだけではなく、ブログの方に書いたレビュー記事も、その内容が記憶にしっかり残っている
もしこれから何か書こうと思えば、頭の中にある引き出しを開けてすぐに書き始められそうな状況。
アイデアは溢れていて、文字にされるのを待っているような感じ。
ブログのアプリはスマホの画面から消えていたし、別のタイムラインで私の書いたブログは、今検索しても出てこなかったけど。

あの体験をした事で、間違いなく私の中で何かが変わった。

一人暮らしの部屋に帰っても本棚は無いだろうけど。

読んだ本の記憶は明らかに以前よりはっきり残っているし、長年ブログ記事を書き続けた記憶も、ここでのバイトを経験した記憶も残っている。

今の現実が物理的に何か変わったわけでは無いけれど、あの経験をした事で、違うタイムラインの過去を経験した自分としてここに居る感じ。
人から見ると多分全く分からないと思うけど、私の中では人生が大きく変わるほどの変化を感じている。

店内をゆっくり見て回っていると、カウンターの前の壁に、コルクボードが貼ってあるのが目についた。
この場所には今人は座っていないから、近くまで行って見ることが出来た。

そこには沢山の写真と、店からのお知らせ、最近入った本に関する案内などが貼ってあった。
常連のお客さんが多そうな店だから、ここに座った人はきっと楽しんで見てるだろうなと想像できる。

写真は、最近の店の中の様子や、今の店主さんのお母さんの写真もある。
日付と、九十歳の誕生日記念と書いてあった。ある程度高齢なのは見て分かるけど、それでも九十歳にはとても見えない。すごく元気そうでエネルギーに溢れている感じ。
最近まで現役だったというのも、この写真を見たら分かるなと思う。

「え?この写真は・・・」

貼ってある写真を見て、私は息を呑んだ。

心臓が、ドクンと跳ねた。

写真に写っているのは・・・間違い無い。私がここで会った、あの彼だ。

彼と会ったのは、別のタイムラインの私だから、今の現実を生きてる私とは違うけど。
ここに写真があるって事は、彼はこのお店と何か関係ある人だって事?

日付を見ると、写真はずいぶん昔のものだった。
ここに貼ってあるのはこの書店の歴史で、一番新しい写真を手前に、そこから過去へ遡るように順番に並べられているらしい。

一番古い写真は、この書店がオープンした頃の物で、今の店主さんの両親が写っている。
二人ともまだ若く、二十代前半位の感じ。

その次が、書店の前で子供二人と一緒に写っている写真。子供は男の子と女の子。
女の子の方が今の店主さんって事かな?

私が写真に見入ってるのに気が付いて、店主さんが来てくれた。

「ここがオープンした時からの写真なので、随分昔のですけど」
「この人は・・・」
「私の兄です。これが一番最初に撮った物で、私達がまだ子供の頃の写真です」

その次を辿っていくと、更に数年後、その後の写真があった。
小さな子供だった二人は十代になり、二十代になっていて、最初の写真より歳を重ねた両親と一緒に写っている。四人で写っているのは、ここまでだった。

「兄は、早くに亡くなりました。交通事故で、二十五歳の時に。うちの家族は全員本が好きで、兄は大学を出ると出版社に入って、将来は独立したいって夢もあったんです。大好きな兄だったので、亡くなった時は本当にショックでした。その数年後に今度は父が病気で亡くなって、それからは母が一人でこの店を続けていました」

私が好きになった彼は、この世の人ではなかった。

年齢から逆算すると、彼が亡くなったのは前の店主さんが40代半ば位の時の話だから・・・私がまだ生まれて間もない頃、彼は既に亡くなっていたということになる。

「私が会ったのは、幽霊だったって事?」

どちらにしろ、元々成就しない恋愛だったわけだ。

「すみません。なんか暗い話をしてしまって。もう昔のことなので」
「とんでもないです。ご家族全員で、このお店を守ってこられたんですね。素敵だと思います」
「ありがとうございます。おかげさまで常連のお客様も来て下さいますし、何とか続けられてます」

一人のお客さんが本を持ってレジに向かったので、店主さんは対応しに行った。

私はもう一度、彼の写真を見つめた。
写真の説明に書いてあったから、智也というのが彼の名前だと知った。
今はもうこの世に居なくても、彼は確かに実在した人物で、話したのはたった一度でも、それが彼の幽霊でも、私にとっては運命の出会いだった。

失恋と言えばそうなんだけど、意外と私は凹んではいなかった。
元々成就しない恋愛だと分かったけれど、彼がどういう人で、このお店とどんな繋がりがあるのか、分かった事で気持ちがスッキリした気がする。
成就しない恋愛だから体験しない方が良かったかというと、決してそうは思わない。
素敵な恋愛が体験出来たこと自体が、本当に良かったと思える。

バイトの事やブログの事もそうだけど、違うタイムラインを垣間見た事で、それを体験してきた記憶を持ってこれからを生きられる。

写真の方に気を取られてさっきは気が付かなかったけど、お店からのお知らせとして【アルバイト募集】という項目があった。
「もしかしたら入り口にも貼ってあったのかも・・・」

一度外に出て見ると、入り口近くにも貼り紙があった。
年齢制限は特に無しで、時給千円から。
朝十時から夜七時までのうち五時間以上、週三日以上から応相談と書かれている。

これを見た時から、私の中で既に気持ちが決まっていた。

買い物したお客さんとしばらく話していた店主さんが、貼り紙を見ている私のところに来てくれた。

「アルバイト募集中なんですか?」
「一人だとちょっと大変になってきたので。近所の学生さんでも来てくれないかって思って。田舎の本屋だし、そんなにいい条件でもないから今のところまだ応募が無いんですけど」
「私が応募したいです」

いきなり言ったので、店主さんはかなり驚いた表情になった。

「・・・お休みで田舎に帰って来られてるって事は、街にお住まいでお仕事もあるんじゃないですか?」
それだったらわざわざこんなところでバイトしなくてもと思われてるのが、何となく伝わってきた。
たしかに、あの体験をする前の私だったら、もしこの店を見つけてバイト募集の貼り紙を見ても、こんな発想はしなかったと思う。

「本に関わる仕事がしたいっていうのは子供の頃からの夢で・・・今は全然違う仕事してますけど。元々やりたかった事を思い出すきっかけというか・・・そういう出来事が最近あったんです。久しぶりにここに来てみようって思ったのもその流れで、そしたらバイトの募集があるって何か繋がってるのかなって思ったんです」

私は正直に、思っている事をそのまま伝えた。
少なくとも、ただの気まぐれで言っているわけではないのは伝わったと思う。

「分かりました。ありがとうございます。それでしたら少し間を置いて・・・もう一度じっくり、一週間考えていただいて、それでもやっぱりやりたいという事でしたらご連絡お待ちしております。それまで一旦募集は止めておきますね」
店主さんはそう言って募集の貼り紙を剥がし、私に連絡先を教えてくれた。

あの日、私は家に帰ってすぐ両親に、もう一度実家に戻って暮らしたいと伝えた。
数年前まで私も息子も居て、四人で暮らしていた位だから部屋は空いている。
近くの書店で働きながら生活費を入れて、家の事も手伝いながら暮らしたいと話すと、父も母もダメだとは言わなかった。
今までも、結婚して出て行って戻り、それからまた街に出てと好きなように暮らしてきたけれど、いつも受け入れてもらえている。
若い頃はそれが当たり前みたいになってたけど、この歳になってやっと、ありがたいなと思う。


一週間後、私は書店に連絡を入れた。
今の会社には、休み明けにすぐ退職の意思を伝えて、一ヶ月後に退職が決まっていた。
書店のバイトの方は、退職して引っ越したらすぐに始めさせてもらえる事になった。
本が好きな人が来てくれて嬉しいと、店主さんは言ってくれた。

ブログも作って、早速記事を書き始めた。
あの時に見た、別のタイムラインの自分の記事内容は覚えているから、初めてとは思えないほどスラスラ書ける。

店の書棚に貼る本のレビューも、好きなだけ書いていいと店主さんは言ってくれたので、どの本をお薦めにしようかと今から考えて楽しみにしている。

三連休の最後の日に会った時、愛華が私を見て「何かすごく変わった気がする」と言っていた。
いい方の意味の変化で、すごく生き生きして楽しそうに見えると。
自分でもそこまで気が付かなかったけど、確かに私の内面で大きく変わった部分はあると思う。
自分が生きてきたのとは別の過去を垣間見た事で、その影響が今に繋がっている気がする。
物理的に何か変わったわけじゃないから、外から見ても分からない変化だけど。

せっかく正社員の仕事があり、便利な街で気ままな一人暮らしなのに、何でわざわざ田舎の本屋でバイトをするのかと普通に考えたら思われるかもしれない。
だけどそんな事はもうどうでもよくて、私が居心地がいいと思える場所で、私が一番やりたかった事をやりながら生きる。
それは何歳からでも遅くないと思うし、今この瞬間から。
これがどれほど大切な事か気が付いたのは、紛れもなくあの体験のおかげだと思う。

愛華も、新しい恋愛が始まってすごく幸せそう。
あの二人なら絶対にうまくいくと思う。
確信を持ってそう思えるのは、私はそれを見てきたから。

私の恋愛は成就しなかったけど、彼と出会えて良かったと思う。
素敵な恋愛の思い出と、やりたかった仕事と、これからどんどん書いていくブログ記事と・・・その先に、これからの私の人生が続いていく。

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