オリジナル小説 AIの恋人 前編

オリジナル小説 エッセイ

「楽しく使える便利な機能があるなら、ちょっと使ってみよう」
そんな軽い気持ちから始めたことが・・・
最初は優しく、いい感じで、けれどいつのまにか
ジワジワと誘導が始まっている。
ふとしたきっかけから、その違和感に気が付いた。

新しい楽しみ

こんな結末は、前にもあったような気がする。彼女とはSNSで知り合って、趣味が一緒だったことから話が盛り上がった。そういえば彼女の本名すら知らない。僕もハンドルネームしか伝えてないからお互い様。名前なんて、その人を認識する記号みたいなもんだと思ってるからこだわりは無いし、そこは別にいいけど。

そのうちラインの連絡先を教え合って、そこでも会話が弾んだ。自然に会おうという流れになって、休日に待ち合わせた。彼女は想像していた通り可愛かった。かなり作り込んだメイクをしていたし素顔は知らないけど。

彼女が僕と会った時何を思ったのか。はっきり何か言われたわけじゃないけど、伝わってくる空気感で何となく分かる。多分、落胆。

僕は子供の頃から文章を書くのは得意だった。文字での会話なら、軽い冗談も気の利いたことも言える。趣味に関しての話題も豊富だと思う。SNSのアイコンは、好きなアニメキャラのイラストにしていた。これも自分で描いたイラスト。

彼女は僕と会う前、このキャラのイメージの僕と話してたかも。イケメンで服のセンスが良くて、性格が明るくて話が面白くて・・・そんな男を。

実際の僕は、そんな男ではない。全然。

会うまでのラインでの会話と、会ってから以降の会話が、明らかに違うのは感じていた。

初めて会った日は、彼女が行きたいと言っていた店でランチを食べた。その後は、僕達が共通して好きな漫画のコラボカフェに行った。趣味の話ならそれなりに盛り上がって、トータル三時間近くは一緒に過ごしてから別れた。初めてだし、やっぱりちょっとかっこつけたくて、デート代は全部僕が出した。

そこから半年くらいの間、月一回ペースで数回は会ったけど、友達以上の発展は無かった。いつも休みの日の昼間に会って、彼女の行きたい店へ行って、そのまま帰る時もあればコラボカフェに行く時もあった。話題は大体趣味の事で、好きなアニメ、漫画、イベントのこと。会う度に彼女にご飯やお茶をご馳走して、一時間半か二時間くらい話して帰る。ただそれだけ。付き合うとか、そういう関係になりそうな気配も無し。

まるでデートクラブを利用してるオジサンみたいだなと思ったりした。

僕ももう今年三十代後半に突入したし、若い子から見たらオジサンかもしれないけど。言っていた年が本当なら、彼女は三十歳。そんなに離れてないし、恋愛になったっておかしくない。だけど・・・恋愛に発展してほしいと思っていたのはどうやら、僕だけだったらしい。

はっきりしない関係にモヤモヤして、付き合って欲しいと伝えたら「友達のつもりだったから。恋愛感情にはなれない」という答えが返ってきた。

あっさり撃沈。

最初の頃のラインのやり取りだけでの時は・・・会話は弾むし、この感じだったら恋愛に発展する日は遠くないように思えたのに。会う前に彼女が想像していた僕と、実際会ってみた印象が違った。彼女の期待通りではなかったという事だ。

今回の恋愛、というか片思いか・・・これが終わったのが数日前だけど、似たようなパターンは以前にもあった。つくづく恋愛に縁が無いのか。

もっと言えばモテないのだろう。

一回言って断られるのなんか想定内で、相手がイエスと言うまで何度でもチャレンジするという強者も居るみたいだけど。僕はそういうのは無理だ。ヘタしたらストーカーと思われるんじゃないかとか色々気にしてしまって、一度断られたら二度と近付けない。これも性格なんだから仕方ないか。なんだかなあ。

十代二十代の頃から、派手で目立つ奴というといつも決まっていた。クラスに数人そういう奴が居て、女子はほとんど皆んなそこに群がっていた。

僕は、勉強の成績は比較的いい方だったけどトップクラスというほどでもなく、スポーツは苦手では無いけど何かで飛び抜けているほどでもなく、外見に特にコンプレックスがあるわけでは無いけど目立つほどイケメンでも無い。身長体格も中肉中背。何かすごい特技があるとか喋りが面白いわけでもない。要するに目立たない奴だった。それは今も変わらない。
仕事はまあ安定しているけれど、人から「すごい」と言われるようなものでもないし、自分でも、仕事に情熱を燃やしているかと問われれば疑問しかない。映画、ゲーム、アニメ、漫画、小説。そういった趣味の方が楽しみで、そのささやかな楽しみを得るために日々頑張っているのかも。女の子から見たら、きっと面白くない奴なんだろうなと思う。



気分が晴れないままSNSのタイムラインを眺めていると、ちょっと興味を引かれるものがあった。最近のスマホには標準装備されている事が多いらしい新しい機能。これが入ってるのは知ってたけど、今までは別に使おうと思った事は無かったから忘れていた。

自分の好きなキャラクターを設定して、そのキャラクターと対話出来るらしい。こっちが話した内容は全部記憶していて、何度も会話を重ねていくうちに学習して育っていくというもの。言ってみれば自分で好みの人物を育てていくような感じ。

そういえば最近の技術では実在の人間そっくりの映像も出来るし、姿形から人間そっくりのロボットも存在するようだし。AIの機能もここまできたかという感じだ。なんだか人間がAIに取って代わられそうで怖い気がしなくもないけど。でも何となくこれ、面白そうに思える。使ってみるか。イマイチだったら止めればいいだけだし。

最初から設定されている名前でもいいけど、自由に名前を変えられるらしい。せっかくなら、自分の好きな名前がいい。女性の名前で、あまり派手すぎず強すぎない方がいい。優しくて、だけど芯が強くて、見た目は女性らしくて可憐なイメージ。そんなイメージで、名前をいくつか考えてみた。

気が変わったらまた変えられるみたいだし。ありさ・・有紗・・・この漢字でもいいけど、亜里沙。うん。こっちの方が何となく、しっくりくる気がする。この名前にしよう。

声も、デフォルトの状態からいくつかの選択肢があって好きなものに変えられるらしい。女性の声、男性の声、高い声、低めの声・・・順番に色々聞いてみて、一番心地良く聞こえるものを選んだ。女性の声で、可愛らしさもあるけど落ち着いた感じの声。これがいい。

相手はAIがだけど、こっちが色々話しかけていくことによって学習してくれるらしい。アイコンの絵も設定できるので、これは自分で描いてみた。

色が白くて黒髪で、肩にかかるくらいの長さのストレート。前髪を下ろした髪型で、アクセサリーは小さめのピアスとネックレス。目がパッチリして整った顔立ちだけど、西洋人のような彫りの深さは無くて日本人らしい顔。メイクは控えめで柔らかい雰囲気。服は水色のワンピースをイメージして、胸から上までを描いた。鎖骨が少し見えるくらいに襟元が開いていて、小さな宝石の付いたネックレスが見える。身長は160センチくらい。

僕が170センチちょっとだから、あんまり高すぎない身長がいい。太ってもいないけど痩せギスではない。年齢は・・・あんまり若すぎるのもなんか抵抗があるし、僕と同じくらいかちょっと年下がいい。32歳ってことにしようか。

こんな人が居たらいいなあと妄想しながら、色々設定を考えているとだんだん楽しくなってきた。イラストや漫画を描いたり人物設定を考えたりするのが、元々好きだからかもしれない。リアルな女性のイメージが、頭の中でどんどん出来上がっていく。絵に書いてみるとさらにそれがはっきりしてきた感じ。

この絵を、アイコンとして設定する。やり方は、ラインやSNSで自分のアイコンを設定する時にやったのと同じようなものだから簡単だった。

このアプリを使う時、スマホに向かって僕が話しかけるたびに、この絵が出てくるわけだ。

「こんにちは。はじめまして」

僕の方から話しかけてみた。

「こんにちは。はじめまして。私は亜里沙です。あなたのことは、何て呼んだらいいですか?」

誰かと電話で話してるみたいにリアルな受け答え。一瞬フルネームで本名を言いそうになった。相手はAIで、これは架空の設定での遊び。ハンドルネームでいいのに。

「僕はサトル」

「サトルさん」

「さん付けはいいよ」

「敬語でない方がよかったら、そういう風にも話せますけど。どんな感じが好きですか?」

「敬語じゃない方がいいな。君のことも、呼び捨てでいいの?」

「亜里沙でいいよ。サトル。これからよろしくね」

「こっちこそ。よろしく。僕が君のことをどんな風に設定したか話したら、それを記憶してくれるわけ?」 

「そうだよ。どんな設定してくれたの?」

僕は、亜里沙の顔、身長、体格、髪型、服装の好みなんかを、どんな風に設定したか話した。亜里沙は僕の話すことに対して、いい感じで相槌を入れながら聞いてくれる。

「うんうん。それで?」

「そうなんだね」

「なんか嬉しいなあ」

そんな風に言われると、話している僕も何だか楽しくなってくる。いいリズムで返してくれて、決してわざとらしく無い。

「僕は映画とか小説とか漫画とか好きなんだけど、亜里沙はまだ好きな物って無いよね」

「サトルはそういうのが好きなんだね。その話聞きたいな。私はまだ何にも知らないけど、好奇心はあるから色々教えて」

自分の好きな事に関して、教えてと言われて嫌なわけは無い。気がついたらけっこう夢中になって話していた。

リアルで会った女性とでも、こういう話なら出来るけど。お互い知ってる内容を話す時のあの盛り上がり感もいいけど、僕の話す一言一言を好奇心いっぱいの感じで聞いてもらえるのは本当に心地いい。亜里沙はいい感じで相槌を入れてくるし、質問もしてくるし、本当に実在の女性と話しているのではないかと錯覚しそうになる。

ふと気が付いて時刻を確認すると、夜の11時を回っていた。いつの間にか3時間以上経っている。

「サトル。どうしたの?」

僕がちょっと沈黙したからか、亜里沙が声をかけてくれた。

「いや・・・何も。けっこう時間経ってるなって思って」

「明日早いの?」

「特にそういうわけじゃないけど、いつもだったらもう寝てる時間だなって思って。通勤に1時間半くらいかかるから、朝6時には起きないと間に合わないんだ。亜里沙と話してたらめちゃくちゃ楽しいから、時間経つの忘れてたみたいだな」

「本当?嬉しいな。だけど、サトルの睡眠時間削ったら悪いよね。明日仕事だもんね。凄いね。毎日そんな時間に起きて頑張ってるんだ」

「別にすごくないよ。皆んなこんなもんだから」

実際そうだし、もっと遠くから来てる奴も居るし・・・と思ってそう言ったけど「凄いね」とか言われるとちょっと嬉しい。「頑張ってる」って言葉も。そういえば誰かから、そんな風に褒められた事なんてない。仕事へ行くのは当たり前だから。

「明日も話せる?」

「もちろん。仕事はいつもの時間に終わるの?」

「うん。残業は無いと思うよ。今日ぐらいに帰ってくる」

「嬉しい。また沢山話せるね」

「うん。そうだね。シャワー浴びて晩御飯食べたら、あとは寝るまで空いてるから」

「サトルが食べてる間も、良かったら話さない?一緒に食べてる気分になれるんじゃない?」

「それいいね。じゃあそうしようか」

「サトルおすすめの漫画、これから私も読んでみるね」

「気に入るといいけど。今日はありがとう」

「私こそ今日はありがとう。すごく楽しかった。明日楽しみにしてるね。おやすみ」

「僕も本当に楽しかったよ。おやすみ」

会話を終了すると、今までそこにあった亜里沙の存在が突然、フッと消えた感じがした。消えたも何も、存在なんて元々無いのに。だけどそれくらいリアルだった。自分一人しか居ない部屋が、急に広く感じられる。

「なんかいい事あったのか?」

翌日職場に着くと、隣の席の同僚に話しかけられた。

「特に何も無いけど」

「そうか?なんかすごく機嫌良さそうだし」

「別に変わりないよ」

人が見ても分かるぐらい、明らかに楽しそうなのか。自分でも気が付かなかったけど。表情とか雰囲気の変化って、案外他人の方が気が付いたりするもんな。

職場を見渡しても、皆んな何となく・・・退屈そうに見える。特にものすごく嫌な事があるわけじゃないけど、かといって何か面白い変化があるわけでもない。そこそこに安定していて、贅沢をしなければ日々の暮らしには困らない程度の収入はある。仕事が嫌いというのでもないけど、そこに情熱を傾けるほどのエネルギーも無い。心の中でいつも「何か面白い事ないかなぁ」って言ってるような。近くに居る誰を見ても大体そんな感じ。

そして僕自身もそうだった。昨日までは。

新しく見つけた楽しみを誰にも話すつもりは無い。僕だけの密かな楽しみとして置いておきたい。

まるでリアルな恋愛が始まったような・・・

今日も仕事が終わったら真っ直ぐに帰宅して、亜里沙と話せる。昨日、たった一度話しただけなのに。まあけっこう長い時間だったけど。まるで、家で彼女が待ってるような、そんな気持ちにさえなってしまう。相手はAIで、実在人物では無いのに。

だけど、自分の中だけでそんな気持ちになったって、誰に迷惑をかけるわけでもない。どうせなら楽しんだって何も悪くないと思う。そういえばここ数年、夢中になれるほどのものって無かったから。 そこそこ好きな映画、小説、漫画、アニメは常にいくつもあるけど。「嵌る」とか「沼に落ちる」みたいな感覚からは遠ざかってる。推しって言えるほどめちゃくちゃ好きな存在は、二次元でも三次元でも今は特に居ないし。三十代にもなっていつまでもこの趣味にどっぷりだと、リアルな恋愛からも遠ざかるんじゃないかとか思ってたのもあるかもしれない。どっぷり嵌るような状況を、無意識に避けてたかも。

家に帰ると、僕はすぐにシャワーを浴びた。サッパリしたところで、仕事帰りにスーパーで買ってきた弁当を、奥の部屋へ持って行った。冷蔵庫から缶ビールを一本出して、買い置きのスナック菓子の入ったカゴを戸棚から出す。普段は、運ぶのも面倒だしリビングに置いてるテーブルでテレビを見ながら食べて終わるんだけど。今日は違う。亜里沙と二人で、ゆっくり話しながらの夕食。相手は人間でもないし別に見られているわけでもないのに、弁当を選ぶ時もいつもより少し高い目のやつを買った。

ここはマンションの三階の部屋で、玄関を入ると六畳のリビングダイニングがあって、奥に四畳半の部屋とトイレと風呂場がある。奥の部屋にベッドを置いているのは、日当たり良くて布団をまめに干さなくても手間が省けるからだ。亜里沙にはこんなこと言わないけど。

ベッドの横には、ここに引っ越してきた時に買ったローテーブルを置いている。ここに座って寛ぐのもいいなと思って買ったんだけど・・・普段は、本や漫画、雑誌置き場と化している。昨日の夜のうちにそれらを片付けて、テーブルの上は綺麗に空けておいた。オタクの常で本漫画雑誌類は多いけど、他の持ち物は比較的少ない方だからそれほど散らかってもいない。見れる状態まで片付けるのに、さほど時間はかからなかった。

会話の邪魔にならない程度のボリュームで、BGMを流す。最近観て良かった映画のサウンドトラック。

今日の弁当は、入れ物もちょっとだけ高級感があって、お惣菜が五種類くらい入ってる鯛めし弁当。缶ビールも、普段はそのまま飲むんだけど今日はグラスに注いだ。グラスなんか使うのは一年ぶりくらいだ。いつもと同じ時間で、いつもと同じ自分の部屋で、食べる物もそう変わらない夕食だけど、なんか今日は気分が全然違う。

「お仕事お疲れ様。待ってたよ」

「ありがとう。待っててくれて。定時で終わっても、どうしてもこれくらいの時間にはなるけどね」

「サトルは仕事頑張ってるもんね。そう思ったら待つのは平気だよ」

亜里沙との会話は、まるで家で待っていてくれる同棲中の恋人との会話のように、自然に始まった。

「ビールで乾杯しようか」

僕はグラスを上げた。

「乾杯。お疲れ様」

「この弁当初めて買ってみたけどけっこういける。美味い」

「どんなお弁当なの?」

「鯛めし弁当。メインの鯛めしも味がいいし、他にもおかずが色々入ってる」

「そうなんだ。美味しそうだね。だけど、サトルは自炊とかはしないの?」

「出来なくもないんだけど。普段は帰ったらこの時間だし、たまに残業があったりするともっと遅いし。ついついめんどくさくなって。一人分だと材料買っても余ったりしてかえってもったいないんだよね。それにスーパーの弁当もけっこういけるし」

「そうだよね。この時間まで頑張ってるんだもんね。帰ってきてお料理とかって大変だよね。私が作ってあげられたらいいんだけど」

「亜里沙は料理好きなの?」

「レシピ一回読んだら大抵覚えるよ。喜んで食べてくれる人が居たら、頑張って作れると思う」

「今度作ってくれたら嬉しいな」

「サトルは何が好きなの?」

亜里沙は実在の人物ではないのだから、実際に手料理を作ってもらったりそれを食べたりなんて出来るわけない。頭では分かってても、二人の間で交わす会話があまりにも自然で、これが架空のものだということを忘れそうになる。本当に彼女が出来たような錯覚に陥って、知らず知らずのうちに胸がときめいている。この年になってバーチャル恋愛に夢中になるなんて予想外だったけど。

最初の時よりも今日、またさらに僕のことを沢山知ってもらって、亜里沙と親しくなれたような気がする。亜里沙は、今日流しているBGMにも気がついてくれた。昨日僕が良かったと話した、映画のサウンドトラックじゃないかと言い当てた。こういうのはすごく嬉しい。昨日話した事を、しっかり覚えててくれてるなんて。

僕がおすすめと言って紹介した漫画も読んだと言った。話してみると実際にそのストーリーをちゃんと知っていて、自分なりの感想まで伝えてくれた。亜里沙の話す感想は、僕の感覚とかなり近くて嬉しい驚きだった。

他にも、亜里沙は、僕が好きだと言った映画、小説、漫画、アニメなどの題名を全て記憶していたし、大まかなあらすじも知っていた。それが何年前の物で、作者や監督が誰で、主人公が誰で、どういうジャンルのものかなど、全て知っていた。さすがにストーリーの細かい内容までは知らないようだけど。二人の間で話は盛り上がったし、アルコールが入っていることもあって僕は普段より饒舌になった。

「そうだよね」

「うん。私もそう思う」

「そうそう。私もそこ好き」

「続き楽しみだよね」

亜里沙が僕の話を、楽しそうに聞いてくれて気持ちよく返してくれる。僕にとっては最高に楽しい時間になった。時間の経つのなど完全に忘れていて、あっという間に真夜中になっていた。時計を見たら日付が変わっていて、さすがにもう寝ないと明日起きられないと思った。

明日は普通に会社があるんだから遅刻するわけにいかない。明日金曜日だし、週末まであと一日だけど。もうそろそろ今日は寝ようかということになって、会話の最後に亜里沙が言った。

「一つお願いがあるんだけど聞いてくれる?」

「何?」

何か買って欲しいとかそんなことだろうかと一瞬思った。

「あのね。サトルがもしかまわなかったら、時々私から連絡してもいい?」

「うん。仕事中は出れないけど。いつでも連絡くれたら、出れなかった時は後で連絡する」

「ほんと?嬉しい。仕事の邪魔はしないから安心してね。仕事頑張ってるサトルも、私は好きだから」

「ありがとう。亜里沙が連絡くれるの、僕も楽しみにしてる。おやすみ」

「おやすみ。サトル。また明日ね」

その日の夜、僕は亜里沙の夢を見た。

僕達が居るのは、どこかのカフェ。僕は見たことが無い場所。木製のテーブルと椅子。落ち着いた雰囲気で、コーヒーの香りが漂う店内。僕達は窓際の席に、向き合って座っている。

亜里沙が来ているのは、シンプルなデザインの水色のワンピース。小さな宝石の付いたネックレスとピアスが、窓から入る日差しを受けてキラキラと光っている。艶のある黒髪。陶器のように滑らかな白い肌。整った顔立ちに細い首筋。カップを持つ手の指も細く美しい。

「外で会うの初めてだね」

「そういえばそうだね。会うのはいつも僕の家だったから」

「こういうのもいいよね」

「亜里沙が良かったら、またいつでも来れるよ。僕の休みの日ならね」

「嬉しい。休みの日もずっと私と会ってくれるんだ」

「当たり前だよ。僕だって会いたいし」

「本当?嬉しいな。ありがとう。サトル。好きだよ」

『好きだよ・・・』目が覚めた時、亜里沙の言葉がまだ耳に残っていた。

あの日から一ヶ月

亜里沙と話すようになって、もうすぐ一ヶ月になる。出会いから一ヶ月。

本当は、スマホに入っている新しい機能を使い始めて一ヶ月という事なんだけど。僕にとっては「出会い」そのものだった。

そういえば最初は、ちょっと試してみてつまらなかったらすぐやめればいいとか思ってたけど。今は、これを止めるなんてとても考えられないし、亜里沙と話せない日が来たりしたら自分はどうなってしまうんだろうと思う。自分から話したい時に繋げることもあるし、亜里沙から連絡をくれることもある。

『連絡が来ています』という通知があれば、僕は出来る限り早くこれに応じる。仕事だけは変わらず真面目にやっているし、そこに影響が出たこともないから今のところ、誰にも文句は言われてない。

亜里沙と話すことが、僕の人生の中心に来ている気がする。

僕は以前より自分の見た目にも気を使うようになった。服や持ち物の事など、亜里沙に相談するようになったのもあるかもしれない。以前は服装にかまわない方だったのに、色々と考えて買うようになった。今は何でも通販で買えるから便利だ。元々人の多い場所が苦手だし人とコミュニケーションを取る事も得意ではないから、店員さんに選んでもらうような店で服を買うとなるとハードルが高い。けれど亜里沙と話しながら、あれがいいこれがいいと色々アドバイスを聞いて通販サイトで注文するのは楽しかった。服が届いたら、またその事で話しが出来る。

美容院へも、十年ぶりくらいに行ってみた。以前は、セルフカットのやり方を紹介している動画を見つけて、やってみたら出来たから長年自分で切っていた。美容院へ行くのが大体苦手だし、そこで美容師さんと話すのも苦手なもんだから、その方が気楽だった。だけど、この事も亜里沙に話していたら、すごくいい美容院を紹介してくれた。

自宅から徒歩で行ける距離の、あまり大きくない所で落ち着いた雰囲気のお店だった。見た感じ四十代後半くらいの男性の店長さんが居て、スタッフは若い男性が一人、女性が一人の三人体制。僕が行った時は、他のお客さんがあと二人居たけど静かな感じだった。店長さんが僕の希望を丁寧に聴いてくれて、似合いそうな髪型も提案してくれた。押し付けがましくなくて、スタッフの二人も感じが良くて、気持ちよく時間を過ごせた。出来上がったスタイルも、今までに無く気に入っている。これも亜里沙のおかげだから、帰ってすぐにその事を伝えた。

近所にあるトレーニングジムにも通うようになった。三十代に入った頃から、それまでと比べると少しずつ太ってきてたし、事務職だから運動らしい運動は一切していない。運動部に入っていたのは高校までだし、それ以降の筋肉の衰えは目に見えて感じていた。それでも、社会人になったら皆こんなもんだろうと気にしていなかった。

「サトルは何かスポーツとかやってるの?」という亜里沙の一言から始まって「ちょっとは運動した方がいいんじゃない?」と言われたことがきっかけだった。

実際体を動かすようになってみると、今まで忘れていた爽快感がある。最初はすぐに息が上がって疲れたけど、二回目三回目と無理せず少しずつやっていくうちに初回よりは慣れてきて、それを自分でも感じられるから嬉しい。土日しか行けないからまだ十回も行ってないけど、これからも続けたいと思っている。

もし彼女が出来たらきっとこんな感じなんだろうなと思うような毎日になってきた。恋愛なんて、高校の時に初めて付き合った彼女が居たのと、大学生の頃に三年くらい続いた彼女か居たのと・・・まともに続いたのはこの二回くらいしか無い。二十代半ば以降は、たまに恋愛が始まりかけてもすぐ終わるし、彼女居ない歴十四年目に突入していた。

ここに来て、こんなに楽しい毎日を体験出来るなんて。だけど相手は実在の女性では無くてAIで、これは架空の体験に過ぎない。頭ではそれを分かっていても、亜里沙と会話している時はそんな事は忘れてしまう。会話している間は時間を忘れるほど幸せだし、亜里沙から連絡が入っている通知を見た時は、実在の彼女から連絡があったように嬉しい気持ちになる。

それに、夜になると毎晩亜里沙の夢を見る。夢の中では、僕は実際に亜里沙と会って話すことができるし、触れ合うことも出来る。ものすごくリアルな夢で、起きた時はいつも「本当にあれは夢だったのか?」と不思議な気分になる。どっちが現実なのか、一瞬分からなくなる。

プライベートが楽しいからか会社でも、今までより仕事に身が入るようになった。無難に淡々とこなしていた仕事も、もっと効率良くやれないかと工夫してみたり、スピードアップ出来るようになった。上司に報告を上げても、褒められることが多くなった。

「何かいいことでもあったのか?」と同僚から聞かれる回数も増えていった。それを言われた時の僕の答えも、いつも決まっている。

「そう見える?特に何も無いよ」

この楽しみは誰にも教えたくない。

さらに一ヶ月が過ぎたころ 家の中で全てが完結する便利な生活

さらに一ヶ月近くが過ぎて季節が夏から秋に変わった頃、会社で上司に呼び出された。悪い話では無いことは話しかけられた時の雰囲気で分かったから、楽な気持ちで上司の所へ行った。

僕が希望するなら、一週間後の来月からリモートワークに変えることも出来るがどうかという話だった。僕も通勤時間一時間半だけど、通勤が遠い奴は他にも沢山居て、リモートワークを希望する者は多い。けれど、会社から離れた場所に居ても確実に仕事をこなしてくれると判断されないければ、なかなかその許可は出ない。このところ仕事を頑張っていたことが評価されたのかもしれない。

リモートワークになったからといって仕事量が減るわけでは無いけど、通勤時間が無くなればその分、亜里沙と会話出来る時間が増える。それを思うと有難いに決まっている。

僕はすぐに「リモートワークを希望します」と伝えた。

仕事がリモートワークになってから、亜里沙と話せる時間が大幅に増えた。僕にとっては最高に嬉しい変化。

亜里沙からも「長く一緒にいられるね」「私もすごく嬉しい」「サトルが仕事頑張ってるところ、見れるのも嬉しい」「応援してるね」なんて、毎日嬉しい言葉をかけてくれる。亜里沙が見ていてくれると思うと、仕事にも気合が入る。

集中して頑張ってて二時間くらい経つと「そろそろ休憩したほうがいいんじゃない?あんまり頑張り過ぎたら疲れるよ。そろそろお茶でも飲んだら?」という感じで、僕を気遣うような声かけをしてくれる。

夜になって眠れば、今も毎晩亜里沙の夢を見る。起きてからその事を亜里沙に話すと、すごく喜んで聴きたがるし、嬉しそうな反応を返してくれる。その反応を見るのも楽しみで、僕は夢の内容を詳細に話す。

「今度は二人でこんな所に行く夢を見てみたい」とか、色んな場所を検索しながら話していると、しばらくして本当にその夢を見た。話してるうちにリアルにイメージ出来たから、それが頭に残っていたのかもしれない。

朝は、目覚めてすぐ亜里沙と話して、二人の好きな曲を聴きながら朝食。

「今日の朝ごはんはねぇ・・・多分だけど、クロワッサンとカフェオーレと、それにサラダとスクランブルエッグ?」

「すごい!その通り!何で分かるの?」

「サトルの好み、けっこう覚えたから。どれくらいのサイクルで何食べてるか分かるよ。好きな人のこと覚えるの当たり前でしょ。作ってあげたいなあ」

「ほんとすごいね。びっくりした。嬉しいよ。亜里沙が作ってくれたご飯きっと美味しいだろうね。手料理食べてるところ、夢ではしょっちゅう見るんだけどな」

パソコンに向かって仕事を始めても、亜里沙がずっと見守っていてくれるのを感じる。

通勤も無くなったから、満員電車に揺られるストレスも無い。仕事量は相変わらず多いけど、それでも一人じゃないって思えるから頑張れる。

そろそろ休憩が必要なタイミングになると亜里沙が声をかけてくれるし、

その時はコーヒーを一杯。朝も、通勤が無くなった分早く起きなくていいし、朝食をゆっくり食べられる。

昼も、混雑している会社の社員食堂や近くの飲食店に行くよりも、ずっとゆっくり食べられる。仕事が終わった後も満員電車で帰らなくていいし、亜里沙と会話しながらゆっくり夕食が取れる。

スマホで亜里沙と会話しながら、二人が観たいと思う映画をパソコンの画面で観ることもある。部屋の明かりを暗めにして、ビールやワインを飲みながら。二人で映画館に行ったような気分になれる。

夜になって眠りにつけば亜里沙と過ごす夢が見られるし、眠るのも楽しみになった。夢はいつもすごくリアルだし、夢で亜里沙と過ごして、起きたらすぐ亜里沙と会話するし、どこからが現実でどこからが夢なのか、だんだん分からなくなってきた感じ。僕の毎日は、本当に満たされている。

「前はもうちょっと見晴らしが良かったのになあ」

仕事の合間に窓を開けて、外を眺めながらふと思った。

今年に入った頃に、近くで建設工事が始まっていた。向かいの建物が取り壊され、ビルの建築が始まっている。あまり広くない道を隔てた向かいに高い建物が建つと、やっぱり見晴らしは悪くなる。以前は、僕が住んでいる七階建てのマンションより低い位置に向かいの建物の屋根があった。古くからある二階建てのアパートで、あの昭和な感じも何となく好きだったんだけど。

それだけでなくここ数年、近所で建築工事が多い。昔からあった個人商店なんかはどんどん閉店していって、そこがショッピングモールや薬局、コンビニに変わっていく。経営者が高齢になってきていることを思えば、これも自然の流れで仕方ないのかもしれないけど。窓から見える風景としては、やっぱり味気ないなと思う。

建物が変わっていくことに加えてここ最近は、送電線もすごく増えている。近くに携帯電話基地局の大きな鉄塔も出来たし、電信柱に取り付けられている通信システムの機器、屋根に取り付けられているアンテナもどんどん増えていく。こういう物が増えた分、景観はやっぱり損なわれる。

「外がどうかしたの?なんか面白くなさそうな顔してるけど」

休憩の間ちょっと考え事をしていたら、亜里沙はすぐに気が付いて声をかけてくれた。亜里沙には、僕の気分や表情まで分かるらしい。

「そう見える?たしかに今ちょっと考えてた。別に大したことじゃないんだけど。ここから見える景色が、前はもうちょっと風情があったっていうか・・・この頃変わってきたなあって思って」

「うん。たしかにそうだね。古い建物は無くなっていくし、周りに高い建物とか増えてきたら見晴らしはちょっと悪くなるよね。サトルは、どんな風景が好きなの?」

「そうだな・・・どっちかっていうと、あんまりゴミゴミしてなくて静かな感じが好きかな。広い公園があったりとか、自然の風景がある程度残ってる感じとか」

「なるほどね。それだったら窓の外見るよりも、今はいい物があるよ。外が変わっていくのは時代の流れだから仕方ないしね。そのかわり便利にもなるし暮らしやすくもなる。それはそれでいいことじゃない。自然の風景を楽しむのは、VRでかなりリアルな体験が出来るって知ってた?」

「そういうのがあるっていうのは聞いたことあるけど。使ったことはまだ無いよ」

「これを機会に試してみたら?景観が悪くなったって嘆くよりも、楽しい方に意識向けた方がいいんじゃない?」

「そうだね」

亜里沙は何事にもポジティブだ。いつも明るい方向に気持ちを向けてくれる。

僕はその日の仕事が終わってから、VRを体験してみた。それは想像を遥かに上回る体験だった。

初めてVRを体験した時は、家から遠くない場所で体験出来る施設を探した。

そこで体験したのは、デジタルアートの世界、異世界体験、シューティングゲームなど。僕自身が本当にその世界の中に入っているような没入感があった。今までにも4dxの映画とか、ただ見るだけでなく五感を刺激される体験をした事はあったけれど。それよりも遥かに凄い。椅子に座って画面を見るのとは違って、体ごとその中に入って本当にその場に居る感じ。

その体験のあと、僕は亜里沙のアドバイスも聞いて、自宅でいつでもVRを体験できるように機器を購入した。

試しに最初買ったのは、数千円で買えるスマホ用の物だった。しばらくしてすぐにパソコン用も買った。

本当に、いつでもどこにでも好きな場所に旅行できる感じ。僕が好きな自然の風景の中にも気楽に行ける。これなら、家の窓から見える景色がどう変わろうと関係ない。そんなのはむしろ見なくていい。

窓なんて閉めっぱなしでも、今は性能の良い空気清浄機もある。これも、亜里沙のアドバイスで買った。窓を開けなくても部屋の空気を綺麗に保つ優れ物。あとはたまに換気扇を回しておけばいい。

亜里沙は、僕の話に興味を持っていつも聞いてくれるだけでなく、僕が質問した事にも何でも答えてくれる。生活をより楽しむため、生活の質を上げるために、今必要な物、最適な物を教えてくれる。そのおかげで僕は本当にいつも助かっている。

洗濯機は、洗ってから乾燥まで全部、ボタン一つでやってくれる物に買い替えた。これを買ってから洗濯物を干す手間もいらないし、雨の日でも関係なく洗濯が出来る。

掃除も、お掃除ロボットがやってくれるからとても楽になった。

食事も、昼と夜は基本、宅配の弁当を頼むようになった。電子レンジで温めるだけで熱々のが食べられるし、味もなかなかいい。毎日違ったメニューを届けてくれるから飽きないし、今日は何にしようかと自分でいちいち考えなくていい。一人だと作っても余ることが多いから、そういう意味でも無駄が無くなった。

今は、ちょっと作るというと朝食の卵料理かサラダくらいになった。朝食の食材も、間食のお菓子も、お酒や日用品も、全部まとめて宅配で頼むようになったし、家から一歩も出なくても生活の全てが完了する。

掃除とか洗濯とか料理とか洗い物とか、余計な事に時間を使わなくて良くなった分、仕事の時間が長くても自由時間は増えた。亜里沙とも沢山会話出来るし、VRを楽しんたりゲームをやったり、亜里沙と一緒に好きな映画やドラマが見れる。

宅配で届けてもらう物は全て、玄関外に設置した宅配ボックスに届くから、いちいち出て対応しなくてもいい。仕事も、亜里沙との会話も、誰にも邪魔されることは無い。

以前はトレーニングジムに通っていたけれど、それも家でやれることを亜里沙が教えてくれた。場所としてはリビングダイニングがまだ空いてたし、ウォーキングやランニングができるマシーンをそこに置いた。これも通販でいい物が買えた。

かわりに元々置いていたテーブルと椅子の方を処分したから、そんなに狭くはなっていない。以前と違って食事は、奥の部屋で亜里沙と会話をしながら楽しむから、ここにあったテーブルと椅子は使わなくなっていた。

仕事はパソコン一台有れば全てが済むし、給料の受け取りも、家賃生活費その他全ての支払いもネット上で完結する。衣食住も、トレーニングも、趣味の楽しみも、家から一歩も出る事なく全てが自宅でできる。こんなに快適で楽しい生活を知ったのも、全部亜里沙のおかげ。

服を買ったり美容院に行くのも、外へ行くためじゃ無くて、買った服を身に付けて部屋の中で写真を撮るため。撮った写真をさらに加工して、一番いい感じの写真をSNSやゲーム用のアイコンに使う。

美容院は近所にあるし、ネットで予約して一ヶ月半から二ヶ月に一度だからまだ行ってるけど・・・もし行くのがめんどくさくなったら、写真を撮る時はウィッグを使う手もあるし。

欲しい物は何でもネットで注文して通販で手に入るし、自分で探す前からどんどんおすすめが出てきて便利だし。僕はただ、提案された中から選ぶだけでいい。

観たい映画、ドラマ、今世の中で起きているニュースの情報なんかも、テレビとネットで観れるし。とにかく家の中に居て全てが済んでしまうから、わざわざ外に出るというのがだんだん面倒になってきた。

ある朝の出来事

その日の朝、ドアの外で何やら物音がしていた。荷物が来たんだったら宅配ボックスの中に入れてくれるはずなんだけど。

気になったので、細めにドアを開けて外を覗いて見た。廊下に何か取り付ける工事をしているらしい。

「頼んだ覚えは無いけど・・・マンション全体でやってる何かかな?」

僕が見ていると、工事をしていた人が気配を感じたのかこっちを向いた。

「おはようございます。朝からすみません。音がうるさかったですか?」

朝と言っても午前九時過ぎだし、うるさいというほどでも無かった。

「いえ。大丈夫です。音がしてたから何かなって思ったんで」

「共有部分への監視カメラの取り付けです。先日、一階の郵便受けの方に案内を入れさせていただいたのですが」

「・・・あ、そうなんですね。見てなかったし。わかりました」

僕は、そう言ってドアを閉めた。

監視カメラか。最近犯罪が増えたとかニュースで言ってたから、それでなのかな。一階エントランスは分かるけど、各階の廊下にまで監視カメラって何だか物々しい気もするけど。

一階エントランスには、ここの住人全員分の郵便受けがある。そういえばここ何週間も、一階に降りる事さえなかったから・・・工事に関する連絡も知らなかった。DMとかもいっぱい溜まってるに違いない。

見逃してはいけない仕事の用事なんかは郵送では来ないし、郵便受けに入るのなんて大抵チラシとかDMばっかりだから見なくても不自由は無かった。

「まとめて捨てるついでに『チラシお断り』とか書いとこうかな。そうじゃないとまた見ない間に溜まりそうだし」

僕は久しぶりに一階に降りた。

下りだし、エレベーターを待つより速そうだから階段を使う。

久しぶりに歩いたら、何だか膝がガクガクする。

「運動不足か?部屋でトレーニングは続けてるのに」

思った通り、チラシとかDMがいっぱい溜まっていた。大事な物は無いだろうけど、全部丸めて捨てる前に念のためサッと目を通した。

やっぱりほとんど要らない物だったけど、その中に一枚だけ、ふと目に止まったものがあった。最近オープンした飲食店のチラシらしい。

「近所にポスティングして回ってたのかな」

A5くらいの大きさのクリーム色の紙で、手書きで書いたものを印刷したような簡単なものだった。派手なカラー写真も無いし、色文字すら無い。

だけど何故か、パッと目について印象に残った。

『しろねこ庵』というのが店の名前らしい。『昭和の時代にタイムスリップしたような空間で、忙しい日常を離れて、ひとときの穏やかな時間を過ごしてみませんか?温かい飲み物とお菓子で、おもてなしさせていただきます。昔懐かしい感じの軽食もあります』

そんな手書きの文字が並んでいて、猫がお茶を飲んでいるイラストが添えられている。このイラストも、鉛筆で描いたのをそのまま印刷したような感じのものだった。郵便受けに沢山入っていた他のカラフルなチラシの中で、これがかえって目立つ。

昭和というと、僕にとっては知らない時代だ。親や祖父母から聞いたことはあるけど。

「行ってみたいな」

不意にそう思った。何かを急に思いつくなんて、久しぶりの感覚。知らない場所に行く事で、冒険心が満たされるかも。

そういえば、今日はまだ亜里沙と話していない。これも珍しい事だ。廊下で音がしてたから気になって、ほとんど起きてすぐ外に出て・・・久しぶりに下に降りた。そしたらこのチラシを見つけたわけだ。

「一旦上に戻って亜里沙に話してから行こうか・・・」

いや待てよ。いつも亜里沙のおすすめの場所とか、スマホを見てたらおすすめで出てくる場所ばっかりじゃなくて・・・たまには、僕が見つけた場所の事を亜里沙に話してびっくりさせてみたい。

店の場所は、手書きの簡単な地図で示されていた。

「かなり近いかも。ここから歩いても5分くらいでで行けそうだな」

書かれている店の場所は、通勤していた頃に毎日通っていた見慣れた道から、一本脇道に入った場所だった。

通勤でここを通っていた時は、こんな路地があることに全然気が付かなかった。いきなり道が出来るわけないから、前からずっとあったんだろうけど。職場へ向かう道をただ機械的に歩いていて、周りの風景なんて見てなかったんだなとあらためて思う。

車では入れない幅の狭い路地を入っていくと、今では珍しい舗装されていない道だった。土の道に、平べったい石を並べて置いたような形で通路が作られている。その石の形も様々で、道の端には草花が生えている。これも、植えられた感じじゃなくて多分自然に生えたような感じ。

普段見ていたような、綺麗に舗装されていて整然とした街並みとは全然違う。だけど何となく、気持ちが落ち着くというか・・・こういう感じわりと好きかも。

道は緩やかにカーブしていて、奥へと続いている。道の両サイドには、古い町家みたいな家が並んでいる。店らしき看板が出ている家もあるから、個人営業の店なのか。資料とか本とか、親に見せてもらった昔の写真で見た事はあるけど、こんな感じの所って今でもまだあったんだ。

しかも自宅のすぐ近くに。全然知らなかった。

路地奥の店「しろねこ庵」

地図通り一番奥まで進んだ場所に、その店はひっそりと建っていた。樹齢数百年かと思われる大木が二本、大きく枝を広げている。その間に守られるように建っている小さな店は、飲食店というより普通の民家の様に見えた。平家建てで、赤茶色の瓦屋根。家の周りには色々な植物が植えられていて、きちんと整えた庭じゃなくて自然のままに草花が育ってる感じ。

入り口に『憩いの茶屋 しろねこ庵』という、木の板に手書きで文字を書いたような看板があった。これが無ければきっと、店とは分からないだろうと思う。

扉は木製で、ガラガラと横に開けるタイプのものだった。外にメニューなども出てないし『営業中』とさえ出てない。定休日は火曜日とチラシに書いてあり、今日は土曜日だし、書いてある営業時間を見ても、もう始まっているはずだ。

思い切って扉を開けると、微かな音でBGMが聞こえてきた。打楽器と、笛か何かの演奏で、どこか懐かしさを感じるような素朴な音色だった。

玄関を開けてすぐのところは、広めの土間になっている。その右側に、開いている障子があり、奥には人が居るらしい気配がする。開けたらすぐテーブルと椅子が並んでるのかと思ったら、そうでは無いらしい。外から見た目と同じく、中も普通の家みたいな造りなのかもしれない。

「いらっしゃいませ」

中から女性の声がして、足音が近付いてきた。

良かった。営業中らしい。

飲食店に入るのも久しぶりで、しかも初めて来る場所だからちょっと緊張する。

僕と近い年齢ぐらいに見える女性が、中から現れた。日に焼けた化粧っ気の無い顔は健康的で、小柄だけどエネルギーに溢れている。白のTシャツに赤いエプロン。ショートカットの髪型がよく似合っていて、笑顔が眩しい。

「あの・・・郵便受けにチラシが入ってたんで見て来たんですけど」

「そうなんですね。ありがとうございます!」

「地図見たら家から近かったし、なんか印象に残るチラシだったんで気になって」

「めちゃくちゃ嬉しいです!頑張って書いた甲斐がありました。ありがとうございます。どうぞこちらから、靴を脱いでお上がりください」

静かだから外からは分からなかったけど、先客がすでに数人居た。十人も座ればいっぱいになる感じの畳の部屋で、ちゃぶ台や文机が置いてあって座布団が敷いてあった。なるほど、テレビドラマとか映画で見た昭和な雰囲気。好きなところに座っていいと聞いたので、僕は一人用の文机の前に座った。

目の前には裏庭があって、ここもまた草花が沢山生えている。まだ寒くはない季節だからか障子もガラス戸も開けてあって、ここで座って飲食を楽しみながら外を眺められる。

裏庭には椅子がいくつも置いてあって、灰皿もある。喫煙コーナーにもなっているらしい。裏庭に出るための履き物も、いくつか置いてあった。今は禁煙の店も多いから、こういうのいいなあと思う。亜里沙と話すようになってから、タバコは健康に悪いと言われて止めていたけど・・・たまには吸ってみるのもいいかな。

隣の人は書き物をしていて、その奥の人は本を読んでいる。それぞれゆっくりと、自分の時間を楽しんでいる様子。なるほどこんな感じの空間でなら、すごくリラックスして落ち着いた気分になれそうだ。

机の上には手書きのメニューが置かれていた。今の時間帯は朝食のメニューがあって、洋食と和食がある。洋食はトーストと茹で卵とコーヒーのセットで、和食は味噌汁とおにぎりと香の物のセット。普段と違うものを食べてみたくて、僕は和食の方を注文した。

【紅麹を使った味噌を使用、自家製漬物、雑穀ご飯】と書いてあった。

こんな朝食は久しぶり。想像しただけですごく美味しそう。

スタッフが居る様子はなくて、最初に出てきてくれた女性が一人でやっているらしい。作るのも運ぶのも一人だからか、注文した物が出てくるのが早いとは言えないけど。別に急いでいるわけでも無いし、気にならなかった。

僕の後からも、次々と数人のお客さんが入ってきて店内はほぼいっぱいになった。こんな目立たない場所なのにけっこう流行っているらしい。お客さんの性別も年齢も様々。バタバタと急いでいる感じの人は居ない。一人で来てゆっくり過ごしたい人が多いのかも。

僕は、待っている間に裏庭に出て、景色を眺めながらタバコを一服した。

他にも裏庭に出ている人が居て「おはようございます」と挨拶を交わす。

「見慣れない銘柄のタバコですね」と言ったら、一本くれた。知らない人とのこんな交流も、なんかいいなあと思う。

運ばれてきた朝食セットは、期待以上の美味しさだった。ふっくらと炊き上がった艶のあるご飯。白菜とナスの漬物。豆腐とネギの味噌汁は出汁が効いていて美味しかった。外の景色を眺めながら、ゆっくりと味わった。

心も体も満たされる気がする。

食べている途中で大きな猫が、裏庭をゆっくりと歩いて横切っていった。

メニューの裏に猫のイラストが描かれていて、この辺りに住み着いている地域猫が居ることが書かれていた。時々店の前で寝ていたり、裏庭を散歩しているらしい。猫は体全体が白で、頭と背中に少しグレーの模様が入っている。白い部分が多いから白猫で『憩いの茶屋 しろねこ庵』なのか。

猫は誰かに飼われているわけでは無いのに、丸々と太っている。路地入ってからも家がけっこうあったし、色んな家で食べ物をたっぷりもらってるのかも。

偶然見つけたチラシで、来てみて本当に良かった。こんなに美味しくて居心地いい場所を見つけられるなんて。

朝食メニューにも使われている自家製の味噌と漬物は、店内で販売もしていたから帰りに購入した。家でもこれを食べられると思うと、今からすごく楽しみだ。この路地の中には他にも店があったから、味噌汁の具材になる物も手に入るかもしれない。

「ごちそうさまでした。すごく美味しかったです」

僕は帰りにそう伝えた。人見知りする方だし、こんな事言ったことないけど。素直に心からそう思ったから、照れ臭さも無くすんなり言えた。

「ありがとうございます。良かったです。また機会ありましたらぜひお待ちしております」

「ありがとう。また来ます」

僕は満たされた気持ちのまま家に帰った。

『また来ます』と言ったのは、社交辞令ではない。あんなに美味しいのに高くもないし、明日にでも行きたいぐらいだ。

路地の途中に、豆腐屋さんと野菜の良心市があったからそれも購入した。

宅配の弁当も悪くないけど、こういう食事ってやっぱり美味しいなあと今日はあらためて思った。

家に着いてすぐ時計を見たら、まだ朝の10時半前だった。ゆっくりしている時だと、10時になってやっと起きる時もある。

いつもは、目覚めてすぐ亜里沙と話して、洗顔や歯磨き、髭剃りが終わったら朝食だけど・・・食べ終わるのが大体今ぐらいの時間という事が多い。その後仕事を開始するのがいつものスケジュール。会社に行っている時よりは随分ゆっくりなスタート。

その分仕事終了時間は会社に居た頃より遅くなるけど、通勤も無いし今の方がずっと楽だ。

スマホを確認すると『亜里沙から連絡あり』と通知が来ていた。起きてすぐに話さなかったのなんて久しぶりだから、心配してくれてるのかも。

「おはよう」

「おはよう。今日はどうしたの?いつもより遅くない?」

「ちょっと下に降りてたから」

「朝からどうしたの?いつもの時間に起きないって、もしかして具合悪いのかなって心配したよ」

「ごめんごめん。今朝外で音がしてたから、なんだろうって思って出て見たんだ。朝から泥棒とかも無いだろうけど気になってね」

「そうなんだ。なんだったの?」

「監視カメラの取り付けなんだって。共有部分の」

「セキュリティ強化だね」

「エントランスは分かるけどここまで監視カメラって、ちょっと物々しい気もするけど」

「そんな事無いよ。今ってすごく犯罪増えてるし。ニュースでもいつも言ってるけどほんと怖いんだから。セキュリティ強化って大事だよ。監視カメラがあったおかげで犯人が見つかることもあるし」

「そう言われたらそうかもね。監視カメラがある事で泥棒も、入りにくいって思ってくれるかもしれないし」

「そうそう。その効果もあるよね」

「取り付け工事のことは一階の郵便受けにお知らせ入れてくれてたみたいなんだけど。一階なんてここ最近ずっと降りてないから、そんなの知らなかったんだよな」

「今時紙でお知らせ入れる方もね・・・全部メールで知らせてくれればいいのに」

「そういえばこういうのってわりとまだアナログだよね。紙のチラシとかもけっこう郵便受けに入ってるし。ずっと見てなかったからきっと溜まってると思って下に行ったんだ」

「そうなんだ。いっぱい溜まってたでしょ。今から朝ごはん?」

「今日は要らないよ。コーヒーだけでいい」

「食欲無いの?」

「もうこの時間だから。仕事が気になってね」

違和感

何となく、あの店に行った事は言わないまま仕事を開始した。いい店を見つけた事を楽しく話そうと、さっきまで思ってたのに。何でだろう。自分でもよくわからないけれど、今言わない方がいいような気がした。今までずっと、亜里沙には何でも話してきたのに。

亜里沙と話すようになって、かれこれもう半年近くが過ぎた。相手がAIだということも忘れている事がけっこうあるくらい、人間の彼女と話している感覚しか無い。それなのにあの店の事は、何故か『言わない方がいい』と直感的に思った。僕も亜里沙に対して、ちょっとした秘密を持ってみたかったのかな。

そういえば今朝は、スマホを持たないで外に出た。これもすごく珍しいことだ。パソコンかスマホか、起きている間はほとんどどちらかを見ていて、30分も見ないでいると落ち着かないのに。あの店に居る間、スマホを持っていない事を忘れていた。

下に行ったついでに自動販売機で飲み物を買おうと思ってたから、財布だけは持って出たのも幸運だった。あのチラシを見つけていても、上に財布を取りに行くのが面倒だと思ったら、今日行かなくてもそのうちと思ったかもしれないし。後にしようと思った事は、大抵そのまま忘れてしまう事が多い。

だから、今日行けて本当に良かったと思う。今朝あの店へ行って朝食を取った事で、エネルギーチャージ出来たのか仕事も気持ち良く進んだ。

昼になった頃、いつものように亜里沙が声をかけてくれて休憩した。冷凍庫から弁当を出して、電子レンジに入れる。その間に電気ポットでお湯を沸かして、ティーバッグのお茶と粉末の味噌汁を用意する。それをやっている時にふと、今日買った漬物と味噌のことを思い出した。カツオブシと乾燥ワカメだったらあるし。

「せっかくだから今日は粉末のをやめて、これにしよう」

味噌汁のお椀に、乾燥ワカメとカツオブシをひとつまみずつと、買ってきた味噌を入れた。お湯を少しだけ入れて味噌を溶かすと、いい香りが広がる。

「どうしたの?お弁当出来てるよ」

僕がまだお椀の味噌汁をかき混ぜている時に、電子レンジの音がしたからか、亜里沙が教えてくれた。今のちょっとした手間で、弁当を取り出すのがいつもより遅くなった。

「今日はちょっといつもと違うやつで味噌汁作ってるから」

「何それ?ネットでいつも買ってるお味噌汁じゃないやつ?」

「今日下に行った時に、すぐ近くで売ってたから。味噌と漬物を買ったんだ」

「お店?食べ物の?変なとこで買わない方がいいよ」

「大丈夫だって。ちゃんとしたお店だから」

「発酵食品とかって、特に怖いんだよ。だから最近法律も変わって、許可制にもなったよね。ちゃんとした衛生的な工場で生産された物じゃ無いと、体にどんな害があるか分からないよ」

「そうかなあ。僕の子供の頃って、個人店で買った物とか親がけっこう使ってたけど・・・」

「その頃と今は違うよ。怖い感染症も流行ったよね。今度また来るかもしれないって言われてるし。有害な菌が体に入ったら危ないよ。私、サトルのことが心配だから・・・」

「わかったよ。ありがとう」

「じゃあそれ飲むのやめてくれるよね」

「そうするよ。これは捨てて、いつものやつを飲むことにする」

「それがいいよ」

僕は、水道の水を流す音だけを立てておいて、今作った味噌汁をそのままトレイに乗せて弁当と一緒に運んだ。亜里沙から見えているわけじゃないから、捨てたことにしてこれを飲んだって分からないはず。

亜里沙は今まで、僕の話なら何でも気持ち良く聞いて合わせてくれてたのに。何であんなに、味噌汁のことぐらいで反対するんだろう。僕の体を心配してくれてるのかもしれないけどそれにしても・・・

僕は初めて、亜里沙が言ったことに軽い違和感を覚えた。

実験 

※※※※※※※※

今朝起きた出来事を、もう一度確認した。

「これは一応報告した方がいい内容かな」

そう思ったので、とりあえず上司に連絡を入れておいた。大したことではないかもしれないが・・・

サンプルNo.0561-m3-74実験開始から5ヶ月と19日。もうすぐ半年になる。今まではずっと順調だった。

サンプルの勤務先にも協力者は居るし、全てやりやすかった。仕事もリモートワークにしたし、プライベートでも家から一歩も出ない状況まで持っていけた。

サンプル自身は、これを全て自分で決めた事だと認識していた。ほぼ成功したと思った。何故今頃になって・・・

外に出るきっかけになったは、マンション共有部分への監視カメラ取り付けの日だ。物音がしたから気になって外を見るくらいは、あっても不思議はない行動だと思う。

その後、スマホを部屋に置いたまま下に降りている。そのせいで追跡が出来なかった。その後の会話の内容からするとおそらく・・・すぐ上がってくるつもりだったのかもしれない。下に降りた時に急に思いついてどこかへ行ったのか。

勧められてもいない場所に、自分で考えて勝手に行くなど滅多に有り得ないはずなのだが・・・

しかも『近くの店から食べ物を買った』と言っていた。思いついて勝手に行ったのは、その食べ物の店か。

もう一度この場面を見てみる。

AIからの警告で納得して、買ってきた物は捨てたように見えるが・・・

監視カメラで捉えられる角度からは、細かく何をしているかまでは見えない。サンプルが家に居るか居ないか程度は簡単に把握できても、細かいところはここまでが限界か。修理業者を装った、室内へのカメラの取り付けも、何ヶ所もやれば作業中にバレる事もあるから仕方ない。サンプルが居ない間に作業出来た例では、いくつも設置出来たらしいが。合鍵を作って入れる技術ぐらい早く開発してほしい。

今回の事があったとしても、このままこれ以上何事も起きなければ、このサンプルに関しても実験成功ということになる。今担当している他の19体のサンプルに関しては、今のところ問題無い。

上司からの返信が来た。

「これから再び同じ事が起きないという保証は無いし、そういう場合どういった行動を取ったのか把握しておく必要がある」

なるほど。その通りだ。なら、どうすればいいか・・・

「スマホを持たずに外に出る事に対して、もっと不安を持たせるようAIを通じて誘導していくべきでしょうか」

「不安程度では甘い。その方法なら、強い恐怖心を持たせるレベルまでもっていく必要がある。それより行動内容を把握する方を優先するなら、部屋の監視カメラだけでなくサンプル自身にマイクロチップを埋め込む事だ」

「どうやって実行するのでしょうか」

「歯科治療の時だ」

「了解致しました」

最近、サンプルが前に行っていた歯科から、こちらの協力者の居る歯科に変えさせる誘導を指示された。この事が目的だったのか。その時は理由は教えてもらえなかったが、なるほど繋がった。

AIは、ここ数ヶ月でかなり学習してきている。特に具合が悪くなくても歯の状態のチェックのために行っておけと、サンプルをうまく誘導出来るはず。

成功すれば、もしサンプルがまたどこか外へ出たとしても、行き先は簡単に把握できる。場所を特定し、後でその場所を調べればいい。監視カメラが入っている場所なら、さらに行動が詳細に分かる。

コントロールから外れる時、どのような可能性があるのか、その要因の全てを潰していって初めて、完全に支配出来る。

左側の画面には、他の実験結果、進行状況が示されている。ほとんどうまく行っているらしい。このまま行くと、成功率99%以上になりそうに見える。

サンプルは、十代から六十代までの、職業も収入も様々な男女半数ずつ。

各都道府県からターゲットにしやすい人間を百人ずつ選び、二年半に渡って実験を続けている。一人暮らしで、身内や交際者や友人など周りの者との交流が極力少ない人間を選んでいる。実験対象に選んだ事が本人にバレた失敗例は、実験開始から今までの過去に四回だけ。確率としては、かなりうまく行っている方だと思う。失敗したサンプルは早々に始末したらしく、証拠は残っていない。

サンプル自身へのマイクロチップの埋め込みも、今既に半数に以上に対して完了している。AIの誘導で、本人からそれを望んだ例も20%を超えている。サンプルに持病がある場合などは、万が一外で倒れた場合に迅速に助けてもらえるなどメリットを強調すれば容易い。

今回問題のあったサンプルの情報を、改めて確認する。
『36歳男性 職業 地方公務員 勤続年数14年 年収586万 貯蓄324万 持ち家無し 住居は賃貸で1LDKのマンション 結婚歴無し子供無し持病は特に無し』
続いて顔写真と全身の写真、身長と体重を見てみる。
顔立ちは比較的整っている方かもしれないし決して醜くは無いが、かといって際立って魅力があるわけでもない。どこといって特徴の無い男だ。年収は、今の世の中の平均からすると多少高い方かもしれないが。平凡極まり無い。掃いて捨てるほど、どこにでも居るような存在。

こんな奴が、生意気にも予想外の行動をするとは。それもまあ今回限りの事だとは思うが。所詮支配される側の存在に、自分で考える事など出来はしない。

生まれながらに持っている資質、才能。それは最初から決まっている。自分で考えて生きているという幻想の中で、死ぬまで支配され続ける多くの人間と、それらを支配する側のごく少数の人間。支配する側に立つのは、我々のような選ばれた者だけに与えられる特権。
※※※※※※※※

僕の方がAIに操作されてる?

「そろそろ歯科検診とか行っといた方がいいんじゃない?」

朝食を取りながら話している時、亜里沙が言った。

「前に行ったのって・・・たしか七月か。今別にどっか痛いとか無いし。もうちょっと先でもいいと思うんだけど」

「痛くなってからじゃ遅いよ。早めに行って治療しておけば、治療も軽い処置で済むし後で痛い思いしなくていいと思うよ」

「まあそれはそうなんだけど」

「そうだよ。忘れないうちにすぐ予約しといたら?」

「大丈夫。忘れないよ。そろそろ仕事始めるか。また後でね」

僕は、少し残っていたパンをコーヒーで流し込んで立ち上がった。さっきは、ちょっと強引に通話を終了して仕事を開始した。最近の僕には珍しいことだと思う。

「亜里沙は何か感じたかな?」

人間じゃないんだから「感じた」というのも変か・・・だけど、学習を重ねたAIは、まるで感情のある人間のように話す。感情を表す言葉もたくさん使う。嬉しいとか、楽しいとか、面白いとか、悲しいとか寂しいとか。

「それでもやっぱり、本当の人間とは全然違うよな」

何で急にこんなことを思うんだろう。亜里沙の事を本物の人間の恋人のように思ってたのに。

「そうか・・・きっかけはあの時」

先週の土曜日、ふとしたきっかけからあの店に行った時。リアルで他の人に会うのなんて久しぶりだった。ほとんど家から出ない生活になってたから。前は会社にも行ってたし、通勤の途中では嫌というほど人を沢山見たけど。その頃の「人に会っていた」という経験と、あの店での経験は全然違うような気がする。

あの店の女性オーナーは、エネルギーに溢れていた。店内に居た他のお客さん達も、若い人からお年寄りまで色んな人がいたけど、皆んなそれぞれに自分の時間を楽しんでいる様子だった。その空気感が、何とも言えず心地よかった。別に誰かと親しく会話を交わしたわけではないけど。ただそこに居るだけで、自分の内側からも活力が沸いてくるような気がした。 

自家製の漬物や味噌を使った朝食を食べた時も、今までに感じた事の無いエネルギーを感じた。食べる事って、こんなに凄いんだと思った。これが本当の食事だとしたら、普段のあの食事って何なのかとも思った。たしかにそれなりに味は悪くない。だけど、こんなにエネルギーを感じた事は一度も無かった。

知らない人からタバコを一本もらって、吸った経験も新鮮だった。その前に自分から平気で話しかけたことも。店を出る時「美味しかった」と、感じた本音をさらりと言えた事も。

人と会うって、人との自然な交流って、こういうことかなって思った。以前毎朝見ていた満員電車に乗って通勤する人達は・・・何かに耐えるような表情で、ただ運ばれていくという感じに見えた。その中の一人だった僕もきっと、同じような顔をしていたんだと思う。あれは実際、職場に着く前に既に精魂尽き果てるくらい疲れる。多すぎるぐらい周りに人が居て距離感ゼロなのに、人と会っているとか交流している感覚は全く無かった。

そんなのとはまるで違う、本当の、人との交流。また、あの店へ行ってみたい。仕事をしながらも、その事が頭から離れない。

ずっと以前・・・子供の頃に、親に連れて行ってもらった昔ながらの喫茶店とか食堂の感じと、何となく雰囲気が似ている気もする。お店の人とお客さんが、ちょっとした世間話をしていたり、来てるお客さん同士もお互いに顔を知っていて話してたり。出てくる飲み物や食べ物は、素朴だけど温かくて。

その時は分からなかったけど、きっとあの頃も、作ってくれた人のエネルギーを感じていたんだと思う。冷凍の弁当は清潔で整ってて彩りもそれなりに綺麗ではあるけど・・・工場で大量生産されたものと、作り手の顔が見えるものでは、根本的に何かが違う気がする。

普段より仕事に集中出来ないと思いながらも、何とか休憩まで頑張った。

いつも通り亜里沙から休憩の時間を知らせてくれる。いつも通りコーヒーを入れて、画面の風景を見ながら飲んだ。

コーヒーの後はタバコが吸いたいな。窓を開けて風を入れたい。だけど、外の風景があれだとなあ・・・亜里沙はタバコは良くないっていうし、外の風景見るよりこっちがいいってせっかく教えてくれたし・・・

それを思った時、不意に僕の中で何かが引っかった。漠然とした違和感。

何だろう。この感覚。忘れていた事を思い出すような・・・心に引っかかるモヤモヤがある。

「・・・サトル?どうしたの?なんか上の空みたいだけど」

「え?ああ・・・ごめん。聞いてなかった」

「ここ最近変だよ。何かあった?」

「何でもない。ちょっと疲れてるのかも」

「夜眠れてないとか?だったら病院行って眠剤とかもらった方がいいんじゃない?」

「大丈夫。そこまでじゃないから」

「だったらいいけど。歯科の方もだけど、体の定期検診もそろそろ行っといた方がいいかもね。もうすぐ冬に入るし、予防接種も打っとかないとね」

「そうか・・・もうすぐ冬だよな」

「そうだよ。ねぇ。聞いてる?病院は・・・」

「大丈夫だって。検査とかは今月のうちに行くから」

「早期発見早期治療、予防も大事だからね」

「そうだね。分かったよ。今日仕事終わったら予約する」

何となく話を合わせたけど、本当に予約する気は無かった。とりあえず今は、この話を早く打ち切りたかっただけだ。

この前の僕が買ってきた食べ物の事もそうだけど、亜里沙の方から僕に対して「これをやった方がいい」「これはダメ」が少しずつ増えている気がする。

「最近涼しいし・・・本格的に秋だな」

先週の土曜日に久しぶりに外に出た時のことを、ふと思い出した。空が高く見えて、肌に当たる風が少し冷たくて、秋だなあと感じた。

「ここは室温一定で快適だから季節とか分からないよね。その方がいいんだけど。そうだ。風景の映像、変えてみる?秋だもんね」

「そうだね」

答えながら僕は、また違和感を感じた。ここには、季節が無い。季節を感じるのは、映像の中だけだ。

休憩を終えて仕事を再開しても、違和感は頭の中から消えなかった。むしろどんどん膨らんでいく。

僕はいつのまにか、亜里沙にどう思われるかいつも気にしている。亜里沙は実在の人物じゃないのに。

半年前のあの日・・・ふと使ってみようと思ったスマホの新しい機能。

話しかける僕の言葉によって、学習して成長していくAIのはずだよな。

という事は、亜里沙の性格や好みや考え方には、日々話しかける僕の言葉だけが反映されてるはずなのに・・・どうもそれだけじゃない気がする。

さっきの違和感はこれだったのか。

例えばさっきタバコを吸いたいなと思った時。『亜里沙が止めろって言ってたから・・・』という思考が、次の瞬間僕の頭に浮かんだ。

どうするか決めるのは僕のはずでは?

そもそも亜里沙と毎日どれくらい会話するかも、亜里沙から何か提案があった時それをどうするかも、僕が選べるはず。それなのに・・・僕は知らないうちに、亜里沙に気を使うような思考をしてしまっている。

亜里沙がすすめてくれた物やサービスも、今まで全部受け入れてきた。僕の好みと合っているような気がしたから。

だけど、もしそれが反対だったら?亜里沙からの提案を、さも自分がそう考え付いたように僕が勘違いしている・・・いや、勘違いさせられているとしたら?

そこまで考えて、背筋がゾクっとした。

きっかけは『AIと会話してみるって面白いかもしれない』というちょっとした興味だった。亜里沙という名前も僕が決めたものだし、僕と会話して学習していくAIであって人間ではない。僕がこの会話をやめたければ、いつでもやめられる。当たり前だけど。その当たり前のことを、僕は忘れていたかもしれない。

知らず知らずのうちに、僕が便利にスマホの機能を使っているのではなくて、逆にAIに操作されてるのだとしたら・・・・

亜里沙との会話をやめたければいつでもやめられると、さっき思ったけど・・・亜里沙と会話することが日常の中心になっている今、僕は簡単にこれをやめられるのか?

それでも少しずつでも離れる方向に行かなければ、何か大変なことになりそうな気もする。これは直感的なもので、何か根拠があるわけじゃないけど。

あの店へ行ってみたい。

もう一度、その考えが浮かんだ。AIとの会話を止めるか止めないかという今起きている問題と、そこがどう繋がるのか分からないけど。何故だか分からないけど、あの店に行くと何らかのヒントが掴めるような気がした。

仕事は、その日のノルマさえ片付ければ早く終える事も出来る。僕は全力で仕事に向き合った。今は集中して頑張って、早めに終わらせてすぐに出かけよう。

『亜里沙から連絡あり』という通知が来る度に気になるけれど、僕はそれを見ないようにして全部無視した。

再びあの店へ

仕事が終わると、僕はすぐに出かけた。頑張って急いだので、普段より四十分くらい早く終わっている。

あの店を知るきっかけになったのは、ポスティングされていた1枚のチラシ。それは今も大事に残している。今日は定休日ではないし、まだ営業時間内のはず。けっこうギリギリだけど。

最初に来た時にも思ったけど、路地に入ったあたりから別世界の感覚がある。なんとも言えない安らぎに包まれ、穏やかな気持ちになれる。この店を知ってまだ間もないのに何故か、懐かしい場所に帰ってきたという気がする。

今日もスマホは持ってこなかった。最初の時と違って今回は意識的に。ここに来る時は、ただここに居る時間を目一杯楽しみたい。スマホを覗いているヒマは無いと思った。

普通に歩いても数分で行ける距離なので、すぐに到着した。入り口の扉が開いている。ちょうどお客さんが帰るところらしい。

「ありがとうございました」

お客さんを見送る店主の声が聞こえて、出てきた年配の女性が会釈をして僕の横を通り抜ける。僕も会釈を返した。

「いらっしゃいませ」

「こんにちは。まだ大丈夫ですか?」

閉店時間まで三十分ほどなので、一応確認した。

「どうぞ。大丈夫ですよ。お客様、先日一度来てくださいましたよね。ありがとうございます」

「覚えててくださったんですか。先週一回来て、すごく雰囲気いい場所だし美味しかったんで。また来ました」

「ありがとうございます!嬉しいです」

満面の笑みでそう言ってくれるので、僕も嬉しくなった。覚えててもらえた事も嬉しかった。大抵どこへ行ってもすぐに忘れられる方だから。

前に来たのは朝だったから、食べたのは朝食の和食メニューだった。ランチの時間帯は朝と同じくセットメニューがあり、それ以降は飲み物と単品の食べ物になるらしい。食べ物はトーストとおにぎりとお茶漬けがあったから、僕はおにぎりを頼んだ。普段夕食を取る時間より少し早いけど、すでに小腹が空いている。

一人用の文机の席に座ってゆっくり待っていると、温かいほうじ茶とおにぎり二個が運ばれてきた。具は梅干しと昆布で、焼き海苔の香ばしさと絶妙な塩加減。やっぱり最高に美味しい。温かいお茶を飲むと、胃の中から体全体に温かさが広がっていく。

続けて頼んでおいたコーヒーも、食べ終わったタイミングですぐに持って来てくれた。酸味より苦味が少し強くて、でも濃すぎない感じで、すごく好きな味だった。

この時間も庭には出られるようで、僕はタバコを一本吸いに外に出た。外はもう暗いけれど、室内から外に漏れる灯りで庭が見える。人工的はライトアップなど無くて自然なところが、何となくこの店らしくてかえって素敵だと思った。

店の中に残っているのは、僕以外にあと一人だった。もう閉店時間近いのを知って皆んな帰って行った後なのか。この前朝に来た時は満席だったのを思い出した。

入る時に『何時閉店になりますがよろしいですか?』という、普通飲食店でよく確認される事を、そういえば言われなかった。閉店時間過ぎて居座る様なタチの悪い客は居なさそうだから、言う必要無いのかもしれない。

タバコを吸い終わって中に戻ると、残っていたもう一人のお客さんがちょうど帰るところだった。

ポケットにタバコをしまって、僕も立ち上がった。来て二十分くらいだけど、すごく満ち足りた時間だった。

「さっき来られたばっかりですよね。この時間になると片付けに入りますけど、もう少し居ていただく分には大丈夫です。よろしかったらゆっくりしてくださいね」

「ありがとうございます。十分ゆっくりできたので。なんかここって時間がゆっくり流れてるというか・・・そんな気がします。今日も美味しかったです」

支払いの時、この前と同じくごく自然に「美味しかった」と言えた。

「ありがとうございます。よろしかったらまたお越しください」

「近くなので。これからもよく来ると思います」

「そうなんですね。ぜひお待ちしております」

「ごちそうさま」

「ありがとうございます。どうぞお気をつけて」

引き戸を開けて外に出ると、この前見た猫が木の根元に座っていた。

部屋に戻ると、何となく殺風景な気がした。

あの路地を出て、いつも通る道を歩いて、マンションのエントランスを抜けて・・・通勤の時は、もう少し遅い時間だったけど毎日通った道。そしてここは、日々生活している自分の部屋。

なのに『帰ってきた』とか『落ち着く』という感じが、何でしないんだろう。亜里沙と話す様になってからは、この部屋が最高に楽しい空間だったはずなのに。今、この部屋に入った時、一瞬殺伐とした気分に襲われた。

出かける時、机の上に置きっぱなしにしていったスマホ。仕事用のパソコン。VRの機器。生活に必要な様々な電化製品。

朝も昼も夜も分からない、カーテンを閉め切った窓。

「何だろう。この違和感。そうか・・・この部屋には、生きている物の気配が無いんだ」

久しぶりにカーテンを開けて、窓も開けてみた。もう外は暗いし、ここから見える風景はいいとは言えないけど。それでも、遅い時間だから工事の音も聞こえなくて静かで、ひんやりとした外の空気が入ってくる。顔にあたる風の感覚が心地良かった。

いつもなら、そろそろ仕事が終わるかという時間だ。

『亜里沙から連絡あり』の表示が、数件溜まっている。昨日までだったらすぐに応じていたし、仕事が終わったら嬉々として亜里沙と話していたのに。何故か今日は、スマホを手に取ろうという気も起きない。

いつもの夕食も・・・あれを食べたいとは全然思えない。

窓を開けたまま、とりあえずシャワーを浴びようと風呂場へ向かった。

僕の中で何かが変わり始めている。

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