オリジナル小説 A Iの恋人 中編

オリジナル小説 エッセイ

実験 想定外の出来事


※※※※※

さっき報告した内容に関して、上司からの返信が来た。サンプルNo.0561-m3-74の異常行動の件だ。

「面倒な事になったな」

「サンプルを始末して実験終了ですか?」

「そうすると初めての失敗例という事になってしまう。出来ればそれは避けたい。まだこちらの監視がバレたわけでは無いし、修正出来る方法はある」

「分かりました。指示を待ちます」

たしかに今までに数回、監視している事をサンプル自身に気付かれたという失敗例はあった。今回は、実験そのものが失敗したのとは違う。しかし今までに無いことが起きてしまっている。

今日の午後からサンプルが、AIとの会話をしなくなった。さらに、仕事を終えてすぐ外に出て行った。一時間足らずで戻っては来たが、明らかに様子がおかしい。帰ってきてからも一度もスマホを見ようとしない。

万が一、サンプルが自らの意思でAIと会話するのを止めるような事が有れば、洗脳プログラムの失敗ということになる。今までどの地域でも、そんな事は起きていない。

もしかしたら、前に一度外へ出た事が影響しているのかもしれない。マンション共有部分への監視カメラ取り付けがあった時。最初に下に降りた時は、どこかへ行くつもりは無かったようだが。そのあとに何か、急に思いついて行動したらしい。

出てから帰宅するまでの時間は約一時間。AIに話した内容からすると、外で食品を買って戻ってきている。近くで物を買うだけにしては時間が長いとも思うが。

あの時サンプルがスマホを持って行かなかった事で、行き先も追跡出来なかった。もしかしたら今回も、同じ場所へ行ったという事も考えられる。

AIに対しても、前回の行き先について詳しく話さなかった様だが。自分の意思で何かを隠すとか、どこかへ出かけるなど・・・この平凡な男に、そこまで思考する能力があるとは思えないのだが。無能なバカほどたまに気まぐれを起こし、根拠の無い行動に出るという事はあるかもしれない。

それにしてもスマホを一度も見ないというのは明らかに異常事態だ。まさかとは思うが、誰か助言する人物でも現れたのか?もしそうだとしたら、面倒な事どころの話ではない。我々の計画を知って邪魔している存在が居るという事か?何の目的で・・・

仮にそんな事があったとすれば、その人物が「自分に会ったことや話したことを他言するな」と伝えたかもしれない。

ここ数日のデータを振り返って見ると、あの時以降AIに対して「今日も亜里沙の夢を見た」という話をしなくなっている。思考操作の影響のレベルが、弱まっているという事なのか?

そこまで考えた時に、上司から連絡が来た。

「サンプルの動きは?」

「まだスマホを見ません。風呂場へ行った後は、何をするでもなく窓を開けたまま外を見ています」

監視カメラの映像を確認し、上司に伝えた。実際、さっきからずっとこの状況だ。一瞬、監視カメラに異常が起きて映像の方が停止しているのかと思ったくらいだ。

「認知症が始まるには年齢的に早いと思いますし、仕事をこなす程度の能力は残っているはずですし・・・急に頭がおかしくなったのでしょうか」

「外から何らかの刺激があった可能性はあるな」

「先ほど私もそれを考えていました」

「もしそうなら尚更、サンプルを始末してしまっては、原因を究明出来なくなる」

「尾行の用意をして、動くのを待ちますか?」

「その前にこちらから仕掛ける。何者かが助言を与えているとしたら、次に出かける先はサンプルの意思ではなく、何か計画されたものかもしれない。こちらが尾行するのを予測している可能性もある。その前に先手を打つ」

「確かに。その通りですね。了解しました」

「今回の対策も初めての試みだが。これを試すいい機会かもしれない。自分が作った想像上のキャラクターだったはずのAIが、実在人物として目の前に現れるというものだ。どういう反応を示すか見ものだな」

「サンプルが精神的パニックに陥って予想外の行動に出れば、もし邪魔者が居たとしたら、そいつの指示通り動かなくなる可能性もありますね」

「邪魔している者がもし存在するなら個人ではなく組織だろうから、多少イレギュラーな事が起きても対応してくるとは思うが。その動きを見てこちらもまた次の手を考える」

上司とのやり取りを終えてから、再び画面を確認した。サンプルはまだ、窓の外を眺めているだけで動かない。一体何を考えているのか。考える能力など無いだろうが。ただ外を眺めて呆けているだけなのか。

こんなバカの気まぐれな行動に振り回されてはつまらないと思ったが、相手が組織となれば話は違ってくる。邪魔立てする組織がもし存在するなら我々チーム全体としての危機という事になる。反対勢力が存在するなら徹底的に潰すまでのこと。

※※※※※

SNSの求人

勤めていた工場の仕事が突然終了になって、そこの寮に住んでいた私は出ていくしかなかった。一ヶ月猶予がもらえただけでもマシだったのかもしれない。それでも、保証人も居なくておまけに無職になった女に借りられる賃貸物件は無かった。とりあえずネットカフェで過ごすしかない

貯えというほどのものは無いし、単発のバイトでもやって生活費を稼ぎながら、これからどうするか考えよう。何か資格があるわけじゃないけど、幸いな事に健康だし、体力にもまあまあ自信があるし、年齢もまだ三十歳。仕事は真面目にこなす方だし、問題を起こして解雇されたような経験は今まで一度も無い。やれる仕事の範囲は広いはずだと思う。

いつもはネットで求人情報をチェックするんだけど、昨日はちょっと気晴らしにSNSのタイムラインを見ていて偶然【バイト募集】の投稿を見つけた。

【学歴経験不問 簡単なお仕事です サービス業 日払い可 二十代三十代の男性女性が活躍中 11時〜20時 シフト制 勤務時間は3時間から応相談 時給2000円以上・・・】

六時間勤務できたとすると、一日で一万円以上になる。かなりいい方だ。

あまりに条件が良すぎると逆に怪しいと思うけど、これくらいの条件というのは特に珍しくもない。

サービス業と言ってもどういう内容かは気になるけど。体を売るとかそれに近いような仕事だったら嫌だし。だったらもっと時給高いはずだし。

SNSではハンドルネームを使ってるし個人情報も出してないし、DMでやり取りするみたいだから・・・危ないと思ったらブロックすれば済むことだと思った。

投稿しているアカウントのプロフィール欄を見た限りでは、怪しい感じはしなかった。

とりあえずDMで連絡してみると、相手の返信は敬語できちんとしていて、この段階でも怪しい感じはしなかった。

詳しい内容は後からと言われた時、やっぱり危ない話なのではないかと一瞬思った。だけど・・・面接の約束まではしてしまったし、とりあえず話だけ聞いてみようと思う。

もし本当に怪しいと思ったらその場で断ればいいわけだし。今から心配しすぎても仕方ない。私の思い過ごしで実際はまともな仕事だったら、断るのは勿体無いし。

指定された面接の時間と場所も、昼間の時間帯だし人の多い場所だし、危ないバイトの斡旋とかそういう匂いはしないと思った。

面接の場所として指定されたカフェに入って待っていると、近付いて来たのは女性だった。見たところ三十代半ばくらいで、多分私とあまり年が変わらない。黒髪のショートカットで、明るめのグレーのスーツ姿。きちんとした人に見える。SNSのアカウントは男性のようだったから、その人が来るのかなと思ってたので意外だった。

ここのカフェは、カップルや友達同士で来ている人が多くて騒ついている。一人で座っているのは私ぐらいだったから、すぐ見つけられたらしい。

「ちょっと騒がしいところだけど、この方が安心感あるかなぁって思って」

笑顔でそう言われると、緊張感が抜けた。

「怪しい仕事だったらどうしようとか、ちょっと思ったんじゃない?」

図星だったので笑って誤魔化した。

「詳しいことは後でなんて言われたら、普通そう思うよね。実はね、私も最初募集広告見て来た人だから。あなたと同じ。最初はめちゃくちゃ怪しいって思ったよ。だけどお金も要り用だったし、思い切って連絡してみて何回か仕事したんだけど、変な仕事じゃないから大丈夫。安心してね。今は面接とかもやってるけど、本来の仕事も並行してやってるし」

「そうなんですね。もう長いんですか?」

「二年目に入ったとこ。敬語要らないよ。年も近いでしょ」 

最初からフレンドリーだけど図々しくはなくて、嫌な感じはしなかった。

女性で、しかも同じ仕事をやっている人というので、さらに安心感もある。仕事の内容を聞くと、体を売るとかそっち系の仕事では無さそうだった。

「DMの文章で伝えても伝わりにくかったりするから、詳しい内容は後でってことにしてるみたい。ひやかしで問い合わせだけしてくる人も多いし、いちいち時間かけて説明してられないしね」

なるほどそれはその通りだろうと思うから納得した。

「コスプレって知ってるでしょ。アニメとかゲームとかのキャラクターになりきる遊び」

「やったことは無いけど、見たことだったらある」

「それとね、スマホの新しい機種になら入ってる、AIを育てていく遊びは知ってる?」

「AIと会話するやつ?それも使ったこと無いけど」

「それが今けっこう流行っててね、それを使ってる人が次に求めるサービスっていうのがあるわけ。AIだと音声だけでしょう。音声ではかなり人間に近い会話が出来るんだけど、そこまで来たらさらに次を求めるのが人間の心理よね。空間に立体で見せる物も研究されてるから、遠からず出てくるとは思うけど。今の段階ではまだそれを使ってるのは企業単位で、個人には普及してない状況だから。AIで作り上げた人物を実際に見たいっていうお客さんの欲求は満たせてない。それを提供するのが、私達がやってる仕事」

タブレットの画面を見せてもらうと、色んな人の写真が並んでいた。見るからにアニメのコスプレという感じのもあるけど、そうではなくて普通の勤め人みたいに見える人の写真もある。男性女性半々くらいで、年齢も子供からお年寄りまで様々。

「バーチャル恋愛したい人とか友達欲しい人とか、子供が欲しいけど産めない人とか、親が早くに亡くなってて親代わりの人物に話聞いて欲しいとか、需要は無限にあるんだよね」

ザッと見たところ一番多いのは二十代三十代の男女だ。だからあの募集内容だったのかと思う。

「お客様からの依頼があったら、そのお客様が作ったAIのキャラクターと出来る限り近い見た目を作って、指定された場所へ行ってもらうのが仕事」

「行って何かするの?」

ちょっとだけ不安になって聞いてみた。

「姿を見せるだけでいい場合がほとんどだから安心してね。デートクラブみたいなのとは全然違うから」

「それでお客さんが満足するの?お金払って、ただ見るだけって・・・」

「学習したAIは相当人間に近いからね。ヘタに深く話したりすると、違うところがいっぱい出てきてかえって幻滅するから」

「なるほど。夢は夢のままでってことか。確かに・・・話し方や性格までお客さんが作ったAIに似せようと思ったら、相当大変だもんね」

「そういうこと。そこまで出来る人って滅多に居ないよ」

私は仕事を引き受ける事にした。試用期間として最初の仕事を一回やって、それが上手くやれたら本採用という事で定期的に仕事がもらえるらしい。上手くいけば無職から脱却できる。勤め先がはっきりすれば、アパートも借りられるかもしれない。

どちらかというと黙々とやるような作業が好きで、話すのは得意じゃないけど・・・あまり話さなくていいなら出来そうだ。人を喜ばせる仕事でお金がもらえるなら嬉しいと思う。

試用期間としての最初の仕事は、面接の日の二日後だった。私は指定された時間に、あるマンションの前まで行った。

ここが事務所で、着替えはここでするらしい。見たところ普通の住居用のマンションで、郵便受けには会社名は無いし個人名すら書いてない。名前が書いてないのは他の部屋もほとんどそうなんだけど・・・個人ならそれも分かるけど、ちゃんとした会社だとしたらそれってどうなんだろう。

「本当にここで大丈夫なのかかな・・・」

そう思いながら、部屋番号を確かめる。間違いないらしい。

入り口のインターフォンで部屋番号を押し、呼び出しを押すと、すぐに応答があった。

エレベーターで上がって目的の部屋の前に来てみると、ここにも表札も何も出ていなかった。さすがにちょっと怪しいんじゃないかと思ったけど、ここまで来て今さら帰るわけにもいかない。

出てきたのは若い男女二人だった。面接の担当とはまた別の人なんだと思った。

「どうぞ上がってください」

女性の方がスリッパを出してくれた。

「お世話になります」

中に入っても普通のマンションの部屋みたいで、オフィスという雰囲気では無かった。ウィッグや衣装がズラッと並んでいる。確かに着替える場所ではあるようだから、騙されて変な所へ連れてこられたとかでは無さそうだ。

紙袋に入った衣装を渡されて「そちらで着替えてください」と言われた。

試着室のような感じで、部屋の一角がカーテンで区切られている。

どうせ着替えるから来る時の服は何でもいいと言われていたので、今の服装は普段着のトレーナーとスラックス。それを脱いで、襟元が広めに開いた水色のワンピースを着た。長袖ではあるけど、今の季節には少し寒いかも。体にピッタリしたデザインではないので、サイズは大体合ってるという程度でも特に気にならない。スカート丈も長めで、襟元が開いていると言っても鎖骨が見えるくらいで、着るのに抵抗のあるような衣装でなくて良かったと思った。ストッキングを履いて、着てきた自分の服を抱えて外に出た。

鏡の前に座って化粧が始まると、わたしの顔がどんどん変わっていった。

お客様が設定したキャラクターの見た目に、出来得る限り近付けるという事なのかと思う。カラーコンタクトを入れただけで、目がパッチリ大きくなった感じ。普段使わない物だから、目の中に何か入っている感覚はかなり違和感があるけど。我慢出来ないほどでもない。

ここに来た時間から時給が発生して、仕事を終えてここに戻って来て着替えて帰る時点までが仕事だと聞いている。時給は帰る時点で計算されるので、労力が少ない割にかなりいい収入になる。それを思うとこれくらい何でもない。

化粧水を丁寧に叩き込んで、乳液、美容液、クリーム、化粧下地を塗ったあと、ファンデーションを何色か混ぜて、順番に塗り重ねていく。ものすごく念入り。普段はほとんどすっぴんで、丁寧にメイクなんてやった事無いから、こんなに沢山塗るんだと驚いた。時間をかけただけあって、元々のわたしの肌の色より白めで、でも不自然じゃない、陶器のように綺麗な肌が出来上がった。眉を丁寧に描き、アイシャドウを何色も使い、アイラインも丁寧に引いて、マスカラを何度か重ね付ける。すごく時間かけて作り込んでるのに、全然厚化粧に見えないところが凄い。

「髪を少し切っていいですか?」

メイクが終わると、男性のスタッフが聞いてきた。

「はい。大丈夫です」

伸ばしっぱなしでいつも束ねているだけの髪だから、これといってこだわりは無い。無料で切ってもらえるならむしろラッキーだと思った。ここのスタッフ二人は、女性の方がメイク、男性の方が髪型の担当らしい。

出来上がった髪型は肩にかかるくらいの長さのボブで、髪の色は染めずにそのままだった。最後に、小さな宝石の付いたネックレスとピアスを渡された。服の色とも合ってて、すごく綺麗な石。今付けているピアスを外して、それを身に付けた。私の身長は、お客様が設定したキャラクターの身長とほぼ近いから、ヒールの高い靴を履いたりしなくてもいいと聞いてホッとした。

まだ時刻は夕方だけど、この季節の日没は早い。着替え終わって外に出ると、辺りはもうすっかり暗くなっていた。

女性の方が外まで来て見送ってくれて、ここからお客様の居る場所まで、車で移動すると聞いた。車の運転にはまた別のスタッフが居て、私を現地まで送ってくれるという事だった。

車の運転席には男性が、助手席には女性が乗っていた。後部座席の窓にはカーテンがかかっていて外は見えない。やけにグルグル回っているような気もした。私に行き先を知らせないためなのかと思う。お客様のプライバシーを保護って事かも。

今はスマホも時計も持ってないから分からないけど、おそらく20分以上は経っている気がする。

お客様の住所や名前などの個人情報は絶対に教えられないし、知ろうとしてはいけないという事は面接時に聞いていた。私だけでなく同じ仕事をしている人全て同じだそうで、その理由を聞くとなるほどと納得した。お客様に対して恋愛感情を持ってしまう人も中には居て、後で勝手に連絡を取ろうとしたり会おうとしたりして問題になった事があるとのことだった。

それではお客様にとって迷惑だし、会社の信用にも関わることだと思う。

私がそういう人間じゃないという保証は無いのだし、まして初めての仕事だし、警戒されても仕方ないと思う。

車が止まり、助手席に居た女性の方が降りてきた。

「途中まで一緒に行きますね」

「ありがとうございます」

一人で行くよりも心強い。すぐ近くのマンションのエントランスまで歩いて行って、彼女が私に言った。

「指示を繰り返しますね。ただここで立っていてもらえばいいので。私は車に戻りますね。お客様があなたを見つけるはずです。それを確認したら戻ってください。先ほどの場所に居ますので」

「わかりました」

エントランスまでは誰でも自由に入れる。左側に住民用の郵便受けが並んでいて、オートロックの扉が奥にある。

お客様は、中から出て来られるのか外から入って来られるのか。どっちにしてもいつ来られるのか。いつまでここに立っていればいいのか。長い方が時給は上がるわけだけど、精神的に何となく疲れる。人を待っているフリでもすればいいのかもしれないけど、用も無いのにこんな所に立ってる女なんて絶対怪しいし。そのお客様だけがここを通るというのではなく、当然他の住人も沢山いるのに・・・誰か来るたびに人から不審人物と思われたら嫌だなあと、やっぱり気になってしまう。

時給が多少減ってもいいし、早くその人が来て、早く終わって欲しいと思った。

削除したはずなのに・・・

数ヶ月ぶりに、寝る前にも亜里沙と会話する事なく、好きな本を読んで過ごした。紙の本を読む事が、元々はとても好きだったのに・・・このところずっと読んでいなかった。

仕事が忙しかったり通勤時間が長くて疲れていたり、リモートワークになってからも亜里沙と会話する方が楽しかったから。

数ページ読んだところで放置していた本を久しぶりに読み始めると、とても新鮮な気分になれる。ベッドに寝転んだまま没頭して本を読んでいて、僕はいつのまにか眠っていた。

いつになくスッキリと目覚めた。まだ、朝の七時半だ。いつもだったら寝てる時間だけど、何となく起きて動いてみたい気分。

カーテンを開けて光を入れ、窓も開ける。まだ工事も始まっていないし、静かな朝。天気もいいし、どこかへ出掛けてみたくなる。

仕事を始めるまでにまだ時間もある。いつもは顔を洗うだけで終わるんだけど、今日は時間にも余裕があるしシャワーを浴びてスッキリした。髭を剃って歯を磨きながら、行きたい場所として頭に浮かんできたのはやっぱりあの店だった。憩いの茶屋しろねこ庵。

明るくて元気な店主さんとも会いたいし、他のお客さんとか、あの大きな白猫にもまた会ってみたい。今はモーニングの時間帯だ。

「あの和食セットは最高に美味しかったな。またあれを食べようか、それとも今度は洋食の方でも・・・」

朝食セットのどっちを食べようかと考えながら、一階へ降りて店へ向かった。

そういえば今朝から一度もスマホを見てない。今も、スマホを持たずに外に出てきた。前回あの店へ行った時と同じで、店にいる間は、スマホを覗いてる時間なんてもったいないと思った。

今日の仕事の内容はもう決まっているし、もし変更があれば仕事開始前にパソコンのメールを確認すればわかる事だ。そう思うと、毎朝起きたら当たり前のように一番にスマホを見る必要は、全く無いんだなと今更だけど気が付いた。

そういえば亜里沙とも話していない。昨日の夜からずっとだ。もっと寂しくなるかと思ったら、案外そうでもなかった。

最近感じ始めた違和感のせいかもしれない。スマホは見てないけど多分今も『亜里沙から連絡あり』と沢山入っていると思う。それを無視し続けているのは、何となく悪いような気がしてしまう。相手はAIで、実体は無いというのに・・・AIを人間の彼女と同じように考えてしまう感覚の方が、よほど変なんだよな。本当は。

ここ数ヶ月、慣れすぎて麻痺してたような気がする。帰ったら、あの通話アプリを削除してしまおう。すっかり依存してたけど今は、無くても大丈夫な気がする。

店に入ると、この時間すでにお客さんが多かった。かろうじて一つだけ空いていた席に座り、今日は洋食の方を注文した。

僕が入ったところでちょうど満席になった感じ。今朝、さっさと出かけると決断して来てよかった。もう少し遅かったら待たないと入れないところだった。

大きい方のちゃぶ台の席では、老夫婦二組が会話しながらのんびりと朝食を取っている。小さい方のちゃぶ台の席には、若いカップルが座って楽しそうに話している。庭の猫を見ているようで、その話が聞こえてきた。

ここからも庭が見えるので、見ると大きな猫が魚を食べていた。大盛りの煮干しとカツオブシも横に置いてあり、あの丸々とした体を維持するためにはあれを全部食べるのかと思った。

文机の席同士も隣り合っているので、僕は自然と隣の席の人と話し始めた。前にもここに来た時は、他のお客さんから庭でタバコもらったし、ここではそういう事が自然に出来る。店に入っただけで、居るお客さんが皆んな「おはようございます」って言ってくれるし。

隣の席に居たのは、僕より少し年上くらいかなという男性だった。近所で自転車屋をやっているという人で、店を開ける前の時間によくここへ来ると話してくれた。 僕も自転車は持っているし、パンクしたり修理が必要な時は彼の店に行こうと思って名刺をもらった。すごく感じのいい人だったから。

向こうの文机の席でも、偶然隣に座ったらしい女性二人が何やら話し込んでいる。店は広くないし皆んな距離が近いから、人の話もけっこう聞こえてくる。野菜作りの話や家の手入れの話など、生活関連の話か聞けてすごく面白い。

梅干しや漬物の作り方、野草料理の事、民間療法の事なんかはお年寄り達が詳しくて、聞くと丁寧に教えてくれる。

これから仕事だというのに、つい長居してしまいそうになる。

まるでここだけ時間がゆっくりと流れているような、このまったりとした感じがいい。猫は満腹になったようで、ゴロリと横になってそのまま寝始めた。

今度、休みの日に来て一度、一日中居てみようかと思う。実際そういうお客さんも居ると聞いたから。朝昼晩食べて間にコーヒーと甘いものを楽しんだって、それほどお金もかからない。どこかへ遊びに行く事を思えばずっと安くて、一日中楽しめるはず。

帰り際「ここはなんか別世界ですね」と店主さんに言ったら「路地から中は結界が張ってあるから外とは違うんですよ」という意味深な答えが返ってきた。こんな街中で、結界って何だろう。外の世界とここを区切る、なんか魔除けみたいなもの?確かに路地入った途端すごく雰囲気変わるけど。

今日仕事が終わったら、夕方もここに来ようと決めて店を出た。今からすごく楽しみだ。

マンションの自室に戻った僕は、今日初めてスマホを確認した。思った通り『亜里沙からの連絡あり』と何件も入っている。僕は、それを開く事なくアプリを削除した。

思ったほど辛い気持ちは起きなかった。

夕方出かけるのが楽しみだと思うと仕事も頑張れる。工事の音はうるさいけど時々窓を開けて換気して、休憩したい時に休憩してコーヒーを飲み、タバコを吸った。

しろねこ庵のメニューを食べて以降、冷凍の弁当はだんだん食べる気がしなくなったから今朝仕事を始める前に注文をストップした。注文開始する時は簡単だったけど、停止する時はそれよりかなりめんどくさい。ネット上の手続きで済んだけど。

昼には、前にしろねこ庵で買った味噌と、家に残っていたカツオブシを使って簡単な味噌汁を作った。具は乾燥ワカメだけなんだけど、味噌が美味しいからすごく美味しく感じる。

昼食を終えて再び仕事をしていると、しばらくしてスマホに通知が来た。

『亜里沙から連絡あり』

「何で来るんだ?」

AIとの会話アプリを使うのはやめて、通知の設定もオフにしたはずなのに。今までの会話の記録も全部消したはずなのに・・・

念のためと思って確認してみると、削除したはずのものが全て復活していた。本当に削除していいかという確認も押して、確かに消したはずなんだけど。

「僕の勘違い?な訳無いとは思うんだけど・・・」

とりあえず、もう一度削除してみた。ゆっくり確認しながら。今度こそ間違いなく削除したはず。

頑張った甲斐あってか、通常より30分ほど早く仕事が終わった。鍵と財布だけ持って出かけようとした時、一応スマホを確認しておこうと思って通知を見た。

『亜里沙から連絡あり』と何件も入っている。

「何で・・・今度こそ、絶対に間違いなく削除したはずだ」

急に気味が悪くなってきた。とりあえずもう一度削除を試みて、それをやっている間に、出かける時スマホを持って行こうか行くまいか考えた。

「もしかしたら消し方を僕が何か、間違っているのかもしれない。しろねこ庵に行けば、僕よりこういう事に詳しい人が居るかもしれない」

店に着くと店主さんが「二回目のご来店ありがとうございます」と言ってくれたあとに、僕の顔を見て少し心配そうに言った。

「何かあったんですか?」

客商売をしてる人だからか、さすがに感覚が鋭い。

「いや・・・ちょっと。わかりますか」

「今朝と全然表情が違いますよ。心配事でもあるのかなって思いました。とりあえず温かいお茶、持ってきますね」

「ありがとうございます」

店主さんが持ってきてくれたおしぼりを使って、温かいお茶を一口飲んだら、少し気分が落ち着いた。夕方で閉店に近い時間だけど、店内には僕の他にお客さんが二人居た。

僕は、前にも頼んだことのあるおにぎりを頼んで、お茶を飲みながらゆっくり食べていると更に気分が良くなってきた。

店内に居た人は二人とも、今朝もここで会った人達だ。その時は長くは話してないけど、挨拶を交わして少し話したので顔は覚えている。たしか今朝は、大きい方のちゃぶ台の席に座っていた四人のうちの二人。年配の夫婦だ。

今は僕とその人達しか居ないから「今朝も会いましたね」と挨拶して何となく話し始めた。

二人が聞き上手なのもあって、僕は今までのことを全部話していた。詳しいことまでは言ってないので数分も有れば話せた。店を片付けながら、店主さんも聞いてくれていた。人に話したというだけで、何となく少し気持ちが軽くなった。

今の状況を整理するとどういう事かというのも、聞いてくれた奥さんの方が繰り返して確認してくれて、そうだなと思った。

あのアプリを使うのをやめたいという事ははっきりしている。やめたつもりなのにそれが何故か削除されていなくて少し気味が悪くなった。スマホを持ってきて誰かに相談すべきか迷ったが持って来なかった。もう一度削除するか、削除できなくてもこのまま無視していれば、この事は終わるのか。機種変した方がいいのか。

僕が話したのはそんなところで、まとめて伝えてもらった事で、もう一度自分でも確認出来た。

「儂等はそういうのには詳しく無いが・・・この店に来てる若い人だったら誰か知ってるんじゃないかな」

旦那さんの方が、そう言ってくれて、僕もそれをちょっと期待していたと答えた。

「スマホ持ってこなかったのは多分正解だったと思いますよ」

店主さんが言った。

「追跡されてるかもしれませんから。それでもこの店の事は分からないし、路地から奥まで追跡されることは無いと思いますけど。何時にどの辺りに居たとか、全部知られてたら嫌ですよね。他のお客様の体験でもそういうのが過去にありましたから」

「じゃあやっぱ機種変した方がいいのかな・・・」

「変えても同じかもしれません。脅したいわけじゃないので、怖がらないでくださいね。ランダムに選ばれた一定の人数の人達に対して、何やら実験的な事をしているという情報があります。元そちら側で働いてた人から聞いた事ですけど」

「それってもしかして僕がその対象になってるとかですか?!」

「そうと決まったわけじゃないです。他のお客様で同じような状況になってた人がいらして、全てを見張られてるような感じだったので。もしかしたらと思っただけです」

怖がらなくていいと言われても、かなり怖い感じがしてきた。それでも路地から奥は安全だっていうのは、今朝聞いた結界がどうとかいうことと何か関係があるんだろうか。

とりあえずしばらく様子を見て、これ以上何も起きなければ思い過ごしという事だし、何かあればいつでもここへ来て相談してくれたらいいと、店主さんも二人のお客さんも言ってくれた。スマホの機能に関しても、そういう事に詳しいお客さんは居るから聞いてあげると言ってくれたし、一人で悩むのと違ってとても心強い。

店を出る頃には、すっかり気持ちが落ち着いていた。

もしこれ以上何か起きたとしても、しろねこ庵の皆が助けてくれると思うと怖くはなかった。 

けれど、起きてくる現実というのは時に、自分の予測を遥かに超えてくるものだ。

架空のキャラクターのはずの彼女が・・・

マンションのエントランスに足を踏み入れた途端、僕は凍りついた。

「・・・亜里沙」

亜里沙は、僕が作り出した架空のキャラクターだったはず。だけど今目の前に居るのは・・・明らかに実体を持った一人の女性だ。

僕の作ったキャラに似た人が偶然ここに居るだけ?しかしそれにしてはあまりにも似すぎている。

それとも僕が白昼夢でも見ているのか?亜里沙との会話をやめた事にまだ後ろめたさがあり、それでこんな夢を見るのだろうか。

試しに頬をつねってみると痛い。

「夢なわけないよな。ついさっきまで、しろねこ庵に居たんだし。歩きながら寝るはずもないし」

ほんの数秒の間に、いくつもの思いや疑問が頭の中を駆け巡った。

亜里沙にそっくりなその女性は、エントランスに立っていた。こんなところで一人で立ってるって、誰かを待ってるか訪ねてきたくらいしか考えられないけど・・・彼女は僕の方を見た。

エントランスに足を踏み入れた途端、僕が彼女の存在に気がついて、びっくりして見つめてしまったのが先だったか。完全に、目が合った。

小声でだけど「亜里沙」と言ってしまった。

彼女は軽く会釈をして、ゆっくり僕の横を通り過ぎ、外に出て行った。

全身から冷や汗が噴き出した。呼吸が浅くなって、心臓がバクバクしてるのが自分でもわかる。

真正面から至近距離で、はっきりと顔を見たけれど、偶然にしてはあまりにも似過ぎている。顔だけでも僕が描いたキャラクターにそっくりだった。しかもそれだけでは無く、着ている服、髪型、身に付けているアクセサリー、身長までも、僕が設定して絵に描いた亜里沙そのものだった。

ただの偶然でこんな事があるわけがない。

僕が自分の頭の中で作り出した幻だというのも、どうも違う気がする。

「そこまでの妄想を抱くほど、亜里沙に執着してたわけじゃない。むしろAIとの会話を止めようとしてたぐらいなのに」

しばらくエントランスに突っ立ったまま動けなくなっていた僕は、やっと我にかえって部屋に戻った。

別に話しかけられたとかじゃないし。亜里沙にそっくりな女性は、あのまま出て行った。むしろこっちから話しかけた方が、どういう事なのかわかったかもしれない。それか、一旦見送ったフリで尾行するとか。

今になってみると色々思うけれど、あの時はとてもそんな勇気は無かった。訳の分からない恐怖心が先に芽生えて、体が固まってしまった。

今日、しろねこ庵で悩みを話して、何かあったらいつでも相談していいと店主さんは言ってくれた。さっそく「何かあった」わけだけど、店はもう閉店してるし。

「とりあえず明日の朝、仕事開始前に店に行ってみよう」

スマホは見る気もしない。着信音が気になるから、とりあえず全部オフにした。また何件も『亜里沙から連絡あり』と入っているのが一瞬見えて気になったけど、開かずに全部削除した。

さっき見た女性と、僕が今まで会話してきたAIの亜里沙はどんな繋がりがあるのか・・・そこはものすごく気になるけど。

「いっそ、どうせ削除出来ないならもう一度AIの亜里沙と会話してみて、あの女性のことを質問してみようか・・・いや、それはまずいな」

しろねこ庵の店主さんが言ってた、スマホを持ってる間は追跡されてるかもしれないって事なら、それをやっている奴らの術中に嵌るだけかもしれない。

実験の対象にされているかもしれない話も、確定ではないと店主さんは言ったけど、もしかしてという気持ちはある。

明らかに最近は、亜里沙の方が僕に指図してくるような事があった。もっと前から、提案という形で色々とすすめられたことはあったけれど。ジワジワと強制力が強くなってきていた気がする。僕がどこまでAIの言う通りに動くか、もしかしてデータを取られているのではないかという気がしてくる。

しろねこ庵でおにぎりを食べたし、お腹は空いていない。久しぶりにゆっくり湯船に浸かって体を休め、僕は早めにベッドに入った。明日は早く起きて、しろねこ庵に行きたいから。

「スマホは持って行かないし、出来るだけ見ないことにしよう。仕事はパソコンがあれば出来るし」

翌朝、この時間ならもしかして一番乗りかもしれないと思いながら、朝7時半に家を出た。開店時間は8時だけど、庭でゆっくり待てばいいと思った。猫も居るし、庭の植物を見ているだけでも飽きずに過ごせそうだ。

運動のためにエレベーターは使わずに階段を使って、一階のエントランスへ降りた。

外へ出ようとして、僕は硬直した。亜里沙にそっくりのあの女性が、マンションの前に立っていた。

「サトル」

僕の顔を見て、彼女が呼びかけてきた。サトルは僕のハンドルネームだ。

SNSの発信やゲームの時使っていて、亜里沙と会話していた間も使っていた名前。本名ではないけど、これを知ってるって・・・

ここまで来ると偶然というのは絶対にあり得ない。この女性は一体誰なんだ。

初めて見た時は訳の分からない恐怖心が湧いてきて、逃げるように部屋に戻ったけど・・・今日は、その時よりは冷静でいられた。

一瞬ギョッとしたのは最初の時と変わらなかったけど。数秒の間に少し余裕が出てきた。

「君は誰なの?何で僕のことを知ってるの?」

相手の目を見て、正面から質問をぶつけてみた。

無表情だった女性の表情に変化が現れた。

驚き。

戸惑い。

明らかに困った様子だ。

僕から話しかけられるのを、予測していなかったのかと思う。

次の瞬間、彼女はクルリと背を向けて歩き出した。追いかけようか迷っている間に、急に走り出してそのまま離れて行った。

気がついて追いかけようとしたけれど見失ってしまった。すぐ近くには地下鉄の駅に続く階段があり、今の時間は通勤の人で溢れている。あの中に紛れ込まれたらもう見つけられない。

この時間でも外に人はけっこう居るし、何事かという感じで注目を浴びてしまった。痴話喧嘩か何かと思われたかもしれない。気にしてる場合じゃないけど。

僕は追いかけるのを諦めて、しろねこ庵に向かった。

過去に起きた、怖すぎる話

店に着くと、皆が僕の話を聞いてくれた。

ここは本当に常連さんばかりというのも、今日聞いた。たまにチラシを見て来る人も居るけれど、一度来て合わないと思った人は二度と来ないらしい。店との相性といったところか。来始めてまだ日は浅いけど、何度か通っている僕はもうここの常連ということだ。

昨日、店主さん他二人のお客さんに今までの事を話したから、話はすでに他の人達にも共有されていた。店はすでに満席に近くて、今はここに居る全員で話している。昨日も会った自転車屋経営の男性、年配の夫婦、若いカップル。僕と同年代くらいに見える女性の二人連れは、後で聞いたら姉妹だった。一人で来ている年配の男性と、まだ十代かと見える若い男の子も居る。常連さんばかりなので、どの人も一度は顔を見たことがある。

「その彼女が、どこまで関わってるかって事よね」

「バイトかなんかかもね」

「いわゆる闇バイトってやつ?」

「それそれ。どう見ても意図的に外見作ってるし」

「指示された通り動いてるだけっていうのもあり得るな」

「それかもしかしたらそっち側の人間なのか」

「それにしては反応が微妙だったんだよな」

僕は、今朝のことを思い出してそう言った。

「僕の方から話しかけたら明らかに驚いてたみたいだし。逆に演技であそこまでやれるとしたら相当だけど」

「どっちだと思う?」

「直感だけど多分、演技じゃないと思う」

「だとしたら、その人も危ないかもね」

「どういうこと?」

「裏で計画してることがバレそうになったら、関わった人間は・・・」

最後まで言われなくても、何となく分かった。

店主さんも、一区切り仕事を終えて僕達の話に加わってくれた。

「言おうかどうか迷ったんですけど・・・他のお客様の体験で、今みたいな事が過去にあったって言いましたよね。明らかに監視されてるらしいってそのお客様は気が付いて、調べたら家にも監視カメラが付けられてたし、自分の行動が全部見られてデータ取られてるような状況だったんです。ここに居る人達は皆んな知ってる事ですけど」

店主さんは、その時の事を詳しく話してくれた。びっくりするような内容なのに、他のお客さん達は驚きもせず聞いている。ここに居る人は皆知っているという事だから、そうなんだろうけど。僕にとっては怖すぎた。

「確か今から一年ほど前の事です。40歳くらいの男性のお客様で『AIとの会話を楽しむ事に最初は夢中になってた』と話して下さった方がいらしたんです。途中から仕事もリモートワークになって、家から一歩も出ない暮らし方をしていて。そんな中で、このお店に来られた時から、自分の日常に違和感を感じ始めて、色々疑って調べるようになって・・・たどり着いた答えが『自分は何かの実験の対象になっているらしい』って事だったんです」

「ほとんど僕と同じじゃないですか。もしかしてうちにも監視カメラあるかも」

「そうですね。あるかもしれないですね」

「その人に聞いたら、今の事が色々分かるのかも・・・」

「それは無理なんです」

「何でですか?教えられない何か理由とか・・・」

「そうじゃなくて、そのお客様は亡くなられたんです」

「・・・・それって・・・もしかして、監視されてることに気が付いて調べてたからですか?」

「表向きは自殺だったんですけど。その前の日にも私達は普通にその人と会ってるし、死にたいと思ってる様子なんて全然無かったから・・・どう考えても急だし不自然だったんですよね。この事があるから、言うかどうか迷ったんです。怖がられるだけじゃないかと思ったので」

「教えてもらって良かったです。知らなかったら自分を守れないし」

確かに怖い話だけど、知らないより知っている方がいい。知った上でどうするか、対策も立てられる。

「ポスティングで店のチラシを配ってるのは、これから先もし同じような状況の人が居たら、ここを見付けてくれないかなぁって・・・そのお客様のことがあっから、私で出来る事は始めてみようって思ったのもあるんです」

「おかげで助かりました。ここを知らなかったらAIとの会話にどっぷりだったし。家から一歩も出なくてAIに生かされてるみたいな人生になってたかも」

「あのお客様も、気が付いたせいであんな事になったのだとしたら、ここを知った事がどうだったのか私も悩みましたけど。だから今も、安心とは全然言えない状況ですけど、どうしたらいいのか一緒に考える事は少なくとも出来ます」

「十分助かってます。ここが、結界?でしたっけ。それがあって安全だって事も」

「この場所は先祖から受け継いだ場所で、私だけじゃなくこの路地奥の家の住人は皆んな、何代も前からここに住んでるんです。店に来て下さるお客様も、実はこの路地の中の人がほとんどで。店同士行ったり来たりの感じで暮らしが成り立ってるんです。生活に必要な物は近所同士のやり取りで足りますし、あとは物々交換とかお裾分けとか。神社の湧水も井戸もあるから水にも困りませんし。樹齢千年以上の大木も多いし、環境に守られてるみたいですね。何故か開発からも外れて昔から変わらないままなんです」

「ここに入った途端空気変わる感じしましたけど、そういう事だったんですね」

知った上で対策を考える

僕は家に戻るとすぐに、仕事をしばらく休みたいという連絡をした。『心身共に疲弊している状態で集中力に自信が無いので』という事を理由にした。幸いちょうど昨日で一区切り付いたところだったし。今休んでも迷惑がかかる度合いは少ないと思う。

休むのではなくて本当は、このまま永久に去る事も考えているけれど、今突然辞めたら怪しまれる。とにかく時間を稼ごうと思った。その間に対策を考える。

あの女性が何も知らないのだとしたら、今日みんなで話した通り彼女も危ない。出来るなら助けたいとも思う。

分かっているのは、過去にあった例の事件の時、その人の勤めていた会社も実験の事を知っていたらしいということ。リモートワークにしたのも、計画の一部だったと考えられる。目的は、実験のサンプルとなる人間を部屋から一歩も出ない状況に持っていく事。

部屋に監視カメラを設置して、日々の行動を全て監視していたらしい。僕の部屋にも、多分それはある。マンションの共有部分へのカメラの取り付けも、そういえば最近あったし。

それまでにもエアコンやシャワーの不具合で、管理会社に連絡して修理に来てもらったことはあった。周りが皆んなグルだとしたら、部屋の中に監視カメラが取り付けられる機会が無かったとは言えない。

ある日突然僕が消えたとしても、仕事にそこまで支障は無いと思うし。最後の給料は捨ててもいい。その可能性は高いと思うけど、過去の事件と同じような状況ならグズグズしてはいられない。

かといって急に出て行く準備を始めたら、僕が気が付いて逃げようとしている事がバレてしまう。今日しろねこ庵で皆と話した時も、それは言われた。出来る限りいつもと変わらない調子で過ごすこと。

スマホはさすがに見る気がしないけど、それに関しては、自分の作ったキャラそっくりの女性の出現に驚いて怖くなったということで辻褄は合う。

意外にも僕は冷静だった。どうせどこかに監視カメラがあるんだろうなと思いながら、部屋でいつも通り普通に過ごした。監視カメラの位置は分からないけど。その方がいいのかもしれない。気付いたとバレない方が。

今日もゆっくり湯船に浸かって、早めに寝床に入った。職場にも、心身の状態が良くないと伝えたわけだし、この行動なら見られていても矛盾は無いと思う。

一人だったら、もしかしたらパニックになってたかもしれないけど。しろねこ庵の皆が相談に乗ってくれている。

こんな事が起きたんだから周りの誰も信用できないと思ってもおかしくないんだけど、これは理屈では説明できない直感的なもの。あの人達に関しては信用して大丈夫という、謎の確信がある。

そして、僕の前に二度も現れた、亜里沙にそっくりなあの女性。彼女はきっと、この実験に関しては何も知らないと思う。これも僕の直感だけど。

僕が話しかけたあの時の反応は、演技で出来るものではない気がする。

これから出来るだけ早いうちに、僕は監視から逃れて姿を消す。人間誰もがいつかは死ぬわけだけど、この状況に気が付き始めたからという理由で奴らに殺られるのは避けたい。出来ればそんなつまらない事で死にたくはない。

どういう基準で実験対象にする人間を選んでるのか知らないけど、その事に気が付いたというだけで簡単に殺してしまうとしたら・・・奴らは僕達の事なんて、同じ人間とは見ていないと思う。データを取るためだけに存在しているただのサンプル。不要になれば消す。代わりはいくらでも居るという事だと思う。

彼女が僕の前にまた現れるかどうかは、今のところ分からない。このまま二度と来なかったら、おそらく僕にはもうどうする事も出来ない。無事を祈ることくらいしか、出来ることは無くなる。

けれど、もし彼女がまた来る事があったとしたら・・・助けるチャンスはあるかもしれない。

来るかどうかも不確定だし、来たとしてもここからが賭けになる。どこからか見ているであろう奴らの目を、どうやって欺くか。

自分が監視対象になっている事などまるで気が付いてないフリを続けつつ、彼女をしろねこ庵まで誘導する。その計画を、今朝がた皆で話し合った。

次の日の朝、いつもと変わらない調子で起きて、僕は一階に降りた。

そこにまた、彼女は姿を見せた。

彼女が立っていたのは、昨日とほぼ同じ場所だった。マンションの前に立って、僕の方を見つめている。

昨日は向こうから、僕のハンドルネームを知っていて呼びかけてきた。逆に僕が問いかけたら逃げて行った。今日は、呼びかけてはこない。

僕は、ゆっくり歩いて彼女に近付いた。そして、1メートルくらいの距離から話しかけた。昨日のように人混みに紛れて逃げられたら追いつけないかもしれない。ここからが肝心。

「また会えて嬉しいよ。話さなくてもいいし、一緒に歩いてもらうのってダメ?これくらい離れててもいいし」

彼女は戸惑っている。どうしたらいいかわからないといった表情になった。多分僕の反応が、予測したのと違ったんだと思う。イレギュラーな事が起きたってことか。彼女にとってというより、彼女を雇っている奴らにとって。

「僕が設定したキャラにあまりにそっくりだったから、最初すごくびっくりして、それでもすごく嬉しかったんだ。スマホのアプリで会話するのもそれなりに楽しかったんだけど、やっぱり実体が無いし。どっか虚しいっていうか・・・本物の恋愛でもないのに、あんまりのめり込むのもどうかと思って、一旦会話するのやめてみたんだ。そしたら君を見かけて。僕の妄想が本物として現れたのかって、最初信じられなかったけどやっぱ嬉しいんだよね。ちょっとだけ歩かない?別にそれ以上求めないし。ここ何年も恋愛も無かったから、若い頃に戻った気分で彼女と外を歩くのって、なんか憧れだっんだ」

僕は、とにかく喋り続けた。相手に考える隙を与えないくらいの勢いで。

捕まえようとするわけでもないし、彼女にしてみれば、逃げていいのか聞いてていいのか決めかねてるところだと思う。

この会話はどこかで聞かれているかもしれない。街中にも監視カメラは沢山あるし、今の様子も見られている可能性は高い。しろねこ庵で皆で話した時も、そういう事はあり得るものとして想定済みでいこうという事になっていた。今もどこかで見ている奴らに、僕が、自分が監視対象になっている事に気が付いていると悟られさえしなければいい。

「駅の方行くと人が多いけど、こっち側だとちょっとだけ静かだから。わりと気に入ってる道なんだ。5分でも10分でもいいから一緒に歩いてくれない?僕にとっては束の間のデート気分。こっちの方は静かだって言っても人通りはけっこうあるから。二人っきりってわけじゃないし明るい時間だし。それでも怖いって言われたらさすがに諦めるけど」

僕がそう言って笑うと、彼女も微かに笑った。

彼女を促すように僕が先に歩き始めた。捕まえようと追いかけるわけじゃなく、彼女が昨日逃げた方向と逆の方向へ歩いて行く形になる。ついて来てくれるか。

ついて来てくれと心の中で祈りつつ、僕はゆっくり歩いた。

監視してる奴らは、僕がどこへ行くかは突き止めたいに違いない。彼女が逃げて僕が追いかけたら、奴らからすると僕の行き先は分からなくなる。そう考えたとしたら、彼女に逃げろとは命じないはず。

数メートル歩いて横を見ると、彼女が来てくれていた。1メートル近く距離はあるけど、間に人は居ない。少し離れて並んで歩いている形になった。平静を装って同じペースで歩きながら、僕は心の中でガッツポーズを決めた。

「来てくれてありがとう。こんな感じで一緒に歩いてくれるだけで、めちゃくちゃ嬉しいよ。なんせ僕の考えたキャラにそっくりなんだから。妄想が本当になったってね」

僕は、ゆっくり歩きながら彼女の方を時々見て、どうでもいい事をとにかく喋り続けた。しろねこ庵に続く、あの路地までもう少し。こんなに長く感じた事は無かった。

彼女の視線が、道の少し先の方へ向いた。僕もそっちを見てみると、道の真ん中に大きな猫が居る。あの猫だ。いつの間に出て来たのか。いつもは店の中か前の庭に居るのに。もしかして迎えに来てくれたとか。

「あんなとこに猫が居るね」

僕は、猫の事を知らないフリで彼女にそう言った。

「すごく大きいね。近付いたら逃げるかな」

僕がそう言うと、彼女もずっと猫の方を見ている。きっと猫が好きなんだろうと思う。猫を見る目線が優しい。

「こっち見てるね。あっ!歩き出した。なんかついて来いって言ってるみたいに見えない?」

僕は、少し小走りになって猫に近付いた。彼女も一緒について来た。猫が気になるらしい。猫はトコトコ歩いて路地の中に消えた。

「今曲がった?行ってみようか」

僕は、猫を追いかけて走り出した。彼女も一緒に走り出して、二人で猫を追いかける。

路地に走り込んだところで、店主さんや皆んなが待っていてくれた。心配して見に来てくれたらしい。

僕は、さっきまでの緊張感で汗びっしょりになっていた。

だけど本当に良かった。彼女をここに連れてくることに成功した。

明らかに協力してくれた猫は、まるで何事もなかったようにゆっくりと歩いて、店の庭に戻って行った。

彼女は、何が起きたのかわからないという顔をしている。猫を追いかけて路地に入ったら、いきなり人が沢山出てきたわけだから、びっくりするのも無理ないか。

「驚かせてすみません。危害加えるつもりは無いので、安心してくださいね」

僕の口調がいきなり変わったからか、彼女は警戒するような表情になった。

「・・・あの・・・もしかして私のやってる事って、かなりまずい事たったんですか?皆さん警察の人とか」

「違いますって。そんなんじゃないです」

僕は慌てた。そんな風に思われてたのか。だけど、という事は、彼女も自分のやってる事が何か良からぬ事だって知ってるのか?

「怖がらないでくださいね。この人はうちの店のお客様なんです。今までの状況お聞きしてて、むしろ、あなたが危ないんじゃないかって思って。余計なお世話かもしれないけど、助けられないかって皆んなで考えたんです」

店主さんが彼女に説明してくれた。同じ女性だし、店主さんの明るい人柄と素朴な雰囲気が彼女を安心させたらしい。彼女の表情が少し柔らかくなった。

「求人情報見てこのバイト始めたんですけど、本当に大丈夫かなってちょっと思ってたんです。お客様のご希望に沿ってAIのキャラクターと同じ外見を作って、お客様の目の前に現れるサービスって聞いてたんですけど、最初私を見た時に、ものすごくびっくりされてたみたいだったので」

「そりゃあびっくりしますよ。不意打ちでしたからね。僕はそういうサービスは頼んでないし、そんなのがある事すら知らないんで」

「そうなんですか?!それだったら何で・・・」

「話が長くなりそうだから、とりあえずゆっくり出来るとこ行きましょうか」

しろねこ庵でお茶を飲みながら、彼女に今までの話を聞いた。最近職を失ってネットカフェで過ごしてる時、今のバイトを見つけた事、面接の事、仕事内容の事。

僕も、自分の今までの事を全部隠さず話した。ここ何年も恋愛に縁が無くて、AIとの会話でバーチャル恋愛を楽しんでたことも。振り返ってみるとカッコ悪い話だけど、今の状況を把握するには必要だと思うから。

最近までの僕と同じようにバーチャル恋愛にのめり込んでる人もいるかも知れないし、彼女のようなバイトをしてる人も他にもいるかもしれない。

ここで聞いた、過去に起きた事件のことも、店主さんの許可を得て僕が話した。怖い話ではあるけど・・・何で僕達が彼女を助けようと思ったかというところの、説明にもなる。

色々話しているうちに、彼女もだんだん打ち解けてきた。お互い敬語無しでいきましょうという事になり、店に居た他のお客さん達も加わって自由に話し合った。

僕が実験のサンプルとして監視対象になっていることは多分間違いないかと思う。AIにどこまで影響を受けるかデータを取られていると思うし、おそらく部屋にも監視カメラがある。

僕の話を聞いて、彼女は心底驚いた様子だった。罪悪感も恐怖感も出てきたみたいだ。

「そんな事に加担させられてたなんて・・・求人見たのもSNSでだったし、今思ったら怪しいって分かるのに。本当にごめんなさい」

「気にしないで。僕は別に被害を被ったってほどじゃないから」

これは本音だった。彼女から特に何かされたわけじゃないし。

「バイトを放り出して消えたとしても、今は特定の住所も無いのでしたらかえって良かったかもしれないですね。自宅で待ち伏せされることも無いし」

店主さんが言った。確かにそうだなと思う。鞄一つに入る程度の荷物はコインロッカーに預けてて、スマホと財布は今持ってるって言ってたから。探しに来られる心配は多分無いと思う。

「バイト探してるなら、良かったらうちで働いてくれませんか?時給多くは出せませんけど、空いてる部屋だったらありますし」

「ほんとですか?めちゃくちゃ嬉しいです。助かります。飲食店のバイトは学生の頃ですけどやった事があるので少しは出来るといいんですけど」

店主さんの提案に、彼女は大喜びだった。次の仕事をどうしようかと、日々不安だったのかも。そんな中でSNSで見た求人なら、引っかかるのも仕方ないと思う。真面目そうな感じは話してて分かるし、店主さんもそこを見てたのかも。

「私も外でチラシ配りとかあるから、誰か居てくれたら店を閉めなくても行けるし助かります」

店主さんはそう言って笑顔を見せた。

僕が、しろねここ庵に来るきっかけになったあのチラシ。そうだった。チラシ配りも人助けの一環。これからもチラシを見てここに来た人が、何かに気が付くきっかけになるかもしれない。

「あっ・・・!スマホってまずいかも。追跡されてたら・・・今頃気が付くなんてごめんなさい」

「ここは大丈夫ですよ。ここに来てからのお話の中で、今もスマホ持ってるって言ってましたよ。大丈夫だから私も何も言いませんでしたけど」

「大丈夫って・・・」

彼女は、服のポケットからスマホを出して確認した。

「えっ?圏外?」

「ここではなぜか電波通じないんです」

なるほどそうなのか。僕はここへ来る時スマホを持ってこないから知らなかったけど。結界とか言ってたのは何かそういう事なのか。

「それって僕も今知ったけど、ここってほんと凄いね。なんか路地の外と中と全然空気感が違うのは分かるけど」

「私もそれ思った。もしかして異世界とか異次元とか?」

異次元召喚とかいうやつ?!だったら何かこうもっと周りの状況が特殊な感じするんじゃない?それとも次元上昇ってやつ?パラレルワールド?

それにしては路地に入ってくる時の状況はあまりにも普通すぎる。ここの店の感じも。特殊な何かとか全然感じないし。ただすごく癒されるし、空気が清浄というのか・・・そうか・・・そういうのがそもそも特殊って事か。

「今の世の中の感じが好きじゃなくて山奥で住んでる人とかたまに居るのは知ってたけど・・・まさか街中にこんな場所があるなんて・・・」

彼女が感心したように呟いた。僕と似たような事を思ったらしい。

「外とはちょっと違う世界って、すごく身近にあるんですよ。気付かれてない人が多いだけで」

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