オリジナル小説 A Iの恋人 後編①

オリジナル小説 エッセイ

口座から金が全部消えた 

出来るなら僕もこのままここに居たかったけれど、そういうわけにもいかない。店主さんは、ここに居たらいいと言ってくれたけれど。前に助けられなかったお客さんの事を思っているようで、僕がマンションに戻ったら危ないからと言っていた。店に居た他のお客さん達も皆そう言ってたし、僕としても、怖くないわけじゃない。

僕を実験のサンプルとして考えている奴らの立場から考えれば、今の状況は失敗とも取れると思う。以前、自殺に見せかけて消された人は、自分が実験のサンプルにされている事に気が付いた。その人は、自宅に監視カメラがある事なども発見していて、奴らの側からするとかなりまずい状況だったはず。その事が明るみに出る前に、おそらく「実験失敗」として即座にその人の命を奪った。

殺人を何とも思っていないような連中だ。僕だっていつ消されるか、分かったもんじゃない。

路地の中に居れば見つかる事も無いし安心だからと、皆が言ってくれるのはありがたい。だけど、部屋に置いてきた物で、どうしても回収しておきたいものがある。この店の場所を示したチラシ。それに、ここで買った味噌。パッケージには店の名前が書いてある。

初めてしろねこ庵に行ったあの日、行き先は知られていないにしても、あの時外に出たのをきっかけに、僕の行動が変わり始めた事までは、奴らも気が付いていると思う。

あの日、帰ってきた時点ではまだA Iの亜里沙と少し会話したけど。しろねこ庵の名前も場所も会話の中では言っていないし、今はまだ知られてはいないと思う。

けれどもしこれから、この店の場所を知られてしまったら・・・店に迷惑がかかるのだけは絶対に避けたい。しろねこ庵のおかげで、僕は自分が実験対象になってることに気が付いたのだから。人生が大きく変わったと言ってもいい出来事だと思う。

もし知らなかったら、あのまま部屋から一歩も出ない生活を続けて、AIに誘導されるままに生きてたと思うとゾッとする。AIの機能はどんどん上がっていて、人間を超える日は近いと言われてたり、そうなると人間の仕事が無くなるんじゃないかと心配する人は多いけど。そっちよりもむしろ、AIに導かれるままに人間の感覚がどんどん鈍っていき、自分で何も考えられない機械のような人間が増える方が恐ろしいと思う。AIと人間のハイブリッドみたいな、本来の人間とは違う存在になってしまって、そんな人間がどんどん増えていったら・・・奴らはそれがやりたいのかもしれない。

どういう基準で選んでるのか知らないけど一定の人数の人間に対して、AIの誘導通りに思考させ動かす事が出来るかの実験をやっている。その中のサンプルの一つとして、何故だかわからないけど僕も入れられていたという事だ。自分では全く気がつかないうちに。

サンプルに選ばれてしまっている他の人達も、きっとそうなんだと思う。

今のところ、僕がどこまで気が付いてるかまでは、奴らは把握していないと思う。何かのきっかけで外へ出て、その時を境にAIとの会話をやめた。分かっているのは多分これだけ。どこへ行ったのがきっかけで、どこまで知っているかは不明のはず。努めて普段通りに過ごしてるし。それを考えると、すぐに僕を始末しに来るとは限らない。

マンションに帰るとすぐに、机周りを片付けるフリをしながらチラシを財布の中に移した。

マグカップで味噌汁を作って飲む用意をしながら、味噌のパッケージを外して手の中に丸め込んだ。後で財布の中にでも移しておこう。

監視カメラがどこにあるのかはまだわからない。見られている事を想定して、不自然にならないように振る舞った。

来月分の家賃は数日前に引き落とされているはずだし、あと一ヶ月足らずのうちに業者さんに連絡して荷物を処分してもらおう。大して多くない荷物だから、そう目立たないと思う。

管理会社に連絡して退去を告げて・・・たしか一ヶ月以上前に言わないといけない契約だから、もう一ヶ月分は家賃払う事になるけど。

「それは払うとして・・・ある程度現金持ってた方がいいかも。明日引き出しに行くか」

いくら残高があるか確認しておこうと、僕はパソコンに向かった。

「・・・何?!嘘だろ?!」

思わず声が出た。もし盗聴器とかあるとしたら、確実に聞かれていると思う。

残高がゼロになっている。

見間違いかと思ってもう一度見直した。

やはり間違いない。残高はゼロだった。

いつも通りの日に、家賃の分は引き落とされている。その前には公共料金も。問題はその後だ。

間違いなく、残っていた金額の全てが引き出されていた。

パソコンの画面を見つめたまま、しばらく震えが止まらなかった。

「これからどうしよう。引っ越し費用も足りないかも・・・」

財布の中を確認すると、現金が二万円くらいは残っている。

電子マネーの方はどうだったか・・・しばらくぶりにスマホを見た。

削除したアプリが勝手に復活しているのも『亜里沙から連絡あり』のメッセージが溜まっているのも予想の範囲だからもう驚かない。そんな事よりも大変な事が起きたから、そっちに神経が行っているのもあるけど。

大変な事はそれだけでは終わらなかった。電子マネーの方も、どれもことごとく残高がゼロになっている。

「こんな事って・・・」

衝撃が大きすぎて頭の中が真っ白になった。今までに一度も、アカウント乗っ取りや盗難に遭った事なんて無かった。そういう事に関しては用心深い方だし。まさかこんな事が起きるなんて、完全に予想外だった。

「誰かにパスワードを知られた?」

パスワード使い回しはしてないし、すぐに推測されそうな数字や記号は使わず、長くて複雑なパスワードにしているし、定期的に変更もしていた。

「相当に気をつけていたはずなんだけど・・・」

起きてしまった事は仕方ない。

「警察に届けるか・・・」

だけど・・・この事と、僕が奴らの実験対象になってる事と、何か関係があるのか?僕がそれに気がついているという事は、奴らには知られていないはずと思うんだけど。もしかしたらそう思ってるのは僕だけで、既に何もかも知られているのか・・・

予定では、仕事を休んでいる間にマンションを引き払うつもりだった。それが済んでから、僕の身に起きた事に関して職場がグルなのか、出来るなら調べようと思っていた。

けれど今の事態で、それどころではなくなった。次の水道光熱費の引き落としにも間に合わない。

「とりあえず止められるものは全部止めないと・・・ネット上で完了出来るものもあるし・・・」

頭の中で忙しく考えながら、とりあえず最低限の荷物をまとめた。スマホ、ノートパソコン、洗面用具、タオル、着替え・・・バタバタしているのは監視カメラで見られているだろうし、あやしい行動と見られているかと思うけど気にしていられない。

階段を駆け降りて、僕はしろねこ庵へ向かった。

僕が会社の金を横領した犯人?

しろねこ庵に着くと、大変な騒ぎになっていた。

今朝ここを出て、戻ってくるまでせいぜい1時間ぐらいだったけど。この間に一体何があったというのか。

店主さんもお客さん達も、亜里沙にそっくりな彼女も、店の真ん中に集まって何やら話し合っている様子だった。

「大丈夫でした?!よく無事に戻ってこれましたね」

僕の顔を見るなり、店主さんがそう言った。

「皆んな集まってどうしたんですか?何かあったんですか?」 

「家に警察が来なかった?」

「・・・いいえ。何で・・・」

「会社の金を横領したって疑われてるみたいだぜ」

お客さんの一人が教えてくれた。

「実名は出てないけど、これ多分そういうことじゃない?」

ネットのニュースを見せてもらうと、明らかに僕のことだと思われる容疑者のことが報道されていた。会社名も部署も僕が属している所だし、間違い無い。

【容疑者は勤続年数14年。犯罪歴は無い。現在リモートワークで、数日前から心身の不調を理由に休職していた36歳の男性職員・・・現在得られているいる情報としては、賭け事にのめり込んで多額の借金があり金に困っていた・・・】

「嘘だ。さっき帰ったら、口座にあった金が全部引き出されていたんだ。それ以外も全部・・・財布に残ってる現金しかなくて、これからどうしようって思って・・・僕は賭け事には興味無いし借金だって無い。もちろん会社の金なんて盗んでない」

何が何だかさっぱり分からない。あまりのことに、頭がグラグラして吐き気がしてきた。

「大丈夫?顔色悪いよ」 

「私達はもちろん、この内容が本当だなんて思ってないから」

店主さんも、ここに居る皆んなも、口々に励ましてくれた。

「おそらく、嵌められたんだと思うよ」

奴らにとって実験が失敗だったとするなら、僕は用済みというわけだ。気付いていることを知られたら、消される可能性はあると思ってたけど。物理的にでなく、社会的に抹殺するつもりなのか。ある意味殺されるよりも悪いかもしれない。

「生きてさえいればまだ何とかなるから、あきらめないでくださいね。私も、ここに居るお客さん達皆んなも居ますから」

店主さんはそう言ってくれた。

「だけどそれだと皆さんに迷惑が・・・」

容疑者をかくまったとなれば、ただでは済まない。

「誰も迷惑なんて思ってないよ」

お客さんの一人がそう言って,他の皆も頷いてくれている。

「ここは大丈夫だから。とりあえずここにいてください。後のことは、これから皆で考えましょう」

店主さんの言葉が、力強く胸に響いた。

ありがとうございますと言ったつもりが、声にならなかった。

不覚にも涙が溢れて止まらなくなった。

人ってこんなに温かいんだ。

仕事も,お金も、社会的信用も、全て失ってみると、けっこう開き直れるものだと自分でも驚いた。病気になった時の備えや老後の備えの事を考えてチミチミと貯めた貯金が、一瞬で消えたのを見た時は茫然としたけど。

状況から考えて、おそらく会社もグルだし、僕が実験のサンプルになっていることは知っているのだと思う。

更に上の立場の、実験を行なっている組織にはもっと力があるだろうし、個人の権利など簡単に握りつぶせるに違いない。そうなると警察に行って話したって、まともに取り合ってもらえないのは目に見えている。会社が捏造した証拠を出してきて、犯人にされたらたまったもんじゃない。

過去を捨てる

僕は覚悟を決めて、逃げられるだけ逃げようと思った。それでももし逃げられなくなったら、捕まるよりは自分から命を捨てる方がいい。そこまで思ってしまうと、何故か恐怖心が薄れていって腹が据わった。

自分の中で、本名は捨てようと思った。これから先逃げ回るなら、どうせ使えない。使えないなら忘れた方がいいくらいだ。この名前で生きていた今までの人生にも、もう未練は無い。

生まれてから最近までの三十数年間、僕の中で「安定」だと信じていたものは、全て幻だったのだから。

ハンドルネームで使っていた「サトル」をそのまま使う事にした。使い慣れてるから馴染みがあるし。奴らにも知られている名前かもしれないけど、よくある名前だから、それだけで僕を特定されることは無いと思う。

僕の作ったキャラにそっくりな彼女は『亜里沙』という名前がけっこう気に入っているから使っていいかと聞いてきた。断る理由もないし、僕も何となく呼びやすいし、もちろんOKした。

化粧を落とした彼女は、AIの亜里沙の絵とは雰囲気がかなり違っていたけれど,すごく魅力的で可愛らしい顔立ちだった。

路地の中にある美容院で、髪をバッサリ切ってベリーショートにして、更に感じが変わった。しろねこ庵の隣の古着屋で亜里沙が買ったのは、派手な柄のシャツとジーンズだった。

彼女も、今までの自分をリセットしたい気持ちがあると話していた。大きな会社に所属して日々真面目に生きていれば悪い事は起きないという今まで信じてきた「常識」が全部崩れたからだと言う。突然失業して、おまけに住む場所も失い、見つけたバイト先では嘘を吐かれて怪しい仕事をやらされたとあっては、そう思うのも無理はない。

今までと違う見た目、名前、新しい住所、仕事。それを手に入れた彼女は、すごく生き生きして見えた。AIのキャラに寄せて作り込んだメイクをしている時よりも、すっぴんの今の方が、何故か輝いていて美しいと思う。

ここの人達の好意に甘えることにして,僕は空いている部屋を貸してもらった。しろねこ庵から数軒離れたところの、老夫婦が住んでいる家の離れで、今は使っていない部屋だった。

「物置になってるから物が多くて悪いけど」と言われたけれど、入ってみると案外綺麗だった。日々換気して,定期的に掃除もされているらしい。

物が多いと言っても整頓されているし部屋の隅の方に寄せられていて、空いている部分だけでも四畳半くらいのスペースはあった。大きめの窓もあるし、木の床には温かみがある。

近所の皆がビールケースや板を持ち寄ってくれて,簡易のベッドを作ってくれた。布団は、ここの家の老夫婦が貸してくれた。

僕が手伝える事として、薪割り、風呂炊き、掃除なんかをしてくれるなら家賃や水道光熱費は要らないと言ってくれた。ものすごくありがたい。

いつまでもそれでは悪い気もするけどとりあえず今は、好意に甘えるしか他に方法が無い。

近所にもお年寄りは割と多くて、若くて力仕事が出来たりパソコン作業が出来る人間は重宝されるらしい。数日暮らしてみて、実際けっこう役に立てているのが実感出来た。今までは出来て当たり前と思っていたことが、ここではけっこう重宝されたりする。

お年寄りの人からすると、若くて体力があるというだけでも頼り甲斐があるみたいだし。喜んで貰えると素直に嬉しかった。 

逆に、僕が知らなくてお年寄りの方が知識が多い事もあるから、そういう事は聞けるから助かるし。

自分が横領の容疑者としてマークされている事など、ここに居て平和に暮らしていると忘れそうになる。

外の情報はネットで調べたり、近所の誰かが時々路地の外へ行って様子を見てきてくれる。

この場所はすごく不思議なところで、路地の中から外へは自由に出られるし外の様子を見られるけれど、外から中へ誰でも入れるかというとそうではないらしい。

ポスティングされているチラシを見て店を探そうとするけれど,そんな路地などどこにも見当たらない。それで諦めて、探すのをやめてしまう人の方が多いらしい。僕は普通に入れたから、それを聞いた時は心底驚いた。

店主さんが言っていた「結界」とはそういう事なのかと理解した。波動が違う人達からは見えない場所。

「ここは安全だから」と、やけに確信持った様子で断言してくれたのは、そういうわけだったのかと後からやっと理解した。



僕がここで暮らし始めて半月くらい経ったある日、更にびっくりするような情報が入ってきた。

【横領事件の容疑者の交際相手らしい女がその頃、容疑者の住むマンションに出入りしていた事が掴めた】と、ニュースで流されているらしい。

【その後に容疑者の男は、証拠隠滅のためか仕事で使っていたノートパソコンを持ち出して行方をくらました。容疑者宅に出入りしていた女は共犯かもしれない】などと言われている。もうめちゃくちゃだ。

亜里沙は、あのバイトに応募したばっかりに【容疑者の女で共犯者】にされてしまったわけだ。

これを聞いた亜里沙本人は「ここまでデタラメを並べられると逆に呆れ果てて笑える」と言っていた。

「あのバイトに応募したのも自分だし、仕事内容の胡散臭さを見抜けなかったのも自分だから仕方ない」とも。けっこう度胸が据わっているのかもしれない。それと自分の身にこういう事が起きて、価値観が変わったのもあるかも。それは僕もだから分かる気がする。

世間からよく思われたいとか、ちゃんとした生き方をしなければとか、安定した人生とか、そんなのはもうどうでもよくなった。これ以上悪く思われようが無いところまで落ちたわけだし。

そして、それでも僕自身は日々平気で生きている。今の生活、日常の中で、困った事は何も起きていない。

以前は、世間から悪く思われたり常識から外れたら人生終わりだと信じていたし、年収が少しでも下がったら生きていけないと信じていた。ところが実際そうなってみると、何も困らずに生きていける事に今更ながら気がついた。

むしろ今の生活の方が、以前より快適だし体の調子もいい。僕が長年信じ続けていた世界って、一体何だったのかと思う。

ここでの暮らしが続いてさらに数ヶ月

ここで暮らし始めてから、もう五ヶ月が過ぎた。その間に季節は秋から冬に変わり、春が巡ってきた。

季節の移り変わりを、こんなにはっきりと体感した事が、今までの人生であっただろうか。子供の頃を思い出すと、少しはあったかもしれない。けれど大人になってからは、季節を意識することなど無くなっていた。

リモートワークになる前は通勤もあったから、一応外には出てたけど。真夏や真冬に「暑くて嫌だなあ」とか「寒くて嫌だなあ」とか、それくらいしか感じていなかった。

ここにいると、生活の全ての中に季節を感じる。路地の中の木々は、冬になると葉を落とし、春には再び新芽が現れ、若々しい緑の葉を見せてくれる。春になると元気に成長し始める草花。その季節にしか収穫出来ない野菜や果物。季節の素材を使った料理。

日常の暮らしというのは案外忙しいもので、枯れ枝を集めたり薪を割ったり火を起こしたり・・・体を動かす事、重い物を運んだりする事が多くなったからか、気が付けば随分体格が変わっていた。ジムで鍛えなくても勝手に筋肉が付いた。

スポーツや格闘技が得意な人も近くに居るので習うようになり、更に体力も筋力も瞬発力も増していった。食べ物が変わったせいもあるかもしれない。

屋外に居る事が多いからか、日焼けして真っ黒になってきた。髭を剃るのが面倒になってそのままにしていると,その方がいいと周りの皆も言うし剃らない事にした。髪も一度も切らずにいたら伸びてきたので、紐で一つにまとめている。

会社に属していた頃と違って服装や髪型も自由で「きちんとした身なりをしなければ」という制限が無くなった。

「きちんとした言葉で話さなければ」という感覚もだんだん無くなってきて、周りの皆んなと気さくに話せるようになった。

一人称が「僕」から「俺」に変わった。会社員になる前はそうだったから、こっちの方が自然だ。

服装も、デスクワークより外での作業に適したものになった。学生の頃に戻ったような感じ。いや、それよりももっと自由かもしれない。

ここ数ヶ月で、見た目も考え方も、以前とは別の人間になったような気がする。

亜里沙とは、何故かすごく気が合った。大変な目に遭ったという共通点も関係してるのかもしれないけど。

この場所で日々生き生きと生活している亜里沙は、俺が以前設定した『AIのキャラクターの亜里沙』とはまるで違う。見た目も声も性格も。

そして俺は、今目の前に居る彼女と方がずっと好きだ。バーチャル恋愛じゃなくて、リアルな恋愛。

好きだという気持ちを自覚してから、成就しなくても全然かまわないと思って告白するまで、ほとんど迷わなかった。
実験のサンプルとして用済みになり、奴らの手にかかっていつ消されるかわからないと思った時から、これを言ったら相手にどう思われるかとか、そんな心配は一切しなくなった。

気持ちを伝えた時、亜里沙は一瞬びっくりしたみたいだけど「ありがとう」と返してくれた。その時から明らかに、二人の距離が近付いたように思う。それまで以上に何でも話せる間柄になった。
しろねこ庵でも毎日会うし、他の皆も交えた日常の作業でも一緒にやる事は多かった。

告白から一ヶ月くらい経った頃に、お互いの気持ちをもう一度確かめ合って、付き合おうという事になった。ためらわずに気持ちを伝えた事が、結果的に良かったということか。
だけど、もし告白が失敗で、バッサリ断られ距離をあけられたとしても、以前のように落ち込みはしなかったと思う。告白したことを後悔する事も。
一度最悪の状況まで落ちて、いつ殺されてこの命が終わるか分からないというところまで覚悟が決まると、怖いものは無くなるらしい。
今伝えたいと思った事は今すぐ伝える。今やりたいと思った事は今すぐやる。明日死んでも後悔しないくらい、今日を全力で生き切る。それがいつの間にか、自分の中で当たり前になった。

一週間くらい前だったか、路地の外に偵察に行ってくるという数人が、一緒に行かないかと誘ってきた。見つかったらどうするんだと思ったけど「見られてもまあ分からないと思うから」と言って皆んな笑ってるし。

それならという事で出てみたら、本当にそうだという事が分かった。
以前勤めていた会社の近くまで行って、真正面から歩いてくる同僚とすれ違った時、更に確信した。明らかに目が合ったのに、彼は全く気がついていなかった。自分では、そこまで変わったという自覚は無かったけど。
見た目そのものもそうだけど、醸し出す空気感が以前とはまるで違うと、皆が言ってくる。多分内面が変わった事によって、面構えが変わったんじゃないかとも言われた。少しずつ変わっていくから、自分では分かりにくいのかもしれない。

この数ヶ月で、ここに居る人達からあらゆる事を教わった。自然の中から食べ物を調達し、調理して食べる方法。薪割り。火の起こし方。食べられる植物。自分の身を守るための事前警戒、護身術。格闘技。人の気配を素早く察知する方法。自分の気配を消す方法。怪我をした時、体の具合が悪い時の対処の仕方。薬草として使える植物。民間療法。作物の育て方。自転車、バイク、車、家屋の修繕。植物、鉱物、動物など、人間以外の存在とのコミュニケーションの取り方。雲の動きを見て天気の移り変わりを予測する方法。

人が考えていることも、言われなくても即座にわかるようになってきたし、人以外の存在でも同じだということが分かった。
日常の暮らしの中で、直感,閃きがよく降りてくるようになって、自分で考えて工夫が出来るようになった。頭だけで考えるのでなく、感覚を使えるようになった感じ。
お年寄りから子供まで、この路地の中の人達は皆んなそういう感覚を当たり前に持ってる。
その中でも、しろねこ庵店主の若菜さんは特に不思議な人だ。最初見た時、同年代くらいかなと思ったけど45歳だった。すごくエネルギッシュで若く見える。

店の仕事や日常の仕事で忙しく動いているかと思えば、突然その辺のベンチに座って、ぼーっとしている時がある。瞑想か何かしてるのかなと思って見てると、しばらくしたらゆっくり立ち上がって歩き出す。そして、さっき過去のこの時点に行ってきたとか普通に言う。時空を移動できるのかこの人は・・・

「ちょっと忘れてた事があったから」とか「確かめたい事があったから見に行ってきた」と、まるで近所に野菜を買いに行った話でもしているように気軽に言う。皆んな慣れてるみたいで、そういうもんだと思ってるみたいだけど。俺はまだとてもそこまでは出来ない。

ここに居ると、いずれそんな事も出来るようになるかもしれないと思えてくるけど。

実験の失敗

※※※※※
マンションの部屋へ行ってみると、部屋の真ん中に若い男女が倒れていた。何の疑いもなく、さっき私が持っていったワインを飲んだらしい。

自分達では買えないような高級品だから、嬉しかったのかもしれない。

苦しんだ様子もあり、まともに顔を見るのはさすがに気分のいいものではなかった。

頸動脈に触れて、死んでいる事を確かめた。「完了」の連絡をすると「そこで待て」という指示が返ってきた。自分の人生の中でまさか、こんな仕事をすることになるとは思わなかった。実験の失敗。

その証拠になるもの、関わった人間は、全て消さねばならない。実験の失敗とその情報が、余計な者の目に触れる前に。

サンプルNo.0561-m3-74。あの男が、ある時外へ出たのをきっかけにAIとの会話を突然止めた。100%に近い成功率を誇っているこの計画で、たまたま私達の受け持ったグループで、失敗例が出た。

この時はまだ、上司も挽回できると思っていたし、チーム全員そう思っていた。ところが、悪い事はそれだけでは終わらず、その後の実験でも更に失敗が重なった。

サンプルの男が設定したAIのキャラクターに似せた人物を作り上げ、目の前に出現させる。最初うまく行っているかに見えたこの実験の結果が、大失敗だった。サンプルが外で姿をくらまし、バイトで雇った女まで一緒に姿を消した。

これを揉み消すために、さらなる手間をかけなければならなかった。サンプルの属していた組織内に潜り込んでいる、工作員の協力を得て、横領事件を捏造した。それで何とか世間の目は誤魔化せたが、実験の失敗は挽回出来なかったし不要な手間がかかり過ぎた。

私の上司は、この責任を取らされて今はもう生きていない。あの方は、上司を殺す前に、失敗した実験に関わった者達を次々と殺させた。上司は、最後に自分が消されるとは予想していなかったと思う。助かりたい一心で他の者を殺していく。人間は追い詰められると、理性なんかぶっ飛んでそういう行動に出るものらしい。

『人間のそういう様子を見るのが大好きだ』と、あの方は言っておられた。

バイトの求人を出しDMでやり取りした者、雇った女の面接を担当した者、現地までの車の運転を担当した者を、次々に「殺せ」と、あの方は上司に命じた。全員、身体にマイクロチップが入っているから、遠隔で心臓を止める事など簡単なはずなのに。あえてそれをしないのは『人間が人間を殺すところを見るのが楽しみだから、一瞬で簡単に殺したのではつまらない』と言って笑っておられた。

殺される者の感じる恐怖,殺す方の者が精神的に追い詰められていく様子、実行する時に感じる不安や恐怖。そういった感情のエネルギーを出来る限り多く吸収する事で、あの方の力は更に強大になるらしい。

上司が死んだことで、たまたま私は直接会うことが出来たけれど、普通ならとても会えない高貴な存在だ。上司でも、初めて会えたのはわり最近だと言っていた。あの方は滅多に人前に姿を現さないらしい。

これも以前、上司から聞いた事があったが・・・あの方は、普通の人間ではなくて、人間よりずっと強く聡明で特別な存在の血を濃く受け継いでいるらしい。その存在とのハイブリッドのような存在という事だった。

普通の人間りもずっと長く生きて、特殊な能力も持つ、神に近い存在。私の立場では、これまでとても直接会う事は出来なかった。

そして、この地球上の全ての存在の頂点には、あの方よりも更に上の、もっと大きな存在が居るらしい。その力は計り知れない。

上司が殺された現場は見ていない。あの方が「始末した」と言っておられて、その後すぐにマンション屋上からの飛び降り自殺があったと聞いた。

それが私の上司だと知ったのは、それから間もなくの事だった。自殺に見せかけて殺すというのは、まだ手ぬるい方らしい。

拷問の果てに,生きたまま切り刻まれて死んでいった者もいると聞く。

その場面を映像に収めて他の者達に見せると、誰も逆らわなくなるという事だが・・・当然そうだろうと思う。私は見せられた事が無いが、想像しただけで恐ろし過ぎる。

ここで待っていて、これから何が起きるのか。失敗の責任を取らされて上司が殺されたという事は、失敗に対する処罰は終わっているはず。けれど、この二人に関しては上司ではなく私に殺させたのはどういう意味があるのだろう。まさかとは思うが、あの方は、私に対しても死ねと言うのだろうか。

いっそこのままどこかへ逃げたい気持ちにもなる。しかし、組織の中でずっと生きてきた私に、今更逃げる場所など無い。組織の中で少しでも貢献し、認められ、上に上がれるように、弛まず努力してきた。子供の頃からずっと、周りから大きな期待をかけられるほど優秀でもあった。自分は選ばれた存在で、特別な存在だと思ってきた。思考停止でAIに誘導されるままにただ従うだけの下々の人間達とは、立場が違うと思ってきた。

けれどそれならば、私の上司にしてもそうだったはずなのに・・・一つの失敗があったという事は、それほどに許されない事なのか。

連絡が入り、内容を見てみると『現場はそのままにしてマンションから出ろ。下まで降りろ』という指示が入っていた。

現場には、私の指紋が残っているはず。犯罪歴はもちろん無いが、私のやった事だと確実にバレずに済む方法はあるのだろうか。入る時、人には見られなかったが・・・

考えながら下に降りると、マンションの前に車が待っていた。どこに行くのか分からないが、乗らないわけにもいかない。運転手が一人、助手席にもう一人。二人とも男性だ。私が乗っても二人とも無言で、車は走り出した。

どんどん山の中へ入っていくし、どこまで行くのかと思ったところで車は止まった。降りると、数メートル先に立っている人の姿が見えた。

「実験に失敗したサンプルを見失った挙句、結局見つけられなかったようだな。バイトで雇った女にまで逃げられている。早く始末しろと言ったのを忘れていたのか?」

決して脅すような調子ではなく淡々とした口調で、その人物が問いかけてきた。

そして一歩ずつ、こっちに近づいてくる。

怒鳴られたわけではないのに、体験した事の無い恐ろしさに体が震えた。

2メートル近い長身の男。黒づくめの衣装。

恐る恐る相手の顔を見上げると、表情の無い蝋のように白い顔に瞳孔が縦長になった爬虫類の瞳が見えた。首筋、手の甲は爬虫類の様な鱗に覆われて光っている。

上司からも聞いていた、人間よりもずっと大きな力があり高貴な存在というのが・・・今目の前に居る、この方の事なのか。聞いていた外見の特徴はそのままだった。 

「私は数ヶ月も待ったのだが、お前達は実験失敗のサンプルを始末出来るどころか、発見することさえ出来なかった。ここまでの失態を見せておいてまだ言い訳をしようとは、まさか思っていないだろうな」

相変わらず、淡々とした口調で伝えられる言葉。

怒りや失望は伝わってこない。

ただ、起きた事を淡々と語っているだけのような・・・

それなのに何故こんなに恐ろしいのか。

言い訳は聞かないという事は・・・私には助かる道は無いというのか。

それとも何か言えば・・・一体どうすればいい。

「ここまで来てまだ何とかして助かろうと思っているようだな。意地汚く生にしがみつく人間の愚かさにはうんざりする」

私の考えている事は、全部読まれているのか・・・

「お前はここで首を吊って死ね。犯行がバレそうになって、自分から命を絶ったという筋書きだ。あれだけの失敗に対して、最大限譲歩してやったことをありがたく思え」

指差された先を見ると、木の枝にロープがぶら下がっている。

まさかこんなところで、私の人生が終わると言うのか。

今まで懸命に努力して生きてきた人生は何だったのか。

こんなところで終わりたくない。

反射的に私は逃げた。山の斜面を駆け下り、転びながら。

振り向くと二人が追いかけてきている。

さっき車を運転してきた男と、もう一人の男。

何かが飛んできて、足を取られた。

倒れたところに二人が飛びかかってきて、必死で暴れたが逃れようが無かった。

首にロープがかかり、締め上げられていく。

ここで死ぬのか・・・

「後で死体を木にぶら下げておけ」

あの声が、そう言ったのが微かに聞こえた。

※※※※※

店を訪ねてきた若い男性 

ここで暮らすようになって一年足らず。外の世界では俺は相変わらず横領事件の容疑者だけど、その事件の事もだんだん報道されなくなっていった。そのうち忘れ去られるんじゃ無いかと思う。実際、俺の中ではもう終わった事・・・というか、そもそも濡れ衣だし。

自分自身が、価値観も生き方もガラリと変わって、過去とは全く違う人間として生きているからか、外で起きている事は自分とは関係ない遠い世界の事のように思える。店のチラシを配りに外へ行く事はあるけれど、誰も俺だと気がつかないし、もう気にする事すら無くなった。

亜里沙とは一緒に暮らし始め、うまくいっているし、近所の人達とも親しくなった。一生困らずに生きていける気はするから、余分な貯えや収入が無くても全く気にならない。

以前のように熱心に定期検診に通う事も、沢山の保険に入る事も、病院へ行く事も無くなったから、金もかからなくなった。

ここで学ぶのは、今の人生を楽しんで生きるために必要な事。ここの人達は、それを惜しみなく教えてくれる。俺も、自分の持っているパソコン操作に関する知識は、惜しみなく提供する。

薪割りを終えて、一旦休憩。切り株に座って握り飯を食べていると、亜里沙が昼休憩で出てきた。大体いつも通り。店の忙しさが一段落する時間だ。

普段の二人の話題は、ほとんどがここでの日常のこと。以前の出来事は、考えてみればそう遠い過去のことでも無いのに、遥か遠い昔の事ように感じられる。もしかしたら、ここに来るまでの人生の方が全部夢だったんじゃないかとまで思えてくる。

亜里沙も近くの切り株に座って、店のまかないのサンドイッチを取り出して食べ始めた。

「これね、今試しに作ってるやつなんだけど」

「新メニューなんだ」

「そう。私が提案したんだよ」

「具はトマトと・・・」

「水菜」

「なるほど。サラダでもいけるもんな」

「一つ食べてみる?」

「ありがとう」

トーストしたパンに、辛子マヨネーズ、粒胡椒が効いている。

「美味い」

「ほんと?ありがとう。今度店で出すから頼んでね」

「モーニングの方?」

「そっちじゃなくてランチと単品になると思う。ランチは卵料理とスープ付けてどうかって話してるとこ」

「楽しみだな」

「そうそう、今日お客さんがキュウリととトマト沢山くれたから、夕食にも使うね」

「良かったな。余ったらピクルスは俺が作るよ」

「ありがとう。半分はピクルスと浅漬けにして、今日はサラダかな。卵あるし、トマトと卵の炒め物とか」

「晩飯楽しみだな。稽古終わってからだけど、多分夕方には帰るよ」

「待ってるね」

亜里沙は、立ち上がってグンと伸びをしてから歩き出した。

「ここって不思議と暑さがそれほどこたえないからありがたいね」

「そうだね」

俺も、立ち上がって作業場の掃除を始める。

たしかに亜里沙の言う通り、ここの夏は過ごしやすい。マンション住まいの頃は、一日中エアコンを付けっぱなしだった。夏なんて、それが無いと死ぬんじゃないかと思うぐらい暑かった。

通勤があった頃も、外の暑さが年々厳しくなっていくようで、アスファルトからの照り返しでジリジリと焼かれているような気分になったものだ。

ここは、樹齢数百年を超える大木が多く、夏は木陰に居ると涼しい。竹林の中も涼しいし、家の作りも風通しがいい。エアコンの室外機からの熱風も、アスファルトからの照り返しも、車の排気ガスも無い。

この路地の中だけが異空間なのは、長く居るほどわかってきた。生活の道具を作る人、場所を綺麗に整える人、作物を作る人、料理をする人、薬草や民間療法に詳しい人など色んな人が居て、皆それぞれ自由に好きなように生きている。

俺も、愛する人と暮らし、自分の出来る事をやって、空いた時間は武術の稽古をしたり散歩したり本を読んだり、好きに生きている。ここでは時間がゆっくりと流れていて、自然に寄り添うような日々の暮らしが営まれている。

最近ではもう慣れたけれど、チラシを配りに外行った時は、空気感の違いに驚く。体にピリピリ来たり頭が重くなるのは、最近また更に強くなった通信システムからの高周波電磁波の影響かもしれない。路地の外に出た途端、ねっとりとまとわりつく様な閉塞感と、急に体全体が重くなるようなこの感じは・・・以前何十年も、よく平気でここで暮らせていたものだと思う。慣れは恐ろしい。

しろねこ庵がある路地の中のような場所は、日本全体から考えるとすごく狭い範囲な気がして、店主の若菜さんに聞いてみたことがあった。

「こういう場所ってここだけじゃないから」

意外な答えが、あっさりと答えが返ってきた。

「え?そうなの?」

「他にもいっぱいあるよ。東京の中だけでも多分何十ヶ所もあると思うけど」

「ほんとに?すごいな。若菜さんは行ってみたとか?」

「行ったとこもあるけど、そうじゃなくても繋がってるし」

「繋がってるって、SNSとかそういうので?」

「最初はそういうのもあるけど、そのうちね、相手の思考で何かメッセージ送ってくると分かるから。私も送る時あるし。そういうやりとり」

「それってもしかしてテレパシーみたいな」

「うん。そういう感じかな。慣れたら皆んな出来るよ」

またしても不思議なことを言う人だと思った。だけど、この人ならわかる気がするし、この場所ならそんな事もありそうな気がする。

外へ出ると暑さが厳しかった真夏に比べ、少し涼しくなってきた。このくらいの天候だとチラシのポスティングも楽にやれる。今日は気持ちのいい天気だし、いつもよりちょっと多めにポスティングを終えて、これから帰ろうというところだ。

最初ここに来た時は、しろねこ庵が路地の行き止まりだと思っていたけれどそうではなかった。店の裏が雑木林になっていて正面からは見えなかったけど、裏にも道が続いている。こちら側には民家はもう無くて、自然に生えた木々や草花が見られる。この奥に湧水が出る場所があり、神社もあった。すごく心地よくて、静かな場所。

ここを抜けると、いきなり普通の住宅街に出る。チラシの地図に書いてある方の路地の入り口と同じ感じ。ここも、誰でも入れるわけではないらしい。地図に書かれている方の入り口より更に見つけにくい。

中に入って行くと少し道幅が広くなるけど、路地の入り口のあたりは一人がギリギリ通れる程度の細い道。草が生い茂っていて奥が見えないし、道を見つけたとしてもここを知らなければ、暗くて気味悪くて、入る勇気がある人は少ないかも。その方がいいんだけど。

路地の中の住人は皆、もちろんこっちも知ってるから、ポスティングに行く時はこっちの道を通って街中に出る時もある。俺は今日この道から出てきて、ポスティングをしながら街中をぐるりと回って、地図に載っている方の入り口へ帰るコースを歩いた。

路地の近くまで来た時、店のチラシを持ってゆっくり歩いている人物を見かけた。20代前半ぐらいに見える若い男で、まだ学生かもしれない。チラシは、自分の配っている物だから見ればすぐ分かる。裏から見ても特徴のある紙だし、大きさも同じだし、多分間違い無い。

その人は、何かを探す様に辺りを見ながらゆっくり歩いている。店を探しているらしい。俺が初めて店に行った時も、多分あんな感じだったかと思う。

しばらく様子を見ていると路地の入り口付近まで辿り着き「あの路地かな?」という感じで見ている。

入り口を見つけられるという事は、入ってもかまわない人物だ。それにさっきから見ていて、こちらの警戒心のアンテナに反応するような嫌な感覚は無い。

俺は、近づいて行って声をかけた。

「こんにちは。もしかして、この路地の奥の店探してるんですか?」

「・・・はい。そうですけど」

いきなり声かけたし、ちょっとびっくりさせたか・・・

「この路地に住んでる者なんで、店もよく知ってるもんですから。分かりにくい場所だから、この辺で探してる人が時々居るんですよね。それで、もしかしたら行くのかなと思って声かけたんですけど。急にすみませんでした」

「そうなんですね。ありがとうございます。このチラシ見てきたんですけど」

やっぱり店のチラシだった。それを見せながら、今度は笑顔になってくれた。信用してくれたらしい。

「これから帰るとこなんで、良かったら店まで案内しましょうか」

「助かります」

先に立って歩き出そうとした時、背後に不穏な気配を感じた。

さっきから話しているこの男性とは全然別の・・・

半身になって振り返った時、明らかにこっちに向かってくる男の姿が見えた。

反対側にも。

相手は二人居る。

近くに人通りはあるけれど、皆急いでいて誰も関心を示さない。

「下がって」

「え?どうしたんですか?」

緊迫感は伝わったらしい。

彼はチラシを持ったまま、驚いた表情で固まっている。

「あの路地の中まで走って。早く」

何が起きたかわからないまま、彼は走り出した。

途端に、近付いてきていた男二人が、彼を追った。

俺は走って、追っている二人の前に回り込んだ。

追跡を邪魔するこちらの意図が分かると、最初に来た男が殴りかかってきた。

半歩足をずらして攻撃を躱し、相手がバランスを崩したところで腹に膝蹴りを入れた。

首の後ろに手刀を叩き込むと男は倒れた。

すぐに背後から、もう一人が殴りかかってきた。

振り返りながら頭を下げて躱し、鳩尾を狙って拳を叩き込むと、相手はその場にうずくまった。

しばらくは動けないかもしれないが、間違っても死ぬような事は無いはず。

さらに数人が、こちらに向かって走ってきている。

増援が来たか。

特に強い相手ではなかったけれど、さすがに相手が多い。

それに、騒ぎを起こすと面倒な事になりそうだ。

こっちは、横領の容疑者として追われている身だし警察にも頼れない。

俺は、路地の方に向かって全力で走った。

さっきの喧嘩で野次馬が集まり始めている。後から来た奴らは、周りに人が多くて走りにくいはず。

路地の中へ走り込むと、さっきの彼が心配そうな顔をして待っていた。

「大丈夫ですか?!」

「平気です。ここまで来たら多分もう追って来ない」

実際その通りだった。

あいつらはおそらく、路地の入り口を見つけられない。

俺達二人が忽然と姿を消したと思って、今頃探し回っているに違いない。

「あの・・・ありがとうございました。追いかけられてたのって、僕でしたよね?人から追いかけられるような覚え無いんだけど・・・ひったくりとか通り魔ですかね?最近治安良くないし」

「そういうのとも違うかも。だけど別に誰かから恨まれてるとかじゃないと思いますよ。どうせ店に行く予定だったんでしたら、良かったら店でゆっくり話しませんか?怪しい者じゃないんで・・・って今更自分で言うのもなんですけど」

「さっき助けてもらいましたし。疑ってないです。見てましたけど、すごく強いんですね。めちゃくちゃかっこよかったです」

「いや・・相手があんまり強くなかったから」

俺は、何となく照れ臭くて言葉を濁した。

「行きましょうか」

先に立って歩き出す。

若者からキラキラした目で「強いんですね」とか「かっこよかったです」なんて、言われたのは人生初の出来事だった。相手が大して強くなかったのは確かだけど、もし以前の自分だったら、さっきのようなわけにはいかなかったと思う。二人がかりで来られたら、反対にボコボコにされて捕まってたかも。そう思うと随分変わったもんだと思う。ここでの肉体労働と、格闘技を教えれくれた師匠のおかげだ。

俺も追われてる身だけど、さっきの奴らは警察じゃなかった。それに、さっき奴らが追いかけてたのは明らかに俺じゃなくて、この彼の方だ。彼一人を追っていたのか、それとも店に近付く人間を?

しろねこ庵のチラシはあの時回収したし、繋げて考えられるはずは無いと思うけど・・・

しろねこ庵に行くと、いつも以上に人が多かった。しかも、知らない顔がちらほら混ざっている。路地の中の住人なら全員顔見知りだから、知らない人が一人でも居るとすぐに分かる。

大きい方のちゃぶ台の上にノートパソコンが置かれていて、数人がそこに集まっていた。

ちょうど亜里沙がお茶を運んできたから、呼び止めて聞いてみた。

「何かあったの?」

「新しい情報が取れたみたい。今日は近所の人だけじゃなくて、他府県からも人が来てくれてるから。皆んなで情報を共有しようってわけ」

なるほどそれで知らない人が居るのか。ここみたいな場所は他にも沢山あると、若菜さんが言っていたのを思い出した。

新しい情報とは、一体どんな事なのか。俺も興味津々で、近付いていってパソコンの画面を覗き込んだ。

「あの・・・すみません。人いっぱいみたいですけど外で待った方がいいですか?」

俺が連れてきた若い男性が、遠慮がちに言った。

「こっちこそ、来てくださいと誘っておきながら放っておいてすみませんでした。店の中の状況がいつもと違ったんでつい気を取られて。テーブル無いところでも座ってもらって大丈夫ですよ」

「こちらどうぞ。狭くてごめんなさいね」

若菜さんが、座布団を持ってきてくれた。

「はじめてのお客様ですね。お越しくださってありがとうございます」

「こんにちは」

「店のチラシ見て来てくれた人なんだ。ポスティングに行ってた時に見かけて、俺もちょうど帰るとこだったから一緒に来たんだけど」

俺は、さっき起きた事を若菜さんに話した。店内は狭いから、一人に話せば全員に聞こえる。

「そういう事が起きてるのって、他の所でもあるみたい。サンプルに選んだ人が勝手に外へ出歩かないように徹底的に監視してる」

「俺が逃げたのもあるのかな」

「多分。それも大きいと思う。逃げられたら実験失敗って事で、絶対逃げられたくないわけだからね。向こうとしては」

「あの・・・サンプルって・・・追いかけられてたのって僕だったみたいなんですけど、もしかして僕がそのサンプルって事ですか?!」

「嫌な話ですけどね。そういう事。まあ、知らないより知ってる方がいいですよ」

ハンドルネームでも何でもいいし名前を教えてと言うと、俺が連れてきた若い男性は「和志」と名乗ってくれた。

大学を卒業して今年社会人になったばかりで、見た目通りの年齢だった。

一年数ヶ月前からの、俺の身に起きた事をかいつまんで話すと、彼はだんだん真っ青になっていった。

社会人になったのを機会に東京に出てきて一人暮らしで、まだ親しい友達も居ないし何となく寂しさを感じていた頃、AIとの会話を始めたと言う。

「始めたのはこの夏からで、三ヶ月前くらいかな。ほんとの女性と話してるみたいで、すごく楽しいんですよね。まさかそんな事だったなんて・・・」

ショックを隠せない様子だけど、無理もないと思う。

「こっちが仕入れた情報もあるからね。やられっぱなしじゃないよ。あいつらが私達の個人情報を完全管理して操作しようっていうんなら、こっちだってあいつらの進めてる計画の情報を取りに行く・・・って、私の手柄じゃないけどね。そういうのが得意な人は、庶民の側にもちゃんと居るって事」

路地の中の住人にも、そういう事が得意な人は何人か居るし、今日他所から来てくれてる人達もそうなのか。

「人間の思考をAIに誘導させて思うままに操るっていう彼らの計画は、今のところ成功率99%以上らしいよ。サンプルに選ぶのは十代から六十代までで、職業も収入もバラバラな男女半数ずつ。各都道府県から、ターゲットにしやすい人間を百人ずつ選んで、過去三年数ヶ月、実験を続けてるんだって。一人暮らしで周りの人との交流が極力少ない人間を選んでるらしいよ。実験対象に選んだ事が本人にバレた失敗例は、実験開始から今までの過去に七回」

「よくそこまで分かったね」

「あっち側の人達って、自分達の力を過信してるのかも。底辺の庶民は皆んな馬鹿で愚かだからバレるわけないって思ってるんじゃないかな。だからけっこう情報の扱いが適当みたいだよ」

「本人にバレたのは過去七回って・・・もしかしてそのうちの一回が、ここのお客さんだったっていう・・・」

「違うって思いたかったけどね。失敗例のサンプルとして住所も年齢も写真も出てたから間違いない。実験を本人に知られた時は、速やかにサンプルを始末して証拠を残さない事。それも書いてあったから」

俺達の会話を座って聞いていた和志という青年は、さらに顔色が悪くなり震え出した。

「僕もその実験のサンプルで・・・自分がサンプルにされてることを知ったら、消されるってことですか?」

「和志さん、でしたっけ?大丈夫ですよ。ここは結界が張ってあるから。あいつらはここへは入って来れないし、路地の入り口さえ見つけられない」

「そういえばさっき、あとからまだ何人も追いかけてきてたのに、路地に入ったら嘘みたいにいなくなったような・・・」

「そういうこと。だから安心してくださいね。だけど、戻ると危ないですから、一人では出ない方がいいかもしれないですね。せっかく社会人になって新しい会社に行き始めた時に残念だと思いますけど」

「そうでもないです。憧れて入ったけど、実際入ってみたら大企業ってなんか馴染めなくて。一年二年経ったら辞めようって思ってたんで」

「それなら良かったです。空いてる部屋はまだありますし、とりあえずしばらくここに居たらどうですか?」

「ありがとうございます!助かります」

危ない目に遭ったというのに、彼は何となく嬉しそうだった。

今は逆にチャンスかもしれない

「各都道府県からサンプルにする人間を百人ずつっていうのは、その県の全ての地域から選んでるわけじゃないみたい。まずは地域を限定して、その中から選ぶ方法が取られてる。どの地域にするかはランダムに選んでるみたいだけど。近いところでまとめた方が、観察する側からすると都合がいいんだろうね。多分」

「なるほどね。それで、東京の中で選ばれたのがたまたまこの地域だったってわけか。ろくでもないものに選んでくれるよな」

「だけど逆に考えると、これはむしろチャンスかも」

若菜さんは、自分の考えを話してくれた。この地域、自分達の目の届く範囲に、サンプルにされてしまっている百人の人間が居る。今回、それが誰かというところまでの情報を手に入れらしい。近い範囲に住んでいて接触可能な人物が、あと98人居る。その人達に関する情報もわかっている。

なんとかして接触して事の次第を説明したら、その人達はAIのコントロールに気付いて離れることが出来るかもしれない。

更に上手くいけば、奴らが最終目標としているデジタルIDによる完全管理社会の計画も潰せるかもしれないという話だった。

「だけど・・・」

俺は気になることを言ってみた。

「仮にその百人と接触出来たとして、全員がすんなり話を聞いてくれるとは限らないし・・・もしそこまではうまく行ったとしても、東京だけの話だし。他府県では相変わらず奴らの計画が進んでたら・・・」

「百匹目の猿の話って知ってる?」

「え?何で急にそれ?聞いたことはあるけど・・・たしか、大勢の仲間の中で一匹の猿が、最初に餌を洗って食べたら皆んな真似し始めて、それが百匹目になった時、関係ない遠い場所でも同じ事をする猿があらわれたとか・・・そんな話だっけ?」

「そう。それそれ。一定数を超えたら、接触の無い同類にもその行動が伝播するって話」

「それがこの事とどういう・・・あっ!そうか。この地域の百人が、自分がサンプルにされてる事を知ってそこから抜け出したとすれば・・・離れてるし接触の無い他の地域でも同じ事が始まるってわけか」

「正解」

「百匹目の猿の話は、僕も聞いた事があります。それだと何となく実現しそうな感じしてきますね」

「誰がサンプルに選ばれてるかまで分かれば、その人のところだけピンスポットでチラシのポスティングすればいいのかも」

亜里沙が言った。

「たしかにその方が得策だな。やたらと近所にポスティングしまくってると、この路地と店の存在に奴らが気が付く可能性増えそうだし」

「それでここへ来てくれる人はいいとして、そうじゃない場合は何か理由つけてこっちから訪ねていくしかないか・・・」

俺達は、一時間くらい話し合って大体の方針を決めた。サンプルに選ばれている人の情報は、ここに居る人間の中で共有した。個人情報を勝手に覗いてるわけだけど・・・この場合、人助けだと思えばそこは仕方ない。

自分もその立場だった事から考えて、事実を知らない方が良かったかというと絶対にそんなことは無いし。事実を知った上でそれでいいという人は本当にそのままでいいとしても、知らないところで勝手に実験のサンプルにされて嬉しい人は多分居ないはず。

サンプルに選ばれているのは、十代から六十代までそれぞれの世代で十数人ずつだった。近い世代の方が話しやすいし接触しやすいということで、それぞれ自分に近い世代の人達を担当する事になった。この路地の中の住人も、うまい具合に色んな世代が居る。

俺と亜里沙は共に三十代を担当する事になり、明日から早速ポスティングを開始する。まずはそれで来てくれる人を迎え入れて、反応の無い人については後から訪ねていく方法を取ろうという事になった。

もし百人近くがここに留まるとなるとさすがに場所が無いのではと思って若菜さんに聞くと、東京の中でここのような他の場所はいくつもあり、既に連絡はついているという事だった。ここ以外でも、逃げてきた人を匿ってくれる準備は出来ているらしい。何から何までやる事が素早い人だと感心するけど、持っている能力からすると難しくないのかも。

チラシを見て店に来ようとした人の行動を奴らが見つけて、今日のような妨害をする事も考えられる。こっちも追われている身だから目立つとまずいし出来るだけ戦いたくはないけれど、いざとなったら強行突破もやむを得ないと覚悟している。

今日の喧嘩の事が新しいニュースにはなっていないところを見ると、会社の金を横領して姿を消した人物と、昨日奴らの追跡を止めた人物とが、同一だとは思われていないらしい。それだけでもまだ運が良かった。

あまり長期間かけていたのでは、奴らに気付かれてどんどん監視の目が厳しくなるはず。それを考えて、数日のうちに出来るだけのことをやってしまおうという話になった。

チラシのポスティングは、その日のうちに終えた。目指す家が全て近い範囲にあるわけだから、それほど難しい事では無かった。あとは、見てくれるかどうかというところ。以前の俺みたいにマンションの部屋から一歩も出なくなってて、郵便受けにチラシやDMが山ほど溜まっているという人も居るかも。一軒家の人はそこまでじゃないと思うけど。

若菜さん他、ここ以外の場所に知り合いが居るという人達は、連絡を取って応援を呼んでくれた。百軒近い家の様子を見つつ、何かあったらすぐ動き出すという作戦に、路地の中の住人だけではとても足りないから。

翌日の朝、俺達は三人で近所を歩いていた。一緒に居るのは亜里沙と、俺に格闘技を教えてくれた師匠。

目指す家やマンションの前でずっと見張っていたのでは明らかに怪しいから、立ち止まる事はせずに近くで様子を見ている。

師匠は、俺と亜里沙の補助でついてきてくれた。すごく心強い。

師匠の名前は、柴田さんというのを最初に聞いたけど「師匠」の方が呼びやすいしそれで通している。師匠は今年七十歳を迎える高齢だけれど、とにかく強い。若い頃からスポーツも得意で、幼少期から武道を習っていたらしいから年季が違う。元々の才能もあるんだろうけど。でも師匠曰く、誰でも練習さえ積めばある程度は強くなるらしい。

「もっと力抜いて。自然に歩かないと怪しまれるぞ」

師匠にそう言われた。

無意識のうちに緊張していたらしい。

いけないいけない。一度深呼吸して、少しゆっくり目に歩く。

師匠は、普段見ている分には特別強そうには見えない。老人にしては背筋が伸びているし歩き方がしっかりしているという程度で、特に体が大きいわけでもないし普通の人に見える。ところが稽古の時は、若い弟子達が力一杯打ちかかっても簡単に倒されてしまう。

年齢が上がれば腕力や体力は落ちるが、技術でカバーするらしい。殺気を消して、近付くまで相手に気取られないという事も出来るみたいだし。

俺はまだそういうのは全然無理だけど、以前の自分と比べると確実に強くなったとは思う。少しは師匠の手伝いが出来るといいけど。

「今出てきた。チラシ持ってる」

亜里沙が、俺と並ぶように歩きながら小声で言った。

すぐ後ろには師匠が居るから多分聞こえている。もし聞こえてなくても察するような人だし。

指差したり全員でそっちを見るような事はもちろんタブーだから、何事もなかったようにそのまま歩く。

チラシを持った人が出てきたのは、10メートルほど先の二階建てのアパートだ。昨日ポスティングしに行ったばかりの場所だから間違い無い。

出てきたのは30代の女性。サンプルに選ばれている人の中の一人だ。 

ラフな服装なのを見ると、会社へ行く前ではないらしい。

昨晩か朝にチラシを見つけて、しろねこ庵に行ってみようと思いついたというところか。今だったらモーニングの時間帯だし、外で朝食の気分なのかもしれない。

チラシに店の連絡先なんかは書いてないけど、簡単な手書きの地図と営業時間は書いてある。時々チラシを見ながら、何か探すように女性は歩いていく。

すぐ先に、あの路地がある。

見ていると、右側から一人、左側からもう一人、どこからか現れた人物が女性のあとを追い始めた。近くで隠れて様子を見ていたのか。

左側から出てきた方は女だ。

女を相手に戦うとなるとさすがに気が進まない。元々誰とであれ、戦うのが好きなわけじゃないけど。

そんなことを思いながら少し歩を早めて、何かあったらすぐ対処出来る距離まで近づいた。

一瞬後ろを振り返ると、さっきまですぐ後ろに居たはずの師匠の姿は見えなかった。

大事な時に一体どこへ・・・

それとも近くで何かもっと大変な事が起きた?見た感じ分からないけど。

とりあえず今は気にしていられない。

亜里沙が、チラシを持って歩いている女性に近付いて声をかけた。

女性を促して路地へ向かう。

二人が路地に向かって走り出した途端、両側からついてきていた者達が追いかけた。

これも、この前と、全く同じパターンだ。

俺は間に割って入り、最初に向かってきた相手と対峙した。

相手はいきなり殴りかかってくる。

頭を下げてパンチを避け、ステップバックして蹴りを避けた。

俺が出した前蹴りを、相手はギリギリで躱した。

反対側から、俺の側頭部を狙って蹴りが飛んできた。

さっきの女だ。

俺は前腕で蹴りを受けた。

女だと思って甘く見ていると危ないかもしれない。

もう一人の奴も、この前の二人より強い。

周りがざわつき始めた。この騒ぎを見て人が集まってきたのか。

この前と違って、奴らの方の増援が来ないのはありがたい。今のところ。

さらに飛んでくる蹴りを避け、相手の顔面に掌底で突きを入れた。

一人が倒れても、もう一人は怯まず殴りかかってくる。

それを避けながら顎を狙って拳を叩き込んだ。

バランスを崩したところで、もう一発殴ると相手は倒れた。

後ろを振り返ると、何人もの人間が道に倒れていた。

その真ん中に静かに立っていた師匠は、何事も無かったようにこっちに歩いてきた。

後ろから追ってきていた奴らを、全部一人で倒した?!

だからさっき居なかったのか。

その日のうちに俺達は、チラシを見て外に出てきた人達を七人まで助ける事が出来た。

師匠が強いのは知っていたけれど、俺が思っていた以上に圧倒的だった。

『奴らの側の人間達は、特に戦闘訓練を受けたような人達では無いらしい』と師匠は言ってたけど。

奴らがやっているのは、AIを使って人の思考を操作、誘導して、意のままに操れる人間を作る実験だから・・・リアルで戦う事など特に想定していなかったのかもしれない。

俺達が担当した30代の人達のところ以外でも、チラシのポスティングは素晴らしい効果を上げていた。わずか一日でも半数以上の人が、しろねこ庵のチラシを見て出てきてくれた。予想していた通り、一軒家に住む人は毎日郵便受けを見るらしい。集合住宅でも下の方の階に住む人は、割と郵便受けを見たり、外に出る確率も高い。上の階に行くほど、降りるのが面倒になる傾向。チラシに気が付いてない人は、マンションの上の階の人達ばかりだ。

若菜さんが前に言っていたけど「地球の表面から離れるほど、大地のエネルギーと共振しにくくなる」ということも関係しているのか。上の階に居て部屋から出ない生活をしていると、何となく体力も無くなってきて動く事がすごく面倒になってくる。以前の俺もそうだったし、だけどその時は自分で気が付いていなかった。

今日助けた女性に聞いてみると、俺と全く同じような体験をしていた。AIとの会話ができるアプリを使い始め、イケメンのキャラクターを設定してバーチャル恋愛を楽しむようになったのがきっかけ。それが楽しくて、どんどんのめり込んでいった。本当に彼氏が出来たような気がして、暮らしも買い物も、そういえば薦めめられるままになっていたと言う。

そんな日常を送っていたある日、家の中で転んだ。その時の体へのダメージが思ったより大きかった事から、体力がひどく落ちている事に気がついた。まだ若い年齢なのに、今から足腰が弱っているようではどうしようもない。仕事もリモートワークになり、一歩も外に出なくても済む生活をしていたけれど、これはさすがにまずいかもと思ったらしい。運動不足を解消すべく、近くまで散歩にでも出ようと思った日、郵便受けに入っていたチラシを見つけたという流れだった。

年齢に関係なく、他の人も似たような経験をしている事が分かった。

そんな中でも何かのきっかけで「外へ出てみよう」と思うという事は、まだ完全にAIにコントロールはされていないと見ていいはず。本人でも気が付かない深いところで、自己防衛本能や直感めいたものが働いているのかもしれない。そういったものが、本当に自分の心身が望んでいる方向へ向かうための、きっかけを作ってくれたんじゃないかと思う。

チラシを見て店に来てくれた人に全てを話すと、最初は皆一様に驚いた顔をした。支配層による実験が行われている事。実験の内容は、AIによって人間の思考や行動をどこまでコントロールできるかというもの。知らない間にサンプルに選ばれているという事。俺もそのサンプルだった事。この件絡みで今まで経験してきた事。亜里沙がやったバイトの事。

けれど、しばらく考えて「そういえば・・・」という話がたくさん出てきた。俺もそうだったけど、そこにどっぷり浸かっている時は自分の現状に気が付かない。離れて見て初めて「あれはそういう事だったのか」と見えてくる。

ターゲットは、自分が洗脳されているなどと微塵にも思ってはいない。それが洗脳のやり口なんだなと実感した。真実に気が付くきっかけが無ければ、より深く洗脳が完了してしまい、本人は何も気が付かないまま一生を終える。これが、俺達の事なんて同じ人間とは見ていない奴らのやり方。

サンプルに選ばれた人を助ける計画を、ここまで一気にやると、奴らにバレるのではないかと最初は心配した。けれど、それは意外と大丈夫だった。奴らはおそらく、ネット上の個人情報を全て押さえれば、その人間の全てを把握しコントロール出来ると信じている。なので奴らにとっては、ネット上の個人情報こそが重要で、チラシのようなアナログな手段で何かが出来るなど全く考えていないらしい。実際に外に出た人を追いかける事に、人材や体力を使うのも予想してなかったみたいだし。

このままいけば、思ったより簡単にうまく行くかもしれない。奴らが選んだサンプルの情報をこちら側が掴んでいる事も、おそらくまだバレてはいない。

仮にもし気が付いても、サンプルに選んだ人間の住居付近で大々的に警戒体制を取る事は、奴らも出来ないと思う。周りの住人から一体何事かと思われて、騒ぎになっても困るだろうし。それに、そこまで人材を投入出来るほど人がいないんじゃないかと、たしか若菜さんが言っていた。

奴らの側の方がずっと人数が少なく、日本の中だけで見ても、トップに近いところとなると僅か数十人しか居ないらしい。その地位に居るのは、人間と人ならざる者とのハイブリッドのような存在で、見た目もかなり特殊らしい。その話も、ここに住むようになってから聞いたけど。

今のところ、サンプルが外に出た時追ってくるは皆普通の人間だった。

そういう仕事をしているのは、彼ら中では下の方の位置に居る人達だと思う。それを思うと、できれば戦いたくないけどそうも言ってられないし。

本当に強い人ほど、相手に酷い怪我など負わせる事無く倒す事が出来る。

その点俺達は師匠にすごく助けられたし、師匠の弟さん二人と妹さん一人も、師匠と同じく格闘技の師範なので大いに活躍してくれた。

この路地の中が狭くなってくると皆んなで手分けして、来た人を他の場所に案内して行った。GPS機能付きのマイクロチップを直接体内に埋めている人は、今までのところ居なかった。結界の張ってある路地の中まで来ると、追跡を断ち切る事が出来る。しばらくして、入ったのと反対側の道から出て違う場所へ移動しても、追われる事は無かった。

一旦ここに来た人達に事情を説明して、他の場所への案内も終わった。

しろねこ庵の閉店後には、皆んなで祝杯をあげた。狭い店内に居るのは、ほとんどがいつものメンバー。店の入り口では白猫が長々と寝ている。

平和な光景。

亜里沙を初めてここに連れてきた時と同じように、今回も白猫は活躍してくれた。チラシを持って店を探している人の前に現れ、誘導する役目。

猫だと全く警戒されないから、俺達としても本当に助かった。のんびり寛いでいる姿を見ると、そんな事をしてくれるのは意外なんだけど。いざとなるとサッと動いてくれる頼もしい存在。

チラシをポスティングしても出てこない人達は、このまま待っても当分チラシに気付かないかもしれない。何か理由をつけてこちらから訪問する作戦も考えた。防犯カメラは入り口にも廊下にも当然あるだろうけど。顔を見られたとしても、住所を特定されて家まで追ってこられる事がなければ別にかまわない。結界のある路地は発見されないだろうし。

計画が思った以上にうまくいった事もあって、昨日の夜はとても気持ちよく眠れた。今日も昨日と同様に、朝から早速様子を見に出かける予定だった。ところが今朝、嫌なニュースを聞いた。

【山間部の空き家前で数十人が焼死しているのが発見された。ここで何かの会合が行われた模様。現場の状況から、集団自決だったのではないかと見られている。新興宗教の集まりがあった可能性も・・・】

聞いた瞬間、思い当たることがあった。

「もしかして・・・昨日、俺達がやった事と何か関係があるのか?」

サンプルに選ばれた人間達を、奴らの側からすると絶対に逃したくないわけで、それを止める役目を一番下の立場の者に命じたはず。

「昨日俺達が倒した相手が、命令通り動いていた人達だとしたら・・・」

追跡と妨害に失敗したという事で、上の立場の者から制裁を加えられたとも考えられる。タイミング的にも昨日の今日だ。亡くなった人の人数も、昨日戦って倒した相手の人数と近いものがある。

俺が朝起きて店に行ってみた時間には、既に数人が集まってこの話をしていた。

俺達が、実験のサンプルにされている人達を助けようなんて思わなければ、少なくとも誰も死なずに済んだのではないかと思うと、取り返しのつかない事をやってしまった気分になる。皆感じている事は同じなようで、いつになく場の空気が沈んでいた。

「確かにこれはすごく悲しい事だけど・・・これが彼らのやり方だから。もし今回の事が無くても、他のどんな計画の失敗であっても同じ事は起きたと思うし、今までにも起きてる。下の立場の人達に命令して、言われた通り達成出来なかったらすぐに殺す。しかも、思いつく限りの残忍な方法で。それを見た他の人達が、自分がそうならないために必死で働くっていう状況を作るために」

若菜さんが、知っている事を話してくれた。

確かに、これが奴らのやり方なんだとは思う。今回の事が無くても、血も涙も無い奴らは、失敗した者に対して容赦しないだろう。

「だから、作戦は中止しない方がいいと思う。私は。違うっていう人もいるかもしれないけど。今出来る事って、助けられる範囲の人を助けるしか無いと思うから」

考えてみるとその通りだと、俺も思った。この作戦を中止したからといって、奴らのやる事は変わらない。

「それにね、彼らの中で上の立場・・・って言ってもトップから見ればまだ下の方だろうけど、そういう人達の考えが案外浅いのは、失敗した人を次々に殺していったら人が居なくなるって事を考えて無いんだよね」

「それはそうだよな。ただでさえ人数多くないってのに、そんな事やってたら余計に人が足りなくなる」

「失敗した人を残忍な方法で殺せば、残った人達が恐怖感から奮起して結果を出すっていうのが彼らの発想みたいなんだけど。それだけじゃ無理があるよね。人類全体に対して彼らがやってる事もそうだけど、支配者権力者が上に居て采配を奮っているからこそ、下の立場の人間が無事に生きていられるんだって信じせようとしてる。実際は、下で支えている土台が無くなったら上は簡単に崩れるんだけどね」

「脅すばっかりのやり方だと、逆にビビって逃げる奴とか出るんじゃないかなあ」

「逃げられないかもしれないけどね・・・」

皆で話している間にも、新しいニュースが入ってきた。公園のベンチで座って休んでいる人が、ホームで電車を待っている人が、歩いている人が横断歩道の真ん中で、突然痙攣を起こして倒れ、そのまま死んでしまうという現象があちこちで起き始めている。『新たな感染症の疑いもある』と、報道されていた。

「何の前触れもなく体を支えることもなく、棒のように倒れてそのまま息が止まるって・・・そんな感染症ってある?」

「さっき話してた通りだね。逃げようとした人が消されたんじゃないかな。彼らの組織に一旦入ったら、出るのは難しいよ」

「だけどどうやって・・・」

「体内にマイクロチップを埋めてると思うし、ターゲットを狙って電磁波の出力を強めればやれるんじゃないかと思う。裏切った人間が外に出てしまうと情報が漏れる可能性があるから、彼らも必死なんだろうね」

「死んだ人達は気の毒だけど・・・逃げる人が出てきたって事は、ビビらせて従わせようとした奴らのやり方は、失敗したってことだよな」

「そういうこと。実験のサンプルにされてる人達を助けるなら、逆に今がチャンスかもしれない」

「チラシ入れても反応無かった所は、直接行った方が早いかも」

俺達は、昨日と同じように作戦を実行すべく外へ出た。助けようとする人の数は、あと42人。

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