子猫との出会い
天気の良い日でも夕方になると急に冷え込んできて、吹く風の冷たさに季節の移り変わりを感じる。そんな秋の日の夕方、両サイドに田園風景が広がる長閑な田舎道を、一人の男の子が歩いていた。
男の子の名前は和人と言って、今は小学校からの帰り道だった。この肌寒さも、元気な子供にとっては平気なようで、和人は鼻歌を歌いながら大股で歩いていく。少し細身ながら筋肉はよく発達していて健康そうな体。日に焼けた肌に短く刈った髪がよく似合う和人の大きな瞳は、子供らしく好奇心が強そうで生き生きと輝いている。
和人が歩いて行く先、舗装されていない土の道に、それは落ちていた。地面の色とあまり違わない色の何かの塊。
「誰かゴミでも捨てたのかなぁ。そんな事する人ってこの村には居ないはずだけど」
近くで見るとそれは、茶色い毛の塊のようだった。
「え?何これ?縫いぐるみの古いのとか?随分汚れているけど」
独り言を言いながら手を伸ばした時、それが微かに動いた。ビクッとして手を引っ込める。
「え?生き物?」
今度は腰を落として目線を低くした体勢で、和人はそれに近づいた。近くにはで見ると、最初に小さな耳らしき物が見えた。足も、尻尾もある。泥に汚れて所々毛の抜けているそれは、小さな猫だった。
「捨て猫?」
すぐそばにしゃがんで、ゆっくり手を伸ばす。
ものすごく汚れているし、栄養状態が良くないからか毛が抜けて痩せこけているけれど、背中に触れると体温が伝わってきた。かなり衰弱しているようで、このまま放っておいたら間違いなく死んでしまう。
「おい。大丈夫か?生きてるか?」
和人は、すぐに上着を脱いで猫を包んだ。家まではあと少し。この小さな命の火が消えてしまわないようにと願いながら、暗くなりかけた道を急いだ。
「おかえり。何持ってんの?」
「動物か?」
年老いた夫婦は作業の手を止めて、和人を迎えた。
二人は和人の祖父母で、共に八十歳を過ぎているけれど病気知らずで活力に溢れている。二人は、縁側に古新聞を広げてサツマイモの蔓の皮剥きをしているところだった。
「さっきさっきそこの道で見つけたんだ。だれかに捨てられたのかもしれない。そんな事する人、この村には居ないと思うけど」
「猫か。まだ小さいなあ。とりあえず洗って綺麗にして、ミルクでもやってみるか」
「和人が言う通り、この村には動物を捨てるような人は居ないと思うけど。車で他所から来る人も居るから・・・こんな寒い日に、酷いことするねぇ」
猫はひどく汚れていて衰弱していたけれど、心臓の音はしっかりしていた。
体を洗って綺麗にした後、指先に水を付けて口元に持っていくと、小さい舌でそれを舐めた。
「舐めてる舐めてる」
「洗ったら綺麗になったなぁ」
「これくらい元気があったら、まず大丈夫だろう」
「生後一ヶ月か・・・そのくらいだねぇ多分」
熱くなり過ぎない程度に温めたミルクを与えると、猫はそれも少し飲んだ。
「良かった。ミルクも飲んでる。元気に育ってくれるよね」
和人は、夜になると布団の中で猫を抱いて温めなガラ眠った。
猫は少しずつエサも食べるようになり、数日後にはかなり元気になった。
和人は毎日、学校から帰ると真っ先に猫の所へ行った
「ただいま!」
「おお!今日も早いなぁ」
「猫は?」
「さっきエサ食べて、今はお休み中」
祖母が答えると、和人は急に声を小さくして、そっと猫に近付いた。
「ほんとだ。よく寝てる。可愛いなぁ」
「捨てられた時が真冬じゃなかったのがせめてもの幸運だったんだねぇ」
「そうだなぁ。真冬の寒さなら間違いなく凍え死ぬところだ。それだけ運がいいのかもしれんぞ。こいつは」
「幸運をもたらす猫かもな」
「そうだ。思ったんだけど、そろそろ名前付けた方が良くない?」
三人の話題は、最近では猫のことばかりになっていた。
「そうだねぇ。この子を呼ぶ時にいつまでも『猫』ってわけにいかないし」
「雄だからなぁ。強そうな名前がいいんじゃないかも?」
「リキってどう?」
祖父の言葉のあとに、すぐに反応するように和人が答えた。
「漢字で書いたら力って字で、リキって読むんだけど。ちょっと前から考えてたんだ」
いい名前だと二人も賛成して、猫の名前が決まった。
これから先もずっと、強く生きて欲しいという願いを込めて。
この家には、色々な動物が訪れる。平家作りの古い民家で、台所は昔ながら土間で、寒くなければ昼間のうちは玄関も勝手口も開けっ放しにしているから、動物達が勝手に入ってきたり通たり抜けていく。
この村では大抵どこの家も似たような感じで暮らしている。それでも特に危険は無いし、余分に収穫できた野菜は近所の家の玄関前に勝手に置いていくのが習慣になっていた。
和人の両親は、和人が四歳の時に車の交通事故で亡くなっていた。和人にとっては、その時悲しかった記憶は朧げにあるけれど、まだ幼かったせいで両親に関して覚えていることは少なかった。一緒に過ごした日常の一コマが断片的に思い出される事はあっても、顔さえもはっきり覚えていない。写真で見て、そういえばこんな顔だったかもと思うくらいだ。
それでも、元々一緒に暮らしていた祖父母が愛情深かったので、両親が居ない事を特に辛いとか寂しいと思ったことは無かった。
祖父は先祖代々この村に住んでいて受け継いだ財産もあり、それを運用しながら生活していた。畑もやっているけれど、生活費を稼ぐためというより自分達が食べるためだった。収穫が多かった時は、近所に分けたり良心市や道の駅、通販で売ることもある。和人もその仕事に興味を持って、小学校に上がった頃からずっと手伝っていた。
リキは、半年、一年、二年と経つうちに、どんどん大きくなり、見るからに強そうな猫に成長していった。全体が濃い灰色に近く黒い模様が入っているキジトラで、目は緑色で、普通の猫より一回り体が大きく四肢も太く逞しい。
「リキは?」
「お出かけだよ」
「縄張りの見回りかねぇ」
「今に始まったことじゃないけど、ほとんど家に居ないよね。それくらい元気な方が嬉しいから、まあいいんだけど」
「和人は寂しいか?」
「そうでもないよ。出かけても一日一回は帰ってくるから心配無いし、リキが強くて元気で生きててくれたら」
人口密度も少ない村のことだから、猫が外をウロウロしていたくらいで文句を言う人も居ないし、リキは自由に育っていた。
よく狩りもしているようだったし、他の猫と喧嘩をして返り血を浴びて帰ってくることも度々あった。誇らしげに頭を上げて、のしのしと歩く様子から、勝ってきたんだろうなと分かる。この近所でリキに勝てる猫は多分いないだろうと、和人は祖父母と話していた。
そんなリキも家に居る時はのんびりしていて、夜は大抵、和人の部屋に来て寝る。べったり甘えることは無いけれど呼びかければ鳴き声で応えるし、話しかければじっとこちらを見て聞いているようで、人間の言葉が通じているのではないかと思う時があった。
一人と一匹の生活
和人が中学二年になった年、それまで元気だった祖母が突然倒れた。
まだ残暑の厳しい九月、朝普通に畑仕事に出て、珍しく「気分が悪くなった」と言って家に帰ってきた。
和人が学校から帰ってきた時も祖母はまだ布団を敷いて休んでいた。
「おばあちゃん大丈夫?」
寝込んだ姿など見たことがなかったので、和人は驚いて声をかけた。祖父も心配そうな顔で側に座っている。
「心配かけてごめんね。少し寝れば良くなるから」
祖母は普段と比べると顔色が良くないけれど、和人の顔を見て微笑んで答えた。
「無理しないでね。ゆっくり休んだ方がいいと思うからもう邪魔しないよ。明日元気になれたらいいね。食べたい物とか何でも買ってくるから」
「ありがとうね。和人は優しいねぇ。大丈夫大丈夫。明日になったら多分平気だから」
「ゆっくり休んでね」
そう言って部屋を出た時、和人は何となく嫌な予感のようなものを感じた。気のせいだと自分に言い聞かせて部屋に戻ったけれど、漠然とした不安がずっと心の中にあった。
夜になって布団に入っても、なかなか眠れなかった。
眠れないまま目を閉じて横になっていると、すぐ近くに誰かが居るような気配を感じた。
「おばあちゃん?」
見たわけではないけれど、今ここにいるのはおばあちゃんに違いないと感じて、声をかけたけれど返事は無い。
ほんの一瞬のことで、すぐにその気配は消えてしまった。
そしてその翌日、祖母はあっけなく亡くなってしまった。
心筋梗塞という医師の診断だった。
祖母は日頃から「ピンピンコロリで死ぬ時はあっさりがいい」と言っていたので、願いが叶ったと言えばそういうことになるけれど。
仲が良かった祖父はひどく寂しそうで、急に老け込んだように見えた
。和人にとっても、母親の代わりだった祖母の死は大きなショックだった。
そして、それから約一年後の冬。まるで祖母の後を追うように、祖父までが亡くなってしまった。風邪を拗らせた挙句、肺炎になって死んでしまうまで僅か二週間ほどだった。
祖母が亡くなった時と同じように、数日前から予感のようなものはあった。
病院で亡くなる前の日には、確かにおじいちゃんが自分のところに来てくれたと和人には分かった。
後から思うと、おばあちゃんの時もそうだったけれど、肉体を離れた時お別れの挨拶に来てくれたのかと思った。
和人はついに一人になってしまった。
この時中学三年生で、あと少しで卒業だったから、施設に入れられるようなことはなく住み慣れた家で暮らすことが出来たのがせめてもの幸いだった。
そして、和人にとって何より救いになったのは、リキが居てくれることだった。捨て猫だったから誕生日がはっきりしないけれど、今の推定年齢は三歳。人間で言えばもう立派な大人で、まだ若く活力がみなぎっている。
この時から、一人と一匹の暮らしが始まった。
「ここが、リキの玄関だからな。分かるか?」
和人がやっていることを、横に座ってジッと見ていたリキは、開閉式の扉を前足でチョイチョイと触った。
「それくらいじゃ開かないよ。ここに頭をつけて、こうやって開けるんだ」
和人が、自分の頭を扉に付けて押す真似をして見せると、リキはすぐに分かったらしい。さっそく扉に頭をつけて、グッと押すと扉が開いた。
猫用扉が出来てからリキは、夜となく昼となく気ままに出入りするようになり、今まで以上に自由を謳歌するようになった。
「今日は沢山釣れたからな。生でも食うのか?ちょっとだけ待ってろよ。今から焼くから」
釣りに行く時もリキはついてきて、和人が火を起こして魚を焼く様子もジッと見ていた。
「まだ熱いから待ってろよ。ちょっと冷ますから。待って・・・もう食ってんのか。猫舌ってウソなのかな。それともお前だけ特別?」
リキは熱い物でもけっこう平気で食べた。
「リキ?帰ってきたのか。今日はいつもよりちょっと早いなぁ」
猫扉のパタンという音で、和人が目を覚ました。
「入るか?」
声をかけて、掛布団を少し持ち上げる。
リキは、ゆっくりと体を伸ばしてストレッチをした後、のっそりと入ってきた。
これが日々の日課のようになっている。
リキは夜になると大抵出かけていき、深夜から明け方に帰ってくる。
布団に入るとすぐに丸まってイビキをかいて寝る時もあるし、途中で移動して掛け布団の上に乗ってくることもある。乗られると物すごく重くて、和人は度々金縛りにあったような気がした。
和人が家を直す作業をしている時も、外で農作業をしている時も、家で料理を作っている時も、リキはよく側に座っていた。そして好奇心いっぱいの目で、和人のやっている事をじっと見ていた。「手伝ってくれるわけじゃないけど、お前が居ると不思議と作業が進むよ」
和人がそう言うといつも「ニャオ」と鳴いて尻尾の先をちょっと動かす。
「そうだろう。だから居てやるよ」と言っているように。
和人が話しかけると、時には神妙な顔をして聞いていたり、相槌を打つように「ニャオ」と鳴いたりする。
言葉が通じているのではないかと感じるのは、リキが仔猫の時からずっと変わらない。むしろ日を追うごとに、どんどん深く通じ合えるような気がしていた。
この村では、就職出来る場所は無いし、大学に通うにも遠い。
和人が少中学校で親しかった友達は皆んな、高校卒業と同時に村を出て都会へ行ってしまった。
けれど、和人は都会に行きたいとは思わなかったし、今と違う暮らしをしたいとも思わなかった。祖父母から受け継いだ土地と家を守り、いつも綺麗に整え、畑で作物を作り、作物が沢山採れた時は売りに出かけた。
自分のペースでゆっくり暮らし、料理や掃除洗濯など日々の用事も楽しんでいた。
受け継いだ家があるからここに居なければといった義務感からではなく、ここの暮らしが心底好きだった。
そんな和人の暮らしの中に、いつもリキの姿があった。
人間に媚びることなく常に自由気ままで、猫らしい猫という雰囲気のリキ。
リキも、この家が、この土地が、とても気に入っている様子だった。
あの日から二十年 猫との別れ
和人がリキを拾った日から二十年の月日が流れ、和人は三十二歳になった。体型は十代二十代の頃からほぼ変わらず、平均的な身長、特に体を鍛えているわけではないけれど日々の農作業や薪割りで自然に筋肉が付いて、やや細身ながら弱々しい感じは全く無い。日に焼けた彫りの深い顔は、少年の頃の面影を残しながら精悍さを増していた。
和人の暮らしは、二十年前と変わっていなかった。畑で作物を育て、多く収穫出来た時は車に積んで売りに行った。村人は年寄りが大多数で車の運転をしない人も多いから、代わりに買い物に行ったり、収穫物を預かって売る事もあった。
パソコン作業が苦手な年配者に頼まれて、手伝ったり教えたり、家の修理なども得意なので、頼まれれば直しに行った。
そういったことで少しずつ収入が得られたし、家と土地は元々あるので生きていくには困らなかった。恋愛もそれなりにあったけれど結婚することは無く、受け継いだ家や畑を守りながら、住み慣れた土地で暮らした。
リキは、気が向けば和人の仕事について来たり、来ない時は自由に外を歩き回っていた。
「リキ。こっちおいで」
「今日は魚焼いたから食べる?」
「削りたてのカツオブシ、いい香りでしょう?わかる?おいでおいで。分けてあげるから」
隣近所の人もリキの存在を知っていて、よく声をかける。
仔猫の時からやんちゃで活発で好奇心旺盛だったリキは、外を走り回るのが好きで、近所の人達からもよく知られていた。おやつをくれる人にはちゃっかり寄って行くし、色々もらって食べている。
リキと違って和人は、物静かで口数が少なく、仕事で人に会う以外は一人でのんびり過ごすのが好きだった。和人が隣近所の人と話すのはリキの話題が多く、リキの存在が、和人と村の人達の間をつないでいるようだった。リキが皆を笑わせてくれたり、和ませてくれた。
やんちゃで活発だったリキも、年を取ってくると若い時程は走り回らなくなり、だんだん寝ている時間が長くなってきた。
それでも、見た目の衰えはあまり目立たず、年を取ってむしろ貫禄が増したような感じだった。
猫の平均的な寿命を大きく超えても、まだけっこう元気だった。
和人は、一番の親友であり家族であるリキに、少しでも元気で長く生きてほしいと願った。
それでもやはり、全ての生き物に共通の命の終わりは必ず訪れる。
ある日の午後、和人が農作業から戻ってくると、リキが縁側で寝ていた。
「リキ。寝てるのか」
これはいつもの風景で、ただ静かに寝ているようにしか見えない。
リキの命が終わった事に、和人は最初気がつかなかった。
「リキ?」
何となくいつもと様子が違う。
もう一度呼びかけて体に触れてみた時は、まだ暖かさも残っていた。
「・・・リキ・・・まさか・・・ウソだろ?今朝だって、普通に見送ってくれたのに・・・」
その日の朝も、玄関近くに座っていたリキが、出かける和人の方を見て「ニャオ」と鳴いて尻尾を動かした。
それはいつもと全く変わらない様子だった。
体に触れて、呼びかけて、心臓に耳を当ててみて、リキがすでに息をしていないことが分かると、和人は体の震えが止まらなくなった。リキの体を抱きしめて、狂ったように泣いた。
隣近所の人達が、何ごとかと集まってきた。
何があったか分かると、リキのことを大好きだった皆は一緒に泣いた。
リキが死んだあと、食事も喉を通らず眠れない日々を送っていた和人を、近所の人達は心配して時々様子を見に来た。多く作り過ぎたからと言って、食べやすいおかずを持ってきてくれたりもした。和人はその優しさが嬉しかったし有難いと感じたけれど、それでもなかなか立ち直れなかった。
リキが死んだ冬の寒い日から数ヶ月が経ち、春の気配が感じられる季節になってようやく、和人は日常の生活を取り戻した。
あの時、体中の力が抜けて動けなかった和人の代わりに、近所の人達がリキの体を埋葬した。
綺麗な布に包んで木の箱に入れて、よく日の当たる庭の隅に埋め、石を積んで花の種を撒いた。
今では、墓の周りには春の花が美しく咲いている。
リキが死んだことを認めたくないような気持ちから、その場所を見るのも辛いと思っていた和人も、ようやく墓の近くに行って花を眺め、リキに話しかけるように墓に向かって語りかけるようになった。
「おはよう」
「行ってくるよ」
「ただいま」
「今日は途中で大雨が降って参ったよ」
「今年はキャベツがいい感じに育ってるよ」
「今年も桜が綺麗に咲いたな。来週あたり満開かな」
「タンポポの黄色、見ると元気出るよな」
「そろそろ筍の季節だな。明日あたり採りにいくか・・・柔らかいところは刺身で食べて、筍ご飯、天ぷら、煮付け・・・何がいいかなぁ」
挨拶の声をかけるのは習慣になり、自分の日常の事も色々と話した。
これをやるようになってから、何故か心が満たされた。
姿形は無くなったけれど、リキの存在はまだ近くにあって、いつも見守ってくれているように感じられた。
和人が初めて不思議な体験をしたのは、リキが死んでから半年が過ぎた頃の事だった。

