最後の一人を店に案内出来た
今日になってチラシを見て出てきてくれる人も少しは居た。けれど昨日と比べるとやっぱり少ない。午前中いっぱいで、二人の人を案内したのみ。妨害が入らなかったところを見ると、奴らの側はいよいよ人が少なくなってきたのかと思う。
ポスティングされたチラシを見て自分から外に出てきた人を、店まで案内して事情を話すだけの時は容易い。声をかけるとむしろ喜んでくれるし。
チラシに気が付かないし出てこない人を連れ出す方は相当難しかった。突然訪ねて行っても、訪問販売か宗教の勧誘だと思われて怪しまれる。もっともらしい事を言って出てきてもらわないといけないけれど、その内容をゆっくり考える時間もなかった。
「インターネットを使った詐欺被害が発生していて、そこにお名前が載っていたので・・・・」
「最近この近くでお店をオープンしたという、あなたのお知り合いの方からの紹介で、訪ねてみるようにと言われたもので・・・」
俺達は、出てきてもらうためならどんな嘘でも吐いた。自分が詐欺師になったような気分だけど、気にしている余裕は無い。
しまいには「集団自決と見られる事件が今日起きた事はご存知でしょうか?その場に残されていた情報から、そちら様の個人情報が・・・」という事まで言った。だけどこれに関してはむしろ、はまるっきり嘘でもない。「その場に残されていた情報から」は嘘だけど、実験のサンプルリストに名前その他個人情報が載っていたのは本当だから。おそらく集団自決を装って殺されたのは、あの実験を行っている連中の下で働いていた人達で、サンプルに選ばれてしまった人達だっていつ同じことにならないとも限らない。そんな事にならないうちに何とかしなければと気持ちは焦る。
AIとの会話に楽しみを見つけようとしているくらいだから、孤独を感じている人は多いはず。それから考えると、人から話しかけられるのを嫌悪する感じではないと思うけれど・・・やっぱり、知らない人間が突然訪ねて行けば怪しいと思われる確率は高いらしい。
それでも、若い人の方が比較的素直な傾向。この救出作戦で十代、二十代の担当だった人達は、昼くらいまでにリストに載っている全員を案内して仕事を終えてしまった。
俺達も、それからしばらくして最後の一人を何とか店まで案内出来た。そこからは、他の人達を手伝いに行ったりして過ごした。
上の世代になるほど頑固な人や疑り深い人は多いみたいで、担当した人達はかなり苦労している様子だった。それでも夕方には、最後の一人を店に案内する事が出来た。
どんなに頑固な人でも、自分に危険が迫っているかもしれないと聞くとさすがに無関心ではいられないらしい。詐欺かもしれないと半分疑いつつも、一応聞いてみようという気にはなってくれる。
店まで行くのを躊躇う人には、その場である程度まで話した。防犯カメラで見られているだろうし、会話の内容も盗聴器で聞かれているかもしれないけれど。ここまできて今更それを気にしてもいられない。
実験を邪魔している事が、奴らにバレるのは想定内。もうすでに「何者かが邪魔している」というところまでは知られているわけだし。俺も亜里沙も追われている身で、外見の印象がかなり変わったとはいえ、俺達だと特定されない保証は無い。
けれど不思議と、怖いという感情は湧いてこなかった。世間的には落ちるところまで落ちたわけだし、これ以上特に恐れるものも無いからかもしれない。
ありがたかったのは、最後まで妨害がほとんど入らなかった事だ。しろねこ庵への案内を妨害されたら、こっちも応戦するしかない。その結果が昨日のような事なら、それだけはもう勘弁してほしいと思う。
今日も、見張っている人や追ってくる人が、人数は昨日よりずっと少ないながら居るには居た。けれど、本気で捕まえようとか倒そうとしてきているわけじゃなくて、どうも形だけのような感じだった。捕まえようとしているフリ、追いかけているフリに見えた。
その間にも、街中で人が突然倒れて死んでしまうという現象は続いていて、新しいニュースとして入ってきていた。奴らの側は、逃げ出す人がどんどん増えてきているということだと思う。もしかしたら・・・逃げても消される事は分かっていて、それでも「働きが悪い」と言われて残忍な殺され方をするよりマシだと思っているのかもしれない。
「奴らの側はどんどん力を失ってきていると思う」
若菜さんがそう言ってたけど。なるほどその通りかと思えてくる。
彼らは力を失い始めている
上の立場の存在に対して、恐れ従う人達が居てこそ成り立っているピラミッド型の組織。上に行くほど、その人数は少ない。日本全体でも世界全体でも同じなんだろうけど。下の人達が全員逃げてしまったら、奴らはどうする事も出来ないはず。
この実験にしても、最初は楽しみから入らせてAIに依存させ、次は奴らの思い通りに誘導する段階まで持っていく試みだった。その次にはうまく誘導してマイクロチップを体に埋めさせ、もっと直接的にコントロール出来るようにもっていく。生殺与奪の権も奴らに握られた、命令通りに思考し行動する人間を量産する事が、奴らの最終目標。
働きが悪いと言っては人を次々に殺していっても、どんどん補充出来るように今回の実験を始めたのだと考えられる。
助け出した人達の中には、マイクロチップを体に埋める事をAIとの会話の中で勧められたという人も居た。財布や通帳のように盗まれないし安全だとか、支払いがサッと出来て便利だとか、急病で倒れた時に直ぐに処置してもらえるとか言われて。
俺だって、あのまま行ってたらきっと危なかったと思う。
奴らの側で上の立場に居る人間達は、おそらく全員既にマイクロチップが体に入っている。だから、逃げようとすれば一瞬で殺されてしまう。
自分は「一般庶民より上の立場」で「選ばれた人間」だと信じていた人が、自分も駒に過ぎなかった事を知る瞬間。何だか悲しいなと思う。
奴らの組織の中で、マイクロチップを埋められていなくて自由意志で生きているのは、おそらくほんの一握りの存在達だけ。そこまでの存在は、日本には居ないかもしれない。
本当のトップに居るのは非人類種。人ではない存在だし。この情報も、今の場所に住むようになってから聞いた。
これを知った上で今までの事を振り返ると、なるほどと腑に落ちた。
だから奴らは、どこまでも残酷になれるわけだ。奴らは人間と同じ種族ではなく、人間を自分達より下の存在と見ているから、どんなに残忍な殺し方をするのも平気。むしろ楽しめるという事だ。
世界中で今同じような事が行われているはずだし、全てを止める事は出来ないけど。俺達は俺達の手の届く範囲、少なくとも東京では、この実験を阻止する事が出来た。
「やったね!他の地域でも動き出したよ」
東京以外の場所の人達と、やり取りしていた若菜さんが言った。
「百匹目の猿の話って、ほんとなんだね」
地元の東京では、本人には知らされずに実験のサンプルにされていた百人全員が、そこから離れることに成功した。
俺も最初、その中の一人だった。AIとの会話に夢中になって、奴らの思惑に嵌りそうな時期もあったけれど、これが実験だったという事実を知って抜け出す事が出来た。他の人達も、それを知ったからにはもう戻りたいとは思わないと話していた。
一つの地域でこれが出来たわけたから、あとは同じ事を繰り返せばいい。しかも、こちらが何もしていないうちから、他の地域でも同じ動きが出てきている。
奴らの側は、人が離れて逃げ始めている。上を支えている土台が崩れれば、上は勝手に崩壊するはず。ここまで来たら、ひっくり返すのは難しくないような気もしてくる。
翌日、ここではもうあまりやる事が無く、東京以外の地域の手伝いに行ける人は行こうという事になった。それでほとんどの人が出かけてしまい、いつも人の気配があって活気がある路地の中が、いっぺんにガランとした感じ。とは言っても、ここには樹齢数百年の大木が何本もあったり、自然の草花が多かったり、生命力を感じるものは沢山あるけど。
俺と亜里沙は追われている身だというのもあって、あまり出歩かない方がいいと言われて残る事にした。自分はもう今更怖いものも無いけど、追手が現れたりして他の皆に迷惑がかかっても困るし。
「普段忙しくて細かいところまで出来ないから、今日は店の掃除でもしようかな」
亜里沙がそう言った。
運動がてら、掃除もいいかもしれない。
「いい機会かもね。手伝うよ」
「ありがとう。助かる」
誰も居ない店内で、俺達はゆっくり朝食を取った。白猫が上がってきて、部屋の奥で煮干しを食べている。
破られた結界
今、路地の中に居るのは俺達二人と一匹だけ。賑やかなのも楽しいけど、たまにはこういう静かな時間も悪くないと思う。
昨日一昨日は緊張感もあったし、食事をゆっくりなんてとても出来なかったけど。やっと少し気持ちが落ち着いた感じ。
だけど、よその地域ではまだまだ戦いが続いているわけで・・・ここでも、奴らが今回の事だけで完全に諦めたとは限らない。
満腹になってゆったりと横になっていた白猫が、突然体を起こした。
店の入り口の方を、じっと見つめている。
体の毛が逆立って、何かを警戒するような姿勢。誰か来たのか?
一昨日から「しばらく休業」の案内を店の前に出しているのに。それでなくても普段から、路地の中に住む常連客がほとんどの店で、初めての人というとチラシを見た人が時々来る程度。それに一昨日からは、狙った家にしかポスティングしていない。
「誰か来たのかな?」
「今日人が入ってくる事って無いはずだけど」
「鍵も閉めてるよね」
「閉めてる。まさか、私達のどっちかが見つかったとか・・・」
すぐ近くに、多分入り口に、誰か居るのは間違いない。その人物に聞こえないように、俺と亜里沙は小声で話した。
白猫は、姿勢を低くして入り口の方を睨んでいる。これは間違い無く臨戦態勢だ。
俺も何となくだけど気配で感じる。外に居るのは、俺達に対して友好的な相手ではない。
結界が破られたというのか。
俺は、素早く視線を巡らせて武器になる物を探した。稽古の時に使っている木刀ならある。
相手が、奴らの側の誰かだとしたら・・・最初から武器を持って出たら、更に刺激するだけかもしれない。木刀は、いつでも手に取れる場所に置いておくことにした。
亜里沙の方を見ると、調理場で武器になる物を探しているらしい。
外で突然、ガシャーンという音が響いた。
続いて何かを叩き壊す様な、物凄い音がする。
間違いなく路地の中だ。
近くで窓ガラスが割られたのか。
何かが壊されたのか。
店の入り口ではないけれどすぐ近くだ。
このまま中に居て放っておくわけにはいかない。
「行って見てくる」
「サトル。大丈夫?何人居るかわからないよ」
「放っておけない」
「それはそうだけど・・・気をつけて」
「わかった」
引き戸を開けて外に出ると、近くの建物を手当たり次第破壊している二人の男が見えた。
鉄パイプの様な棒で窓ガラスを破り、鉢植えの植物を棚から叩き落とし、畑の作物を足で踏みつけて荒らしている。
これを見た時、腹立たしいより先に、何とも表現し難い違和感が湧き上がってきた。
やっている事の割に、この二人からは全く怒っているエネルギーが伝わってこない。愉快そうなわけでもない。何の感情も伝わってこない。顔を見ても全く表情が無く、それがかえって不気味だった。
見た目は明らかに人間だけれど・・・生身の人間ではなく、人間そっくりの姿をしたロボットを見ているようだ。
彼らの数メートル後ろにもう一人、立っている人物が居た。2メートル近い長身で、何かゾッとするような冷たさを感じさせる。
こいつがボスなのか。
こいつらは、結界を破って入ってきたらしい。
「サンプルをどこへ隠した?」
その男が、ゆっくり近づいて来てそう言った。
近くで見ると人間の目ではない。瞳孔が縦長になった爬虫類の目だ。血の気のない、蝋の様に青白い顔色で、首筋や手の甲は爬虫類のような鱗に覆われている。支配層の頂点に居る非人類種の血を濃く受け継いだ人間が、こういう姿をしていると聞いた事がある。
体格が大きい事や、見た目に違いはあるものも、それでも人間であるには違いない。戦いになった場合、不死身というわけではないはず。
この人物と対峙していると、何とも言えない不快感と不気味さは感じるものの・・・不思議と恐怖心は湧いてこなかった。
『いついかなる時も己が平常心を保っていれば、相手の心の内は分かる様になる』若菜さんからも、師匠からも教わった事。
怖さを感じないのは、相手のエネルギーから怯えが伝わってくるからだと気が付いた。
もう後が無いという不安感。余裕に見せているけれど、本当は追い詰められた気持ち。
この人物の中には、自分がこれからどうなるのかという怯えと、更に上の立場の者に対する恐怖心がある。
この路地の中に、俺達が助け出した人々が隠れていると思っているのか。建物を次々と壊しているのは、探し出すつもりなのか?無駄な努力だ。誰も居ないのに。
「火を放て」
男がそう言って、持っていたステッキの様な棒で地面をドンと打った。
建物を破壊していた二人が、鉄パイプを捨てて近くの建物の中に飛び込んで行った。
中から火をつけるつもりか・・・
そう思った直後、爆発音が響いた。
ここにある古い建物は思いの外頑丈で、窓ガラスが砕け壁に亀裂が入っても吹き飛ばされる事は無かった。建物を守るように立っている大木も、植物達も、ここを守ろうとしている。
それでも、中にある物が燃えているらしく炎が見えた。
「あの人達は・・・」
建物の方を見ると、入れる状態では無いのが分かった。
煙に巻かれたら自分も無事では済まない。
さっきの人達は、ロボットでは無かったはず・・・この男の命令通りに、何の躊躇いも無く自爆したけれど・・・彼らは生身の人間だったはず。
「そう。生身の人間だ。私の命令に逆らえる人間は居ない。サンプルをどこへ隠した?」
俺の思考を読んだように、男が言った。
俺は、数歩下がって引き戸を開け、そこに置いていた木刀を握った。
こいつは狂っている。
俺達の感覚とは違いすぎる。
話し合って解決できる状況ではない。
木刀を構えて振り向くと、男の姿は見えなかった。
一瞬目を離した隙に。何処へ・・・
辺りを見回していると、店の中から悲鳴が聞こえた。
「亜里沙!」
裏に回って勝手口から入ったのか。
迂闊だった。
俺は、引き戸を開けて中に飛び込んだ。
男が、片腕で亜里沙を押さえつけていた。もう片方の手に持っているのは、さっき見たステッキの様な棒。その先に、刃物が光っている。武器としても使える物だったらしい。
「サンプルをどこへ隠した?そろそろ言う気になったか」
落ち着け。
ここで焦ったら、二人とも助からない。
ここに住む他の人達にも害が及ぶ。
「サンプルにされた人達の行方に、その人は関係無い。だから離せ。俺が知っている事は・・・」
数秒でも時間を稼いで、隙を見て攻撃を仕掛けるつもりだった。
けれど次の瞬間、男が「ギャッ」と叫んで亜里沙を離した。
俺も気がつかないうちに棚の上に移動していた白猫が、男の顔面に飛びかかり鋭い爪を立てたのだ。
男は亜里沙を突き飛ばした。
白猫が地面に飛び降りる。
亜里沙は素早く起き上がり、男の方に向き直った。亜里沙の手に握られているのはアイスピックだ。
隠して持っていたらしい。白猫の攻撃で男の腕が緩んだ瞬間を逃さず、刺したようだ。
亜里沙が刺したのは男の左手の甲で、鱗に覆われた皮膚でもダメージは変わらないらしい。
それでも、男は右手に持った武器を振り回し、攻撃を仕掛けてきた。
怒りに我を忘れている。
俺は木刀を構え直し、次々と繰り出される攻撃を受け止めた。
最小限の動きで、体力を温存する。
呼吸を整え、頭の中をクリアに保つ。平常心。
対決
こいつらのエネルギー源は、人間の発する不安、恐れ、怒りの感情。
エネルギーを与えてはならない。
この男も肉体としては人間に近いはず。
さっきの様に痛みも感じるし、激しく動き回れば体力も消耗するはず。
建物の破壊行動にも、亜里沙を盾にするような卑怯な行動にも、俺は怒りはしない。
こんな奴にエネルギーを与えたくは無いから。
けれど・・・許す事もしない。
攻撃が荒くなり、男の息が上がってきた。
頃合いか。
俺は一歩踏み込んで、相手の脇腹に突きを入れた。
手応えはあった。
次の瞬間、右腕に鋭い痛みを感じた。
何?!・・・
相手の攻撃は躱したはず。
咄嗟にステップバックして距離を取った。
見ると、男の持つ武器の、もう一方にも刃物が光っていた。
持ち手側にも刃物が仕込んであったらしい。
ジワジワと広がっていくのは痛みだけではなかった。
視界がグラリと揺らいだ。
腕に痺れが走り、木刀を取り落としそうになる。
体に力が入らず、前のめりに倒れそうになるのを何とか堪えた。
毒でも塗ってあったのか・・・
俺がここで死ぬのは構わない。
けれど、こいつを生かしてはおけない。
渾身の力を込めて木刀を握り直し、両足に力を溜める。
見れば、相手も無事では無さそうだ。
左手の傷もあり、疲れで息が上がっている。
俺の突きも、確実に入ったらしい。
脇腹の痛みに体勢を崩しながら、男が刃物を繰り出してきた。
さっきまでの勢いが無い。
両側に刃物が付いている武器だと、分かってしまえば避けられる。
攻撃を避けながら、俺は相手の太腿を狙って木刀を振り抜いた。
横からの攻撃は、正面よりも体へのダメージが大きい。
相手が体勢を崩して膝をついたところで、反対側から側頭部を打ち抜いた。
倒れる拍子に男は、石造りの壁に激しく頭をぶつけた。
勝てたのか・・・
それを思った瞬間、意識が遠くなった。
気がついたら、俺は自分の体を見下ろしていた。
俺は死んだのか?
明らかに自分の肉体が、横たわっているのが見える。
この位置・・・上から。
あそこに俺が寝ているのに、俺はここから下を見下ろしている。
そのすぐ近くには血溜まりができていて、さっき俺が倒した男の頭から血が流れているのだと分かった。床に倒れて動かなくなっている男の後ろ、石造りの壁にも血が飛び散っている。
側頭部への攻撃で倒れた時、壁に頭をぶつけたのか。見た感じおそらく、もう生きてはいない。
勝てたのか・・・
毒にやられた俺も生きられないとしたら相討ちか。
だけど何でこんなにはっきり、思考することが出来るのか。
自分はあそこに倒れているはずなのに。
今、それを見下ろしている。
という事は、宙に浮いてる?
俺が二人居るってこと?
ここに居る・・・居ると思っている俺は?
どっちが本当?
そうか・・・俺の意識だけが、肉体から抜け出してここに居るのか。
そういえば以前、若菜さんからそんな事を聞いた。
『人間の本体って肉体じゃなくて意識。意識の方が実は本体で、肉体は言ってみれば乗り物。人間として今の人生を体験するのに、必要な装備みたいな物。だから死ぬという事は、その乗り物から降りるということ。本体である意識はそのまま。消滅する事は無い。人である限りいつか年老いて、やがて肉体の方が滅んでも、今の乗り物の寿命が来ただけのこと。意識である本体には何の影響も無い』
そういえば確かに今、痛くも苦しくも無い。
戦いの最中は痛みもあったし、毒にやられたようで体に力が入らず、頭がガンガンして酷く気分が悪かったのに。
そうか・・・俺はやっぱり死んだのか。
死ぬってもっと苦しみを伴うものだと思ってたけど。何だか知らないうちに肉体からスーッと抜け出しただけで、気がついたら抜けていたという感覚。
誰かが走って来た。
亜里沙だ。
持っているのは・・・水差しと、薬草?
俺の体の上にかがみ込んで、何とか蘇生を試みている様子。
俺も亜里沙も追われている身だから、救急車を呼ぶような事は出来ない。
この路地の中に住む人達は民間療法にも詳しいから、亜里沙も色々教わっていると思う。
『亜里沙の近くに行きたい』
そう思った瞬間、俺はそこに居た。
自分の体を見下ろしていた位置から、亜里沙のすぐそばへ移動したらしい。
涙で顔をグシャグシャにして、俺の名前を繰り返し呼びながら、それでも諦めず何とかしようと頑張っている。
俺はここに居るのに、亜里沙の体に触れる事も出来ないし、話しかけているつもりでも全く聞こえていないらしい。
自分が死ぬのはかまわないと思ったけど、せめて最後に亜里沙と少しだけ話したかった。
数分でも・・・いや、数十秒でもいいから欲しい。
意識と体が離れたという事は、もう戻ることは無理なのか。
それでも、亜里沙が生きていただけ良かった。
俺達に加勢してくれた白猫も、近くに座ってじっと見守っている。
今日は俺達だけしかいなかったけど、この男を倒せた事は大きいと思う。
『他所へ手伝いに行っている他の皆は今頃・・・』
そう思った瞬間、俺は別の場所に移動していた。
もしかして上空を飛んでる?
上から見下ろす感じで、街が見える。
すぐ下に見えるのは見覚えのある車。その後ろの車も・・・
皆んな、行っていた場所から引き上げて、東京へ向かっている。
こっちで何が起きたかは、亜里沙が連絡したに違いない。もしかしたらそれを聞いた誰か戻ってくれるなり、電話で指示を出してくれるのかもと俺も思ったけど。それどころじゃなくて全員戻る様子。違う方面からも、見覚えのある車が2台東京へ向かってるし。
店では、亜里沙がスマホを片手に持ちながら俺のそばについていてくれる。
亜里沙は若菜さんと話している。蘇生の指示を受けて頑張っているらしい。
俺は、色々な場所で起きていることを、間違いなく同時に見ていた。
いくつもの場所を同時に見つつ、そこで交わされている会話を聞いている。
自分の今までの人生で起きた出来事も、全部同時に見えた。
場所とか、時間とか、今まで認識していたような形では存在しないという事が体感的に分かった。
今までの人生で、一度も体験した事の無い感覚。
次の瞬間、雲の上に浮いているような心地よさから一転、一気に体が重くなった。
頭がガンガンする。
胃がムカムカする。
吐きそう。
もう吐くものも無いような気がするけど。
右腕全体に、肩から首筋にかけても、焼けるような痛みが広がっている。
呼吸が苦しい。
さっきまで気持ちよかったのに、何なんだこれは?!
俺は、激しく咳き込んで体を捩った。
「サトル!」
「良かった!」
「ほんと・・・生きてる!」
誰かが近くで大声で喚いている。
頼むから静かにしてくれ。
結末
あの戦いの日から数日、俺は寝床から起き上がれなった。
確実に死んだと思ったけど、生き返ったらしい。
仮死状態というところまでいって、意識が一度体から離れたみたいだ。
正直、あのままの方が気持ちよくて、戻りたくないって一瞬思ったけど。
ここには、亜里沙が居て、皆んなが居て、俺も生きていればやりたい事もまだある。
意識の奥では、今はまだ死にたくないと願っていたのかもしれない。
体の状態が完全に回復したとは言えないけど、命の危機は確実に脱したらしい。熱が下がり、意識がはっきりしてくると、少しずつだけど食欲も出てきて話せるようになった。
あの日に何があったかを、周りの皆から聞いた。
俺達が倒した男は、やはり死んでいたらしい。攻撃を受けて倒れた時、石造りの壁に頭をぶつけたのが致命傷になったようで、こっちは正当防衛と言えると思う。普通なら。
けれど、こいつらの側が世の中を動かしているという事は、そうはいかない。
これまでの人生のほとんどの期間「普通」と信じてた事が、全部でたらめだった事は散々思い知らされた。こっちも、今まで信じていた常識で対応するのは、意味が無いと思う。
男の死体は、皆で穴を掘って埋めたと言う。
庭に死体が埋まってるなんて、あんまり気持ちの良く無い話だとも思ったけど。
意識の抜けた肉体はただの物質でしかないし、土に返せばいい感じで循環するらしい。
そう言われてみれば昔は土葬が当たり前だったわけだし、死ねば分解されて土に還る。それが自然なのかもしれない。
死んだ男は、この地域の中では上の方の立場に居たというのが考えられるけど。それよりも上に居る存在から見れば結局駒に過ぎなかったらしい。むしろ普段表に姿を見せずに活動していたようだから、死んだとか行方不明になったなどのニュースも出なかった。こっちとしてはその方が助かるけど。
あの実験に関しては、日本のどの地域でも同じような事が起きて、奴らの目論見は完全に失敗に終わった。ほとぼりが覚めた頃にはまた、新たにろくでもない実験を始めようとしないとも限らないけど。
街の様子を見に行った人達の話によると、あの時をきっかけに確実に何か変わってきているらしい。
以前は、電車に乗れば全員スマホを見ているし、スマホを見ながら歩いている人は多いし、ベビーカーに乗っている子供までスマホを持っているというのが当たり前の光景になっていたけれど・・・今は、それが無くなってきているという。
それに伴って、人々のエネルギーの質が変わったようで、街全体の雰囲気が変わってきたという事だった。
外に出られる体調になったら、その光景を一度見てみたいと思う。
俺達の小さな行動でも、ほんの少し、何かを変えられたのかもしれない。
完
